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真宗大谷派関係各位に対する陳謝

20130822 真宗大谷派関係各位に対する陳謝

 

 

本ブログにおいて真宗大谷派函館別院に東本願寺派という間違った呼称を与えていました。ここに陳謝します。関係各位に多大なご迷惑を掛けました。素人ゆえの無知として寛容のほどお願いします。なお、これに対して、真宗大谷派から如何なる矯正指導も受けていません。さすが、真宗大谷派。

 

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真宗大谷派函館別院と一元的思想ーー「福は内、鬼は内」

 

20070318 真宗大谷派函館別院と一元的思想ーー「福は内、鬼は内」

 

 真宗大谷派函館別院によって経営される大谷幼稚園の教諭から聞いたいい話をここで紹介しよう。大谷幼稚園では、節分の豆まきに際して、「鬼は外」と言って、鬼の背中に豆をぶつけることはない。「福は内、鬼は内」と唱和する。鬼も、福も同列に考えらている。それは、人間の内部にある鬼、つまり悪を正面から認識し、それを排除するのではなく、それと共存することを目指しているのであろう、と思われる。

ここからは、推定である。今日、人間社会を一元的原理で統制しようとする思想が跋扈している。市場原理の貫徹、煙草を公共的圏から追放すること等、枚挙に暇がない。本ブログにおいても、原理としての市場原理を一定程度認めながら、その一元化については否定的見解を述べてきた。郵政民営化反対、小さな町村の大きな都市への合併反対、禁煙ではなく少しの副流煙を前提にする分煙等を主張してきた。

この政治的見解と親鸞を教祖とする真宗大谷派の宗教的見解は、ほぼ同一の思想的基盤に立っているように思われる。人間を一元的原理、「鬼は外、福は内」で解釈しないことである。鬼は人間の内にあり、それを排除することは滑稽であるという思想である。

 このような真宗大谷派の幼稚園が知的障害児を受け入れていることは、この節分の思想からも当然であろう。知的障害児を排除することは、鬼を排除することにつながるからだ。人間を一元的原理で解釈しないこと、これこそが今日の短絡的思想、養老孟司によって提唱された『馬鹿の壁』を乗り越える途であろう。

(本稿は過去において執筆された。本日の記事と関連するので、ここに再録する。)

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真宗大谷派函館別院における本殿の開放――専門家と素人

20130819 真宗大谷派函館別院における本殿の開放――専門家と素人

 

先日のブログにおいて、真宗大谷派函館別院において本殿がお盆に開放されていることを記述した。昨日、別院事務所において確かめたところ、本殿はお盆だけではなく、ほぼ一年中開放されているとのことである。多くの神社仏閣が本殿を施錠していることと対照的である。あるいは開放しているが、法外な拝観料金を徴収している神社仏閣も多い。宗教の本質的役割、つまり人間精神に平安をもたらすためには、少なくとも寺院が開放されていなければならない。死者も含めた人間精神の存在形式に関与することこそが、宗教の存立理由のひとつである。

もちろん、昨今の治安事情を鑑みて、防犯ビデオが設置されているとのことである。これは致し方ないであろう。本殿には、貴重な文化財があるからである。仏具等が骨董市場において売買されている実情によるものと推定される。

このような開放は宗教的意識の高さを表現している。 真宗大谷派における僧侶、そして浄土真宗自体の宗教的意識の高さは宗教学者において衆目の一致するところであろう。専門家における本寺院の価値は言うまでもない。しかし、それが素人にも認識されている。素人の認識は専門家に較べれば、著しく低い。にもかかわらず、その一端が素人にも認識されている。それが本物であることは、ほぼ間違いないであろう。寺院らしい寺院がそこにある。寺院の開放ということは、数十年前には当然のことであった。小さな村の神社仏閣の本堂、本殿も開放されていた。その当然性が後期近代においてすたれている。同様に、芸人らしい芸人、大学教授らしい大学教授が少なくなって久しい。以て自戒とすべきであろう。

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真宗大谷派函館別院における本殿の開放――神社仏閣の本殿の開放と人間精神

20130814 真宗大谷派函館別院における本殿の開放――神社仏閣の本殿の開放と人間精神

真宗大谷派によって運営されている御寺に参拝してきた。御盆だからである。しかし、多くの寺はその本堂を開放していない。一般人は参拝すらできない。骨董的価値を有する仏像等が多く配置されているからだ。ここ函館でも本殿を開放している神社仏閣は少ない。 

 真宗大谷派函館別院は、北海道でも有数の歴史を持っている。おそらく、仏像、そして欄間の装飾品等の価値も重要文化剤級のものが揃っているはずである。今日の治安状況を勘案すれば、本殿を見ず知らずの人に開放することは、危険である。流行りのリスク管理論からすれば、論外であろう。

昼間の少し暑い時間帯であったが、誰もいなかった。本殿で仏像としばし対峙していると、人間の卑小性と死んだ人間のことが脳裏を横切った。本殿では、風が吹き抜け、俗世界の垢を吹き飛ばしてくれるようであった。清涼な精神が甦るような気がした。

 

 真宗大谷派函館別院は、この一人の人間の精神を救済した。真宗大谷派は内紛が数年前まで各種マスメディアに取り上げられていた。しかし、2007318日の本ブログ(「鬼は内、福は内」)でも紹介したように、真宗大谷派は特異な存在として、宗教界において確固たる地位を築いている。宗教論に関して素人でも、その一端を認識できる。本殿の開放もまたその一つであろう。

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