「分」を弁える――すべての生徒はプロサッカー選手になれる?
20120428 「分」を弁える――すべての生徒はプロサッカー選手になれる?
分という用語は、分際あるいは分限を意味している。自由が叫ばれる昨今では、この概念は死語と化している。人間の能力は無限であり、夢は叶うという戯言が本気で信じられているからである。それは近代が生み出したイデオロギー(虚偽意識)でしかない。このような虚偽の言説を洗脳された生徒、市民こそ不幸である。
ここでは、このような無限な自由という近代のイデオロギーに対して分という概念を対置する。50歳のリストラされた中年男性が、「僕、将来プロのサッカー選手になって、ブンデスリーグで活躍したい」といえば、物笑いの対象になる。しかし、小学校の男子生徒が、「僕、将来プロのサッカー選手になって、ブンデスリーガで活躍したい」と言えば、教師は「頑張れ」としか言いようがない。内心、無理だと考えていても、そのように言わざるをえない。「君の身体能力では無理だ」とは、言えない。
もちろん、少数の男子生徒がこのような夢を将来叶えるかもしれない。しかし、大多数の生徒の夢は叶わない。このように正確に解答すべきであろう。
« 君主制は資本の永遠性を担保する | トップページ | 「分」を弁える――労働者は労働者らしく、経営者は経営者らしく »
「近代という時代認識」カテゴリの記事
- ドイツ帝国市民運動・ライヒスビュルガー (Reichsbürger)ーードイツ的なものの喪失という思想状況(2022.12.09)
- 闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば――中村天風試論 暫定的結論(2023.02.07)
- 「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば――中村天風試論」における「珈琲時間」の統合(2022.10.23)
- 研究会報告原稿 (2022.01.21)
- 田村伊知朗への連絡方法ーーコメント欄へ(2022.10.06)