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一期一会と、老教授との30年振りの再会

20131223  一期一会と、老教授との30年振りの再会

 

 この夏に、東京で学部時代にお世話になった老教授、大学院時代にお世話になった壮年教授、そして学部時代からの友人である少壮教授と会う機会があった。彼らはその独自の人生と学問的途を歩んでいる。当然のことである。とりわけ、30年間一度も会わなかった老教授と会うことができ、感涙の極みであった。もちろん、学会等で挨拶を交わしたり、講演会を聞いたりしたことはこの間にもあった。研究会で特定の学問的主題に関して議論したこともあった、しかし、自宅を訪れ、数時間を二人だけですごすことはなかった。

 この老教授の自宅を訪れたのは、生涯でそもそも二度きりであった。私の学部時代の血気盛んな時と、今回の訪問だけである。30数年前と街の風景も一変していた。住所はそのときと同じであったが、正確な場所を探し出すために小一時間を要した。私が初めて自宅を訪れて不躾なお願いをしたことを、老教授は今でも面白がっていた。赤面のいたりであった。

 老教授は30数年前とほぼ同様な研究課題を追求していた。その主題に関して現在の私も、そして過去の私と同一の場所に立っているかのような錯覚に襲われた。しかし、現在の私は、同じ場所をほぼ正反対の視角から眺めている。おそらく、老教授もそのことを感じていたに違いない。その後、電話で長く話す機会があり、涙が出そうになった。もはや、学問的立場が異なってしまったからだ。30数年前には、私の思想も萌芽的状況においてしかありえなかった。また、この30年の経験は私の学問的立場を決定的に変化させた。

それでも老教授に対する尊敬の念を喪失することはない。そして、壮年教授と少壮教授に対しても。私は学問的指導者に恵まれているのかもしれない。

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官僚機構における書類改竄――書類至上主義という病理

20131209 書類至上主義という病理――下部組織における書類改竄に関する政治学的考察

 

官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に挙げる書類を改竄する。この書類改竄の第一の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることである。現実態とは異なる事実を記載することによって、降格、解雇さらに刑事訴追等から下部組織は逃れる。労働者の現在の地位と賃金は、安泰である。

第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織はなお馬鹿である。

この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機と相似している。毎日のように、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる。それによれば、旧ソ連では十分すぎる食糧があった。輸出も可能であった。しかし、街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。ソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソビエト連邦共和国自体、そしてソ連共産党が崩壊した。

官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる集団的健全性が求められている。

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社会思想史という学問の衰退――経済学の純化と周辺的学問の衰退

20131205 社会思想史という学問の衰退――経済学の純化と周辺的学問の衰退

 

日本学術会議は経済学の教育参照基準を以下のように定義しようとしている。すなわち、ミクロ経済学、マクロ経済学、および統計学の特定科目を基礎科目と位置づけようとしている。社会思想史は言うに及ばず、経済思想、経済思想史、経済哲学、経済史等が、この基礎科目から除外され、周辺化される。基礎科目から除外されてきた科目群は、経済学部の必修科目から除外される。

この学術会議の提案は、数年の議論を経て現在、その最終段階にきているのであろう。先月、この提案に関する署名のメイルが学会経由で私のところにもきている。遅きに失していると言わざるをえない。

さて、この提案は何を意味しているのであろうか。人間の経済的行為を数学的世界像によって表象しようとする。しかも、この提言には盛られていないが、間接的にはそれを英語という言語によって表象すべきことは前提にされている。近年の「グローバルスタンダード」を体験せざるをえなかった者にとって、この趨勢は必然のように思われる。ミクロ経済学、マクロ経済学、および統計学を学ぶ学生にとって、数学と英語が最重要になる。逆にいえば、要求されている基礎知識は、この二つでしかない。教養課程において習得されるべきと考えられてきたドイツ語もフランス語も、そしてロシア語もほぼ無駄に近い。学生時代、英独仏露の四つの言語を習得すべきであると教えられた。さらに、ラテン語も。その努力はほとんど無駄であった。もちろん、老年になり、外国語使用頻度も減少しているが・・・。

もちろん、学術会議が提唱する以前から、このような傾向にあった。マルクス経済学だけではなく、経済理論等もほぼ消滅する傾向にあった。とりわけ、社会思想史という学問は、現在の経済学部、社会学部からはほとんど消滅している。もっとも例外が慶應義塾大学経済学部である。ここでは、英仏独に対応する三人の社会思想史研究者が講座を占めている。しかし、それ以外の経済学部、社会学部等で社会思想史研究者は、その定年をもって放逐されるであろう。学部の講義科目から除外されるということは、大学院でどれほど勤勉に社会思想を研究しても、大学への就職はほぼ絶望になる。そもそも学部教育にとって無用な学問を討究しても、大学への就職はできない。否、勤勉であればあるほど、絶望の度合いが増す。そのような研究者を数多く知っている。博士号を複数取得し、学術著書を数冊を持っている優秀な研究者は、数多い。

 しかし、周辺科目としての社会思想史を除外して、人間を概念的に把握できるのであろうか。数学的世界像とは異なる世界像を構築できたのだろうか。現在までの社会思想史、及びそれに近接している政治思想史はたんに著名な学者を羅列したにすぐない。たとえば、ルソーを研究し、その思想的細部を討究しても、社会思想の全体像が理解できるわけではない。社会思想史という学問体系が問われている。落城直前になって、自己をイノベーションしなければならない。ほぼ、絶望的状況に置かれている

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