役人的世界における「社長」という隠語ーー官僚にとって責任を考える対象
20120711 役人的世界における「社長」という隠語ーー官僚にとって責任を考える対象
役人つまり公務員と話していると彼らの隠語として、社長という言葉が乱発される。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職をもっていない。にもかかわらず、この組織に属していない人間に対して、「うちの社長」という表現を用いる。市役所、県庁において、その発話者が課長あるいは課長級であれば、市長あるいは県知事を指す場合が多い。彼らが地方公務員の世界であれば、何らかの事柄の実質的責任者であるからだ。課長は責任者として、しばし社長に報告する義務がある。
この社長という隠語とその隠語が発される状況は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。課長の直接的上司は部長である。しかし、彼らにとって責任を負う主体は、その自治体の長つまり県知事あるいは市長である。
このような隠語は、うちの社という意識を暗示している。この会社が市民あるいは県民と何らかの関係を結ぶ。彼らにとって、市民や県民はどのような隠語で呼ばれているのであろうか。聞いてみたい。まさか、市民が「ゴミ」と呼ばれることは、ないであろう。もっとも、市民や県民に対して、公務員が隠語で話す機会はない。ここでは、元公務員の情報提供を待つばかりでしかない。
また、公務員が市長あるいは県知事に面会する機会がない場合は、「社長」は直属の課長を指す場合が多い。課長補佐よりも地位が低い彼らにとって、所属する課が世界のすべてである。そこでは、社長は「課長」を指す場合が多い。また、縦割り行政が明白である国家公務員の世界において、課長補佐以下の人員にとって、社長は課長を意味している。局長あるいは事務次官と面談する機会はほぼないであろうからだ。
この社長という意識は、彼らにとっての責任主体が誰かを表している。社長という意識が、その責任範囲を明示している。彼らにとって、歴史あるいは国民全体の利益という観念は生じないであろう。
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