社会思想史という学問の衰退――経済学の純化と周辺的学問の衰退
20131205 社会思想史という学問の衰退――経済学の純化と周辺的学問の衰退
日本学術会議は経済学の教育参照基準を以下のように定義しようとしている。すなわち、ミクロ経済学、マクロ経済学、および統計学の特定科目を基礎科目と位置づけようとしている。社会思想史は言うに及ばず、経済思想、経済思想史、経済哲学、経済史等が、この基礎科目から除外され、周辺化される。基礎科目から除外されてきた科目群は、経済学部の必修科目から除外される。
この学術会議の提案は、数年の議論を経て現在、その最終段階にきているのであろう。先月、この提案に関する署名のメイルが学会経由で私のところにもきている。遅きに失していると言わざるをえない。
さて、この提案は何を意味しているのであろうか。人間の経済的行為を数学的世界像によって表象しようとする。しかも、この提言には盛られていないが、間接的にはそれを英語という言語によって表象すべきことは前提にされている。近年の「グローバルスタンダード」を体験せざるをえなかった者にとって、この趨勢は必然のように思われる。ミクロ経済学、マクロ経済学、および統計学を学ぶ学生にとって、数学と英語が最重要になる。逆にいえば、要求されている基礎知識は、この二つでしかない。教養課程において習得されるべきと考えられてきたドイツ語もフランス語も、そしてロシア語もほぼ無駄に近い。学生時代、英独仏露の四つの言語を習得すべきであると教えられた。さらに、ラテン語も。その努力はほとんど無駄であった。もちろん、老年になり、外国語使用頻度も減少しているが・・・。
もちろん、学術会議が提唱する以前から、このような傾向にあった。マルクス経済学だけではなく、経済理論等もほぼ消滅する傾向にあった。とりわけ、社会思想史という学問は、現在の経済学部、社会学部からはほとんど消滅している。もっとも例外が慶應義塾大学経済学部である。ここでは、英仏独に対応する三人の社会思想史研究者が講座を占めている。しかし、それ以外の経済学部、社会学部等で社会思想史研究者は、その定年をもって放逐されるであろう。学部の講義科目から除外されるということは、大学院でどれほど勤勉に社会思想を研究しても、大学への就職はほぼ絶望になる。そもそも学部教育にとって無用な学問を討究しても、大学への就職はできない。否、勤勉であればあるほど、絶望の度合いが増す。そのような研究者を数多く知っている。博士号を複数取得し、学術著書を数冊を持っている優秀な研究者は、数多い。
しかし、周辺科目としての社会思想史を除外して、人間を概念的に把握できるのであろうか。数学的世界像とは異なる世界像を構築できたのだろうか。現在までの社会思想史、及びそれに近接している政治思想史はたんに著名な学者を羅列したにすぐない。たとえば、ルソーを研究し、その思想的細部を討究しても、社会思想の全体像が理解できるわけではない。社会思想史という学問体系が問われている。落城直前になって、自己をイノベーションしなければならない。ほぼ、絶望的状況に置かれている
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