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「分」を弁える――国立大学法人における学部、役員会そして文部科学省

20120430 「分」を弁える――国立大学法人における学部、役員会そして文部科学省

 香川大学を初め、多くの国立大学において新学部が構想されている。国立大学の教学改革の一環である。新学部が出来れば、既存の学部の改編が不可避になる。新学部の構成員がすべて新規採用人事であるはずはない。もし、そうであれば、大学教員の数が増えるだけであり、国家公務員の数が増えるだけである。もっとも、国立大学法人は独立行政法人であり、そこでの労働者は国家公務員ではない。しかし、その経営には多額の税金、運営交付金が投入されており、国家の意向と無関係ではない。国家公務員の数は減少させるが、独立行政法人の労働者の数を増大させるのであれば、国民的合意は得られない。既存学部の教員の移動を前提にしている。

 この移動に際して、個々の教員にとって多くの場合、仕事が増えると意識される。新しい学部で、その学部に応じた新しい科目を担当しなければならない。また、人員も既存の複数の学部から導入されるので、新しい人間関係が形成される。また、講義以外の業務も新たに形成される。それにもかかわらず、給料が増えることはほとんどないであろう。

 そうであれば、大学上層部、つまり役員会によって推進される新学部構想に対して、既存学部の教員が反対することもある。しかし、彼らは労働者にすぎない。労働者が経営方針に異を唱えることも、言論の自由があるかぎり問題ないであろう。しかし、労働者は労働者であることによって、その新学部設立の必然性を理解しているとは言い難い。多くの教授は、新学部設立が大学役員会によって恣意的になされていると誤解している。しかし、新学部設立は文科省によって領導されている。少なくとも、その了解抜きにその方針が出ていると考えることは、労働者の視野の矮小性を表現している。

 労働者は労働者であるという限界づけをその行為規範とすべきであろう。

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「分」を弁える――労働者は労働者らしく、経営者は経営者らしく

20120429 「分」を弁える――労働者は労働者らしく、経営者は経営者らしく

 分という観点から、労働者と経営者の関係を考えてみよう。労働者は、専門的視野しか持たない。自らに依頼された極めて狭い範囲の視野しか持たない。たとえば、大学教授を例にとろう。大学教授は自分に委ねられた狭い範囲の専門を教授するだけである。社会福祉の教授が理論物理学の最先端に関して講義することはないし、できない。

 もちろん、経営者も狭い範囲の事柄しか関心がない。しかし、それはその企業、法人の経営という分野である。この分野に関して、多くの労働者はそもそも関与できないし、関与してはならない。多くの労働者は、経営学の専門家を除いて経営に関する基礎知識を有していない。したがって、労働者は経営に関与すべきではない。

 かつて、塩路一郎日産労働組合委員長は、日産自動車の経営、とりわけ経営者の人事に関与したと言われている。労働者の分を忘れた典型である。日産自動車が外資、すなわちフランスのルノー社傘下に吸収されたことは、記憶にとどめられている。

労働者は経営に関与すべきではない。もちろん、経営一般に関心を持つことは必要である。しかし、労働者が現実の経営に関与する場合、労働者であることを廃棄しなければならない。労働者は労働条件に関する事柄に限定して、経営者に影響を行使すべきである。

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「分」を弁える――すべての生徒はプロサッカー選手になれる?

20120428 「分」を弁える――すべての生徒はプロサッカー選手になれる?

 分という用語は、分際あるいは分限を意味している。自由が叫ばれる昨今では、この概念は死語と化している。人間の能力は無限であり、夢は叶うという戯言が本気で信じられているからである。それは近代が生み出したイデオロギー(虚偽意識)でしかない。このような虚偽の言説を洗脳された生徒、市民こそ不幸である。

 ここでは、このような無限な自由という近代のイデオロギーに対して分という概念を対置する。50歳のリストラされた中年男性が、「僕、将来プロのサッカー選手になって、ブンデスリーグで活躍したい」といえば、物笑いの対象になる。しかし、小学校の男子生徒が、「僕、将来プロのサッカー選手になって、ブンデスリーガで活躍したい」と言えば、教師は「頑張れ」としか言いようがない。内心、無理だと考えていても、そのように言わざるをえない。「君の身体能力では無理だ」とは、言えない。

 もちろん、少数の男子生徒がこのような夢を将来叶えるかもしれない。しかし、大多数の生徒の夢は叶わない。このように正確に解答すべきであろう。

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君主制は資本の永遠性を担保する

君主制は資本の永遠性を担保する

近代国家における君主制の問題は、近代国家におけるタブーとしての身分制原理と関連している。この問題は、近代国家における中世的原理の残存という問題として処理されるべきではなく、近代固有の問題として考察されるべきである。君主制は、資本の永遠性を担保する家系的永遠性の確保のための象徴である。資本主義における社会的身分制の問題は君主の問題と関連している。資本は永遠であれねばならない。しかし、人間は有限である。この矛盾を政治的解決する方法が君主制である。君主制は永遠性を担保している。

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