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討論:政治思想史

「世界とは何か」という問題に関する討論会を主催する。なお、これは、政治学説の学習だけではなく、「自己とは何か」という問題とも関連している。自由な討論をお願いする。なお、締切は、1月29日である。字数は、2000字くらいである。コメント欄に貼り付けて下さい。

1月30日をもって、締切ました。討論ありがとうございます。

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コメント

 論題として与えられたのは「現在の自己を省察しながら、世界に関する表象を明確にする」こと。前回の講義では「私にとって世界とは何であるのか」といった噛み砕いた説明をして貰えたものの、見識の狭い私にとってはこれを上手く述べられるかかなり不安であった。それだけ世界というのは一言で捉えにくいものなのかも知れない。
 そもそも、世界を動かしてきた政治思想と、私自身の哲学・思想といったおよそそう呼べるかも分からない曖昧な物の間を上手く繋ぎとめられるものかと最初は考えていた。しかし改めて見返すうち、その疑いも少しずつ晴れていった。私を最も惹きつけたのは「哲学を最初に拒否したのは、大衆である」といった部分で、特定の誰かの言葉ではないのかも知れないが、ブルーノ・バウアーの章に書いてあったものだ。ブルーノ・バウアーの考え方は勿論全て完全に理解したとは言えないものの、ある程度理解出来るとは個人的に考えている。マルクスの考えに賛同しているいないの話ではないが「宗教は阿片である」という先立った思想を持っていたのにも興味がある。
 ここで私自身の話と結んでいくが、まず、初めに挙げた哲学と大衆との対立についてだが、残念ながら私はその大衆の方に含まれるのかも知れないと考えている。私は特定の宗教を信仰してはいないので彼のようにとはいかないが、ある種無神論者だと言える。だからといって、何かを信仰する人々に批判的な感情を抱いた事もなく、寧ろ私利私欲を崇めているとさえ言えるだろう。そして、周囲と一緒になってそれを諌めようとする哲学(もしくはそれに似た存在)を拒否し、自ら損な状況に陥れている可能性も否めない。勿論、そういった状況に胡坐をかかず変えられるものなら変えてみたいとは思うものの、それこそ当時の無神論者のような異端者(今で言うなら変に哲学に感化させられてしまった人?)になりかねないだろう。いま偶然、ニュース番組でとあるスケート選手の紹介として「氷上の哲学者」などという表現を使っていた。その「哲学(者)」を解説文としては一見真面目そうな青年の表象としているものの、全体の構成としては「周囲からはちょっと変な目で見られている人」程度の扱いにしかなっていなかった。話は戻るが、強引に言うと大衆にとった哲学の存在がいま垣間見えたような気がした。
 この世界で、いま現在の私からその先の私は一体どうなっていくのだろうか。哲学に感化され今の自分を見直し、改善する動きを始めるだろう。世界への波及と言った壮大な事は出来ないかもしれない。しかし少なくとも私の見る世界といったものは大きく変化させられるだろう。半ば逃げ口上のような強引な文章となってしまったが、後々マルクスへと引き継がれ最終的には否定されていってしまった彼の哲学、もとい哲学を軽視せず、かといって誰かに無理強いすることなくこれからの生き方に役立ててみたいものだと私は考える。

投稿: 直情径行 | 2014年1月29日 (水) 23時59分

 世界はランキングにあふれている。そして、それによって人や物に対する評価や態度が変わることもよくあることである。テレビや雑誌を見たとき、「○○ランキング」という内容の番組や特集をよく目にする。この世はあらゆる人びとによって定められたランクに多くを左右されている。特に日本人はランキングを信頼し好んでいると感じられることが多い。ランキングとは私たちにとって、どのような意味合いを持つのだろうか。現代人、特に日本人はランキングを好む傾向が強いということも考えられる。こういった考えを中心に、ランク付けをしたがる私たちについて以下に述べる。
 私たち、特に日本人は、物事に対するランク付けを気にし、また同時にランク付けを好んでいる。まず例にあげるのは、学歴である。「この人は有名大学に通っている。」「彼は高校中退だ。」よくこういった学歴についての話題が出てくる。これは学歴を気にする人が多いからだといえるだろう。その人へのイメージに、学歴が与える影響はとても大きい。例えば、私自身、学歴の高い人は金持ちだ、というイメージを持っている。実際、世帯収入が多い人の進学率が高いということも言われており、収入の格差と学歴には深い関係があるといわれている。金持ちであればいい教育をうけ、高等教育機関に進学し、よい就職先を選択できる、といったことを想像するからだ。私自身の経験から話すと、高校時代の先輩で東大に行った人や、中学時代の友人の中にも有名な大学に進学した人に対して向けられる視線は、自分も含め周りもどこか違っているし、彼らの行為に関しても、なんとなく納得したり、ある程度許してしまうようなことがあった。また、学歴の高い人がテレビや本などで主張したことには、説得力があるように感じられ、つい納得してしまう、ということもある。このように、学歴が与えるその人への影響は大きく、私たちがランク付けを気にしていることがうかがえる。
 最近のテレビを見てみると、ランキングを発表するといったものが多く見られる。国と国、都道府県のランキングなど様々だ。また、芸能人があることに関して自身の格付けを発表するといった番組もある。このようなランキングはエンターテイメント性があり、見ていておもしろいと感じる。では具体的に、なぜ我々はランキングを好み、テレビや雑誌などで多く取り上げられるのだろうか。まず一つあげられるのは、自分の趣味、趣向などがランキングの中で上位だと、安心できるということが考えられる。例として自身の体験をあげる。ある日、「優しい国はどこなのか」というテーマで、日本を含めた数か国で実験を行い、ランク付けをするというテレビ番組を見た。実験の結果、日本が一位という結果が出た。そのランキングに信憑性があるかと言われればわからないが、それでも自分の住む日本が一位という結果がうれしく、誇らしい気持ちになった。また、逆に日本が他の国に比べて不十分な部分があることも別のランキングから実感できた。他に次のようなことがあった。雑誌のランキングを見ていて、自分の買ったものがその上位になっていた。それを見てうれしい気分になったことを覚えている。
 こういった自分の体験から考えたこととして、ランキングを通して、私たちが自分の属している社会が、他に比べて勝っていることを実感することができるということがある。自分たちの優劣を確認しようとした時、ランキングはそれが一目でわかる。詳しい説明を省いたとしても、わかりやすく結果を知ることができ、便利なのである。次に、自分の選択が間違っていないといった、安心感を得たいのではないかと考えた。自分が買った洋服、食べ物、応援している芸能人の人気度など、自分が何かを選んだり、好きになったものが、ランキングで上位だった時、周りの共感を得られたと感じうれしいと思えたり、周りと同じだ、ということを感じて安心できるのではないだろうか。これは特に日本人に多いと思われる。また逆に、商品の売れ筋ランキングなどを見て、「みんながいいと思うなら」と思い、購入する人も少なくないだろう。ランキングは自分だけでなく他人の考えや趣向を気にする人にを満足させられるものだと考える。
 ここまで、私たちがランク付けを好むことについて述べた。ランキングが存在しなければ、物事の優劣がはっきりせず、困ることがでてきたり、詳しい説明を要したりする。また、競うことが少なくなり、向上心や意欲といったものが低下してしまうとも考えられる。そういったことを考えると、ランキングはとても便利だと考えられ、私たちはこれからもランク付けを行っていくだろう。

投稿: 七転八倒 | 2014年1月29日 (水) 22時19分

 私は今まで、他人より、固定観念や、それによる差別ということについて、思慮深いと思い込んでいた。なぜなら、成長し、世界の物事をある程度理解できるようになってきて、それに直面した時、他人よりも本質を見ることができていると思っていたのである。具体的に言えば、テレビで、ホームレスの問題が特集されていたのをみたときだったのだが、それをみていた母が、彼らを侮辱するような言葉を次々と発したのである。最初は気にも留めていなかったが、だんだんと違和感が湧いてきて、母に対し、「皆が皆、ホームレスになるべくしてなったわけじゃない」といった反対意見を呈したことがあった。この出来事を自分自身で意識しだしてから、私は、周りの大人より思慮深いという考えに至ってしまったのだ。このことが、この文章をかくにあたって自分の世界に対する表象について考慮していくなかで、どれほど危険なことかということに気付いた。
 私は、よくニュースで、沖縄に駐在しているアメリカ軍の兵士が、地元の女性相手に性的暴行を働いたとか、兵士の子供の悪ふざけが過ぎて人が死んでしまったということをきいて、やはりアメリカ軍は暴力的だとか、日本人を見下しているとか、やっていいことと悪いことの区別もつかないという観念をアメリカ軍全体に対して、持っていたし、実際にそう思っている人もいるし、沖縄の人々は尚更だ。私はこの文章を書き始めるまで、当たり前のようにそう思っていた。しかし、そういった犯罪行為を働いているのはごく一部の人間なのだ。そのごく一部の人間が起こした悪事によって、アメリカ軍全体が暴力的で、分別が無くて、日本人を卑下しているという考えを持ってしまう。少なくとも私は、そういった考えを持ってしまった。しかし、これこそが、ごく一部を除いたアメリカ軍の兵士を見下しているということにならないだろうか。このことから、私たちは、相手が自分たちに対して思っているだろう、と自分たちが感じていることは、実は、自分たちが相手に対して思っていることなのだ。逆に言えば相手の側も自分たちに対し、何らかのコンプレックスを感じ、自分たちを軽蔑している可能性が高いのである。身近な話で考えてみても、私の経験上では、自分があのひとは嫌いだとか、苦手だとかという印象を持っていると、大概、相手の側も自分にネガティブな印象を持っているものである。このように印象というのは双方向性があるのだ。前述のアメリカ軍の話に戻るが、東日本大震災が起こったとき、「オペレーション・トモダチ」と称して真っ先に大規模な援助をしてくれたのは、他でもないアメリカ軍である。もちろん、日本に良い印象を与えておこうとか、外交をスムーズに行えるようにというような多少の下心が相手にはあったかもしれない。しかし、助けてくれたのは紛れもない事実なのである。下心が物事の本質のように思えるが、助けてもらったという事実こそがこの出来事の本質なのだ。もちろん日本も、アメリカに対して様々な援助を行っている。しかし、そのことにも下心が全くないとは言えないはずなのだ。そうでなければ、大切な自国民を危険な戦地に送りこんだり、海賊のいる海域での任務に派遣したりといったような犠牲を伴う可能性のあることなどしないはずである。つまり、ここで私が言いたいことは、お互い様だということだ。人と人や国と国などの思考を持った個体が関わり合うときには必ずそれが起こるのだ。
 以上のことを踏まえ、最後に世界に関する表象を述べていく。私は、世界の物事の本質、特に人間、国家、宗教に関する問題を真に見極めるためには、まず世の中の全てを疑ってかからなければならないのだ。それは、もちろん自分も含めてである。そうでないと世界の出来事に対して、立場が同等にならず、見極めるという行為には至っていないのである。これが、私が最近発見したお互い様ということである。世界を疑うということは簡単なことではない。なぜなら、世界を疑う自分も疑い、その疑った自分すらも疑い、といったように終わりが見えないことだからである。つまり、世界は、自分も含め、全ての物事に疑いを持たなければならないものなのだ。

投稿: 少食動物 | 2014年1月28日 (火) 21時20分

所詮世の中金である、というのが私の持論である。これは人が「金(カネ)」という概念を作りだし、自分にとっての利益や得と言ったものを考え始めたときから成立したといって良いと考える。縄文時代や弥生時代などのように自給自足の生活をし、共に協力し合いながら生きるために生きているのではなく、豊かで贅沢な暮らしをしたいと人々が思い始めたときから、「世の中金である」と言う考えが生まれたのだ。この「世の中金である」という言葉は漫画や小説、ドラマなどでは一般的に言って裕福な立場の者が、貧しい者に対して吐き捨てる場面が多くみられる。それに対し、貧しいものが「金で買えないものもある」と反論するのがセオリーだ。数年前のテレビCMでも、よく「プライスレス、お金で買えないものがある」など言ったフレーズが使われていたが、あれは真っ赤なウソではないだろうか。では「世の中金である」と言った考えを持っている私は裕福な家庭で育ち、金でなんでも解決しているのか、というと決してそうではない。むしろ私は平均的に見ても経済的にはかなり困窮している立場だ。だが、困窮している立場だからこそ「世の中金だ」という考えが痛いほどによくわかる。そこで、この私の世界に対する持論を自己の経験を踏まえながら論じていきたいと思う。
 まず、私は5歳の時に父親を亡くし、母も精神病を患っており定職に就くことが出来ず私が高校生になるまでパートすらできない状況にあり、収入は遺族年金のみであった。2つ下の弟と5つ下の妹もいる4人家族で、年収は180万円ほどだ。食事はいつも一品料理で服も近所の方からのお下がりばかり、新しいものを買ってもらった記憶がない。友人がテレビゲームや漫画を買ってもらい学校ではその話題で持ちきりだったときは、もちろんそんなものを買ってもらえるはずもなく会話に入り込むこともできなかった。おまけにいつも同じ色あせた服を着ていれば、同級生にからかわれる対象にもなる。小学校低学年ながら、「なぜ私には父親がいないのか」という疑問を抱くと同時に、すでにその時から「お金がなければ何もできないのだ」という考えが芽生えていた。
 ほんの一部の秀でた才能や頭脳を持っている人ではない限り、育つ家庭が裕福かそうでないかでその人の人生が決まると言っても過言ではないだろう。たとえば、ピアノに関して素晴らしい才能を持っていた少女がいたとしよう。だがその子の家は非常に貧しく親はその子にピアノを買ってあげることもできないし、ピアノ教室に通うことも部活動に入ることもできない。たとえその少女が将来ピアニストとして活躍できるだけの才能を持っていたとしても、金がないために彼女の才能は埋もれてしまうのだ。では、もっと身近で最もよく「世の中金」を表す例を挙げてみよう。それは、高校生になった子ども(中学生の場合もあり得るが)が自らの進路を選択するときだ。たとえ学習意欲があり、またそれ相応の学力を持っていたとしても、経済的に余裕のない家庭では大学に進学することが出来ない子供は実際に少なくない。普通、大学受験の際は自分の学びたい分野のある志望校を受験し、失敗した場合は滑り止めの大学へ進学したり、または浪人して予備校に通うなど進学の夢を実現させるための方法はいくつかある。だがそれはすべて経済的に余裕がある家庭の場合だ。国立大学は学費も安いし奨学金と言う手もあるが、それはあくまでも私立大学と比べて割安なだけであり、学費だけならまだしも家賃や生活費などのすべてを奨学金で賄うことは実際に困難である。このように、家庭の経済状況によってその後の人生が左右されるというのは納得できるであろう。
 友達や思い出、愛、命などはよく金では買えないと言われる物だが、よく考えてみるとそれらすべてを得る過程で必ず金が必要となる。たとえば、友達と出会う場である学校や習い事、思い出を得るための旅行や趣味に時間を費やすこと、好きな人に振り向いてもらうための自分磨きやお洒落、病気を患ったときに病院に掛かったり、子供を産むときの出産費用やその後の養育費など。数えればきりがないほど挙げることが出来てしまう。物々交換が成り立ち、生きるために生きていた原始時代ならまだしも、この現代の社会を生き抜くうえでは人は人との関わりを持たなければ生きてはいけないし、その関わりを持つためには必ず金が必要になってくるのだ。もしあのとき私の家庭が一般家庭並みの経済力があったなら、友人の会話の中にも入ることが出来たし、服のことで馬鹿にされることもなかったであろう。世界は実に不条理で不公平で不平等であり、金がなければ生きられない「世の中金」であるのだ。

投稿: 臨機応変 | 2014年1月28日 (火) 17時00分

                  (教育大生)
 私は「世界とは人間である」と世界を捉えている。人間がいるから国ができ、人間が便利な生活を求めるから国が繁栄し、他の国のものを自分の国に取り入れようとするから貿易ができる。また、科学技術や医療技術、便利な機械を発明して発展させてきたのも人間である。ひとりの人間がほかの人間と出会い、子どもを産んで、伝統や習慣などが受け継がれる。そして、子孫を残すことが途切れることなく繰り返されることで、大昔から現在まで国や世界が滅びることなく続いている。これは未来でも続くことだろう。このように人間は、子孫を残すことや技術の発展など、多くのことを担ってきたのである。ここまでは人間の素晴らしさや良いことだけを述べてきたが、悪いことも多くある。はじめに戦争である。人間同士が戦い、命を奪い合う。戦いたくないと思っている人や戦争に関係のない人まで殺されてしまう可能性がある。また、戦争に負けてしまうと勝った国に領土を取られることや、従うことになり、平和な日常がすべて奪われてしまう場合もある。次に、環境についてである。人間が便利な生活を求めるあまり、排気ガスや工場の煙が出て、森林伐採をおこなうなどをしたために環境に悪影響が出ている。地球温暖化や環境問題について近年よく考えられるようになっているが、それは先進国の一部の人間が今までおこなってきた代償であり、何も悪いことをしていない発展途上国の人にも影響を及ぼしているのである。以上のことから、私が世界とは「人間」である、と考える理由は、世界には多くの国があり、さまざまな人種の人がいる。多くの人々の行為や思想のひとつひとつが、何らかに影響を与え、世界を成り立たせていると考えたからである。
 世界の人口は2011年に70億人を突破している。また、2050年には96億人に達すると予想されている。世界の人口は増え続け、これからも増えると予想されている。先進国と発展途上国を比較してみると、発展途上国のほうが人口が多く、子どもも多く生まれている。人口爆発が起きているのである。しかし、発展途上国は環境が良いわけではなく、年間に死に追いやられる子どもが約1200万人で、その大部分が発展途上国の子どもである。原因は飢えや病気、戦闘の犠牲などである。5歳以下の子ども1000人当たりの死亡率を見てみると、発展途上国は200を超える数字になる。これは5人に1人が死亡していることを表している。ちなみに日本は1000人に6人である。また、死に追いやられなくても、紛争の中で生活する子どもたち、ストリートチルドレンとして生きている子どもたちなどが多くいる。また、世界の教育問題として、学校に通えない子どもは約5700万人、読み書きのできない大人は約7億3500万人いると言われている。発展途上国では、子どものころから家の手伝いや仕事に出ているために教育を受けられないまま育ち、大人になっても読み書きや計算ができないために仕事に就けず、子どもができても経済的な余裕がなく、学校に行かせてあげられないという悪循環が起きている家庭が多い。このような問題に対しては、ユネスコなどの国際的な機関が問題解決に取り組んでいる。子どものころに死んでしまったり、病気になったり、飢えに苦しんだり、教育が受けられなかったり、日本を含めた先進国では考えられないようなことが世界では起きているのである。
 私の考えとして、人間は良い影響も悪い影響も与え、世界を成り立たせていると述べた。先進国と発展途上国の格差はとても大きいものである。しかし、環境に悪影響を与えて、発展途上国の人々が苦しむきっかけになっているのも先進国の「人」であり、戦争しているのも「人」である。また、ユネスコなどの国際的な機関で発展途上国の人々を助けようと活動しているのも「人」の協力によるものである。世界で起きるすべてのことに人が深く関わっていて、問題を起こすのも解決するのも人の手によるものだと考える。ひとりでは大きな問題を起こすことや解決はできないかもしれないが、大人数では大きな影響力がある。問題の発生や解決が自然にできず、人の手にゆだねられていると考えると、世界の中で人間は大きな存在であり、人間がいることで世界が構成されていると私は考える。
〈参考文献〉
・国連人口基金東京事務所、資料と統計
(2014年1月26日取得、http://www.unfpa.or.jp/publications/index.php?eid=00033)
・名工大生協学生委員会 平井誠治『発展途上国の子供たちの悲劇をなくすために私たちができる事』
(2014年1月26日取得、http://seiji.tripod.com/unicef/unicef_outline.htm)
・日本ユネスコ協会連盟『世界が抱える教育問題』
(2014年1月26日取得、http://www.unesco.or.jp/terakoya/issue/)

投稿: 教育大生 | 2014年1月27日 (月) 19時23分

有言実行
「世界観」
 
  我々は「音楽」がなければ生きていけない。音楽がこの世になければ非常につまらない世界になっているのではないだろうか。
我々にとって音楽は自己を表現するひとつのツールである。音楽は自分一人で楽しむこともできるが、音楽を通して他人に気持を伝えることもできる。たとえば、日本では音楽番組が多く放送されており、人気がある。音楽が日本全体に発信され、我々がそれを聴くことで楽しい気分になったり悲しい気分になったりする。それは、詩だけではなくメロディーを歌から読み取ることもできるため、歌手‐他人‐からのメッセージを非常に強く受け取っているからだと考えられる。また、歌手はとても多く存在していて曲もどんどん新しいものが生まれている。やはり、我々が歌を求めているということにつながるのではないだろうか。
 次に、音楽を自分で楽しむことについて考える。我々は音楽を通して他人にメッセージを伝えようとしていることはわかった。我々は、自己を高めるために音楽を聴いていることが多々ある。例えば、大切な試験の前やスポーツの大会の前に集中力を高めたり、落ち着かせるために音楽を聴くことがある。さらに、好きなアーティストのCDをたくさん集めて満足したり、音楽を通してアイドルに夢中になる人も最近では多い。AKBやモーニング娘だったり、嵐、SMAPなど、様々なアーティストがいるが、上記で述べたように我々に何らかのメッセージを投げかけている。そのメッセージに共感したり、うまく受け取れると自分の好きなアーティストが決まる。そして、各個人が好きな音楽を聴くという行為に発展していく。また、「音楽を聴く」という行為だけではなく「歌う」という行為も我々には浸透している。それがカラオケである。カラオケは日本発祥であり、非常に人気で一人カラオケも流行っている。好きな曲を自分の好きなように歌うことが自己を表現することに繋がったり、ストレス解消を目的としていることがある。このように、音楽を通してメッセージを受け取るという受け身的行為の他に能動的行為も行っているのだ。我々の生活に音楽が深く根付いていることがよくわかる。我々の生活には音楽が密接に関わっていて、イベントごとに音楽が決まっている。クリスマスソング、バースデーソング、お祭り、など街中にこの曲が流れだすと一気に季節感が増す。さらに、大みそかには紅白歌合戦が放送されることも日本の特徴である。音楽と我々の生活の関係は深いものになっている。
 さらに、歌詞がついていない音楽も我々に重要なものとなっている。例えば、映画の各場面にながれるサウンドは、その場面を怖く感じさせたり、楽しくしたり、これから起こる出来事を予感させる役割を果たしている。音楽は我々に非常に強い影響を及ぼしていることがよくわかる。また、オーケストラが演奏する音楽を聴いて感動し、涙を流したりスタンディングオベーションをしたり、音楽が我々の心に響いているのは確かだと言える。
 我々にとって「音楽」は世界共通である。日本のアーティストが海外でライブをする、海外のアーティストが日本でライブをする、海外のアーティストが日本語で歌うなど音楽が多様化してきている。日本のアーティストは海外でも人気が高く、歌詞やメロディーなど広く受け入れられていることがわかる。さらに海外のアーティストも日本ではとても人気で、特にレディーガガは楽曲のみではく、奇抜な衣装も注目を集めている。音楽は、国が違うとしても聴いている人を勇気づけたり、幸せな気持ちにしたり、または悲しくさせたりと人々の心に訴えかけるものは変わらない。
 もし、この世に音楽がなかったらどのような世界になっているだろう。きっと、我々は非常につまらなくて退屈な毎日を過ごしていることだろう。テレビから聞こえてくるメロディーがなくなり、一年を通して音楽によって表現される季節感を味わうこともなくなってしまう。他人から音楽を通してメッセージを受け取ることもできなくなり、楽しい気分や幸せな気分になること、感動して涙する機会も減ってしまうだろう。また、音楽を通して他人にメッセージを伝えたり自己を表現することもなくなる。自分の好きな曲を歌ったり聞いたりして自分を集中させることもできなくなる。音楽がない世界は、他人と関わる手段をも減らし、感受性や人間性までも奪ってしまう。我々は、非常につまらない世界だと感じるだろう。「音楽」は有意義な世界を作り出す構成要素のひとつとして存在している。

投稿: 有言実行 | 2014年1月26日 (日) 21時16分

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