« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

ホッブス、ロックの思想と、東京電力

20110630「第4章ホッブスの思想」と「第5章ロックの思想」に関する時事的考察――東京電力福島第一原子力発電所事故との関連において

 ホッブスとロックは、近代社会契約論を樹立したイギリスの思想家である。17世紀イギリス革命を理論的に基礎づけた思想家として著名である。両者の思想家の特色は、以下の理論を形成したことにある。すなわち、近代国家を正統化するのは、国民の意思でしかないことである。人間が社会契約によって本来保持していた自然権を第三者に譲渡する。その目的とは、何か。ホッブスの場合は、人間の生命を維持することであり、ロックの場合は、人間の私的所有の保障である。

 今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、国民の生命と私的財産が侵害されている。もちろん、この事件は、東京電力株式会社と権利を侵害された国民との間の私的関係にしか過ぎないという見解もある。被害を蒙った国民が、一営利企業である東電に損害賠償請求権が発生するだけである。しかし、原子力政策は国策として推進された。東京電力株式会社福島第一原子力発電所の安全基準は、保安院そして究極的には日本国家として承認された。この事故は想定外の出来事によるものではない。むしろ、予想通りに、起こるべきして起きた。

 この安全基準を保安院、及び原子力委員会は承認してきた。その意味で国家が事故に対して責任を負う。東京電力株式会社福島第一原子力発電所が放射性物質を拡散していることに対して、東京電力株式会社と日本国政府が責任を負う。

 以上の推論が正しい場合、ホッブスとロックの思想はこの事故の問題を考察する際、有益である。まさに、東京電力株式会社と共同責任を負う日本国政府は、大気中に放射性物質を拡散することによって、国民の健康、そして国民の生命を犠牲にしている。また、放射性物質によって汚染された農産物は、その価格下落が著しい。まさに、私的所有権が侵害されている。

 生命の維持が危機にさらされ、私的所有権が侵害されている。日本国民はこのような政府に対して信を置くことできようか。

 

|

風評と評判――東北地方南部、関東12都県の農産物の風評被害

20110628 風評と評判――東北地方南部、関東12都県の農産物の風評被害

 風評は否定的評価であり、評判は肯定的評価である。そのどちらも確定的数字に基づいているのではない。ある種の伝聞情報に基づいている。しかし、全く根拠のないものではない。それは、品質、広告、伝統等様々な観点から構成されている。しかし、一度でもその品質が良い意味でも、悪い意味でも世間に喧伝されると、その評価はしばらく継続する。

 たとえば、中国産餃子を例にとろう。数年前、中国のある企業によって生産された餃子から、毒物が検出された。JT(日本たばこ産業)の関連企業によって生産された餃子であった。しかし、その企業だけではなく、中国の企業で生産された餃子に対する評価が一変した。すべての中国産餃子の売り上げが減少した。さらに、この国の餃子だけではなく、加工食品一般、そして農産物一般に対する評価が下落した。これは、明らかに風評被害であった。しかし、この事実をもって風評被害であると喧伝するマス・メディアは少なかった。

 同様に、宮内庁御用達という看板があれば、その商品は良いものとされる。ほとんどの人がその品質を吟味することなく、高い評価を与える。これを評判とみなすことができる。

 風評も評判も、その商品に対する哲学的根拠ではないが、ある種の根拠に基づいている。現在、福島県だけではなく、東北地方南部、関東の土壌から生産された農産物が風評被害にあっていると言う。おそらく、EU(欧州共同体)がこれらの地方の農産物に対する放射能汚染に関する検査証明を要求していることと無関係ではない。少なくとも、商品市場でその価格が西日本産の農産物と比較して、商品価値が下落している。茨城県産の苺と宮崎県産の苺を例にとろう。品質と価格がほぼ同一であれば、消費者はどちらの苺を選択するであろうか。その消費者は風評に基づいて行動していると非難されるべきであろうか。少なくとも、3月から4月にかけて膨大な量の放射性物質、たとえばセシウム等がこの地域に降り注いだ。この事実は少なくとも数カ月経過したくらいでは消え去ることはないであろう。

 必要なことは、風評被害にあっていると消費者を非難することではない。サンプル検査だけではなく、全量検査をした商品を市場に供給することである。セシウム、ストロンチュウム等の値がゼロであれば、消費者も納得してその商品を購入するであろう。

|

近代における一元化する世界像

17頁

「二元論的世界が構成されることになる。・・・はこの二元論を克服しようとする。」このように表現されるとき、二元論的世界像は、克服すべき対象である。二元論は統合されねばならいという思想的弱点として構想されている。たとえば、マルクスのヘーゲル国法論批判にもそのような一節がある。市民社会と政治的国家の二元論である。しかし、一般的に言えば、二元論は克服すべき対象であったのであろうか。もちろん、この問題の背後には、弁証法の問題、つまり対立物はより高次の次元において揚棄されねばならないという思想がある。この思想の代表的なものとして、ヘーゲル弁証法がある。

 近代は二元論を一元化できると想定している。より整序された秩序意識を持っている。この思想的前提こそが問題にされるべきであろう。

 また、日本思想史において、ホンネとタテマエという二元論がある(中根千枝参照)。この二元論もまた克服すべき対象であった。しかし、二元論自身は克服すべきであろうか。市民社会の原理と政治的国家の二元論は近代の特有の原理であるが、その二元論そのものを承認すれば、近代の揚棄の問題も解消する。この克服すべき二元論という問題も考え直すべきであろう。

|

夏における高濃度放射性雲の北上――関東ではなく、東北北部、北海道の大気と土壌汚染の可能性

20110620

 夏における高濃度放射性雲の北上――関東ではなく、東北北部、北海道の大気と土壌汚染の可能性

福島第一原子力発電所事故から3か月経過している。これまでの主要な風は、偏西風を除けば、北風であった。西風であれば、放射性物質は海上に流れていく。もちろん、海洋汚染は深刻になるが、さしあたり陸上への影響は少ない。3月及び4月はまだ、北風の影響は強く、放射性物質の多くが、つくばエクスプレス、常磐線に沿って南下した。その影響は神奈川県を経由して、静岡県まで至っている。静岡の茶葉が汚染されていることに象徴されているように、茨城県、千葉県、埼玉県、東京都そして神奈川県を経由して、静岡県までの土壌汚染が拡がっている。12都県、つまり福島、群馬、茨城、栃木、宮城、山形、新潟、長野、山梨、埼玉、東京、千葉の農産物は、EU(欧州共同体)の検査対象になっている。これらの都県からの欧州への農産物輸出は、放射能検査済の証明書を必要としている。現在、検査体制の不備からその可能性はかなり少ない。輸出不可能が多いであろう。多くの日本人は、欧州に輸出できない農産物を食べるしかない。

それに、静岡県が加わるのは、ほぼ確実であろう。茶葉から1000ベクレル/キロ以上のセシウムが検出されれば、ほぼ確実であろう。それだけ、3月下旬の大気汚染、そしてそれに伴う土壌汚染の程度が憂慮される対象になっているからだ。1

しかし、5月から夏にかけて、偏西風と南風が主流になる。関東平野の汚染ではなく、東北北部、ならびに北海道東部の汚染が憂慮される。南風が強い場合、高濃度汚染雲は福島から三陸海岸を経由して、釧路、根室付近の北海道東部をかすめて、北方領土にかけて流れてゆく。それは、ドイツ気象庁のその拡散予想をみれば、ほぼ想定可能である。もし、偏西風の力が弱い時には、仙台、盛岡、青森という内陸の東北本線上に北上する場合もあろう。それは、北海道南部を経由して、札幌、旭川まで移動するであろう。この地域は、日本の穀倉地帯と同義である。EUの検査対象圏に、12都県だけではなく、岩手、青森、そして北海道が加わる可能性がある。欧州国民は、放射性物質を含有している可能性があるこれらの都県産の食料を摂取しない。しかし、東日本在住者はほぼ毎日、ヨーロッパ国民が食べない食糧を摂取しなければならない。日本の食糧事情、そして日本という国家の存立が問題になる。

1 http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011061890105936.html静岡産茶葉からセシウムの検出

|

福島原発事故による放射能汚染--食物、水道水の汚染の旧基準と暫定基準、大気放射能汚染情報

1. 食品(牛乳等)における3月17日以前の放射能基準(203-204ペ―ジ)

セシウム137 10ベクレル/1Kg

ヨウ素131 10ベクレル/1Kg

http://whqlibdoc.who.int/publications/2004/9241546387_jpn.pdf

2. 食品(牛乳等)における3月17日以後の暫定的放射能基準

セシウム137 200ベクレル/1Kg

ヨウ素131 300ベクレル/1Kg

(20-30倍に基準値を引き上げている)

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001558e-img/2r9852000001559v.pdf

2. 2 野菜(ヨウ素131)

基準値 100ベクレル/1Kg

暫定基準値 2000ベクレル/1Kg

(20倍に基準値を引き上げている)

2. 3 野菜(セシウム137)

基準値(セシウム137とセシウム134を合わせて) 370ベクレル/1Kg

暫定基準値 500ベクレル/1Kg

(20倍ではない。半減期がヨウ素131に比べて、長いからであろうか)。

3.全国の水道放射能濃度

http://atmc.jp/water/

(但し、県庁所在地の値しか測定されていない。非県庁所在地の水道水放射能度が必要とされている。面積の広い都道府県では、水道水取得水系が異なっているからである)。

4. 1青森県環境放射能測定

http://gensiryoku.pref.aomori.lg.jp/atom/index.html

(多くの測定地点を有する。今後は青森県を標準として、各県20か所程度の測定地点の設置が望ましい)。

4. 2 東北電力東通原子力発電所空間放射線量

http://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/higashi/mp.html

(リアルタイムの空間放射線量が測定されている。3. が、ほぼ2日遅れの情報であるに過ぎないことと比較して、この情報の価値は高い)。

4.3 文部科学省原子力安全課原子力環境防災ネットワークhttp://www.bousai.ne.jp/tex/index.php(全国)

http://www.bousai.ne.jp/tex/speedi/pref.php?id=02(青森県)

(全国の空間放射線量がリアルタイムで掲載されている。ただし、測定地点が少ない。原子力発電所がある地点に限定されているからである)。

5. 全国の環境放射能測定

http://www.mext.go.jp/

6. 累積放射性物質降下量

https://spreadsheets.google.com/spreadsheet/pub?hl=en&key=0AjgQ0pwrXV8YdGJORHAzdi1qMlFldUMwRkl4V3VfN0E&hl=en&gid=1

7. 文部科学省

7.1 全国の環境放射能水準

http://www.mext.go.jp/

7.2 全国上水モニタリング

http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1303956.htm

|

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――完結編

20110614

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――完結編

1、序論

2011年の東日本大震災は日本の国民、日本という国家に大きな傷跡を残した。とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所の爆発(メルトダウン)は、世界史に記述されるであろう。Fukushima(福島)という名前は、Hiroshima(広島)以上に、重大な犯罪が実行された場所として世界史に記述される。Fukushima は、Tokio(東京)以上に欧州において有名になりつつある。ドイツ気象庁は315日以降、3か月以上、放射能雲の拡散情報を掲載している。もっとも、日本気象庁は5月になって初めて、その情報を国民に知らした。政府上層部はこの情報を把握したはずである。

日本の首都の名前以上に、Fukushima は、日本を代表する概念になる。もちろん、全世界にストロンチウム90、プルトニウム239、セシウム137を撒き散らした主体として、欧州の国民に記憶される。悲劇ではなく、むしろ犯罪として。Tepco(東京電力)は、人類に対する犯罪行為の主体として、長く記憶される。土下座して許されるものではない。アウシュヴィッツと並ぶ人類に対する犯罪として記憶される。

それに対して、Tsunami(津波)による被害は、まさに天災として記憶される。数年経てば、欧州の人々の記憶から消滅する。Ofunato(大船渡)、Minamisannrikutyou(南三陸町)という地名は、少なくとも欧州の新聞ではほとんど見出されない。しかし、Fukushima と異なり、三陸沿岸の町は世界から同情の対象になる。世界から集まった義捐金は、まさにこの地方に住む悲惨な不幸に見舞われた人々に対する同情が表現されたものである。

Tsunami(津波)による被害は、涙なくしては語りえない多くの物語を生みだした。しかし、以下の数行を読んだとき、三日三晩涙が出て止まらなかった。否、安易な修辞法をここでは慎もう。この文章を書いているときですら、涙が止まらなかった。次の文章は、津波によって死んだある無名の少女を発見した法医学者の感情を記述している。

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。[1]

 この小学三年生の死に対して、多くの人が涙を禁じえないであろう。東京電力福島第一原子力発電所の爆発に対しては、恐怖あるいは怒りを禁じえなかった。それに対して、この津波によって小さな命を奪われた少女に対して、同情を超えた涙しか浮かばない。しかし、この悲劇――まさに悲劇として認識される――の背後には、少女が死ななくてもよかったという認識が隠されている。なぜ、この少女は死ななければならなかったのか。死ぬ必然性はなかったという認識が隠されている。この少女の悲劇には、幾多の問題がはらまれている。この少女の死の意味を思想史的観点から考察したい。この無名の少女に対する墓標を建てたい。

2、人間認識論

この少女にとって人間とは何であろうか。彼女にとって、人間とは市民社会において何らかの役割を担う人間、あるいは自己の身体に限定されており、歴史的な環境世界において形成されてきた人間ではない。これは、現存する市民社会において求められた人間でしかない。市民社会的原理に従属する市民の役割意識が強化されたことによって、本来的自己と自己規制に従う活動は、疎外されている。この疎外された自己意識は、長期間教育によって肉体に浸透して第二の自然になっている。[2]

この第二の自然が解体され、自己に再領有されねばならなかった。少なくとも、この市民社会から自己同一性を反省する能力が獲得されねばならない。この少女が求められた役割は、身体を再生産するための食糧を確保することでしかない。この少女に欠けていたことは、万物への関与存在としての自己と、そこから構成された自己という認識である。市民社会による義務教育は、実利的合理性を追求している。しかし、人間はこのような現存する市民社会の合理性追求の主体に限定されてはならない。人間は歴史的な環境世界から構成されている。この環境世界は、歴史的な人間の身体、精神だけを意味しているのではない。まさに、すべての有機的連関それ自体を指示している。そこには、自然を含む環境世界から構成された万物が含まれている。

すなわち現存する市民社会において確立されるべき自己とは異なる自己が、認識されねばならかった。人間は、「自己自身を孤立としてではなく、より巨大な全体の一部として、つまり万物と深く結合していると感じる。宇宙へと連関している叢への結合展開は、・・・人間の進化の第一歩である」。[3] この新しい人間像は、現存する市民社会の合理的人間像と根本的に対立している。

このような人間像に基づくかぎり、レトルト食品という卑小な現存する身体にとってしか有用でないものに固執することはなかった。より大きな自然と歴史的な環境世界に従属する身体という認識があれば、食糧に固執することはなかった。しかし、現在の義務教育は、現存する市民社会に適合する人間を生産する場所でしかない。このよう高次の人間論を、小学生に教えることはしていない。それが、この少女の死をもたらした。

3、自然論

このような人間論には、以下のような近代の自然認識がある。近代は自然に対する支配力を拡大させた。たとえば、ウラン鉱石を加工することによって燃料用ウランを取り出し、核分裂させた。それによって、発電することに成功した。人間は自然を制御可能であると認識していた。この幻想は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故によって木端微塵に吹き飛ばされた。ストロンチウム90、プルトニウム239を空間に、そして地下水に拡散させることによって、自らの環境世界を汚染した。この汚染は環境世界の汚染にとどまることなく、人間の身体そして精神までも汚染するであろう。

しかし、近代人の日常意識は、自然を克服したという幻想から自由ではない。この錯誤した日常意識が、本来的な自然の驚異、たとえば津波に遭遇したときにどのような態度表明をするのであろうか。少なくとも制御可能とみなしている自己の身体と制御不可能な本来的自然を同一視する。食品と自然が同一視され、食品の保持が自然の脅威よりも、より重大であるかのような幻想を抱く。

自己の存在が歴史的な環境世界にあることを認識していれば、そのなかで対処できたはずである。古代以来の人間は、そのように対応してきたはずである。近代以前の人間は、食料が一時的に枯渇しても、対応しなければならない状況を知っていた。近代人のみが、人間的自然と自然それ自体を等値してきた。この大いなる力のもとでしか人間は生存できない。この厳然たる事実を津波は我々近代人に示した。我々近代人は、この歴史的な環境世界に存在することを認識の出発点にすべきである。


[1] 「嗚咽、呪い、怒り――遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

[2] Vgl. W. Klehm u. P. Ziebach: Konzepte zugehender Bildungsarbeit: Das Modell „ Zwischen Arbeit und Ruhestand“.  In: Hrsg. v. S. Kühnert: Qualifizierung und Professionalisierung in der Altenarbeit. Hannover 1995, S. 212.

[3] F. Vaughan: Die transpersonale Perspektive. In: Hrsg. v. S. Graf: Alte Weisheit und modernes Denken. Spirituelle Traditionen in Ost und West im Dialog mit der neuen Wissenschaft. München 1986, S. 208.

4、補論

 近代の時代認識とは無関係であるが、この少女の死にはあまりに無知な防災意識があった。ここでは、防災技術論として、「緊急持ち出し袋」に限定して述べてみたい。この袋は、緊急に自宅から脱出するさいに、必要なものである。津波、地震等壊滅的被害が想定される場合に持ち出すものである。したがって、預金通帳、あるいは身分証明書、現金等の最低限、市民社会において必要とされるものである。しかも、自家用車による避難の場合を除けば、人間の手によって運搬可能なものでなければならない。しかも、それを持って走ることが想定されている。このような前提があれば、その持ち物は限定される。しかも、小学校以下の幼児であれば、このような家族にとって重要なものを持ち出す必要はない。2日分の自分の着替えで十分である。その着替えも、セーター、ワイシャツ類ではなく、下着だけで十分である。

 しかし、多くの幼児は、この以外に多くのものを持ち出しがちである。中には、玩具、御人形類を持ち出そうする幼児もいるであろう。また、自分の貯金箱、つまり10円玉、100円硬貨がぎっしり入った貯金箱を避難袋に入れようとする児童もいるかもしれない。これは、総額が数万円を超える場合、かなりの重量になる。父兄が紙幣に交換の上、避難袋に入れるべきであろう。5万円分を10円硬貨で換算すると、5000個になる。5000個の10円硬貨は10キログラムを超えることになろう(正確には10円硬貨1個は45グラムであり、225キロになる)。幼児が持参する袋が破損する場合もある。とても、幼児、あるいは大人ですら持参できない。

 彼女が持参しようとしたレトルト食品等の食糧はどうであろうか。それは、停電等で自宅避難する場合に、必要なものである。緊急に持ち出す必要はない。緊急持ち出し袋とは、差し迫る危機に対して、持参するものである。数日分の食糧を持参するなどは、大人でも無理である。水もそうである。水、食料等は自宅に保管すべきものだ。命と金があれば、資本主義体制が維持されているかぎり、ほとんど問題はない。都市部の避難所に行けば、最低限の水等は確保されるであろう。よしんば、確保できないと想定しても、それを持って走って避難することはそもそも不可能である。その瞬間の生と財産だけで十分だ。

 また、袋はどのような形態であろうか。もっとも望ましい形態は、リュクサックである。走る、あるいは長時間歩く場合に、もっとも適した袋は背中に背負う形式である。抱えて持たねばならない形態は、ふさわしくない。さらに、靴は歩くという行為にふさわしい運動靴が最高である。雨、雪の場合はそれにふさわしい靴があるはずだ。それぞれの地方、天候に応じた靴を日ごろから用意すべきある。

|

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その四 近代思想

20110613

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その四 近代思想

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。[1] 

この少女にとって近代という時代とは何であろうか。もちろん、ここでこの小学3年生の近代認識の錯誤を問題にしている。その錯誤の是正を小学生に求めることは、過酷であることは承知している。しかし、その認識論の錯誤は、近代人が陥る陥穽一般と関連している。それゆえ、本稿において問題にする。彼女の死を無駄にしないために。

近代は自然に対する支配力を拡大させた。たとえば、ウラン鉱石を加工することによって燃料用ウランを取り出し、核分裂させた。それによって、発電することに成功した。人間は自然を制御可能であると認識していた。この幻想は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故によって木端微塵に吹き飛ばされた。ストロンチウム90、プルトニウム239を空間に、そして地下水に拡散させることによって、自らの環境世界を汚染した。この汚染は環境世界の汚染にとどまることなく、人間の身体そして精神までも汚染するであろう。

しかし、近代人の日常意識は、自然を克服したという幻想から自由ではない。この錯誤した日常意識が、自然の驚異、たとえば津波に遭遇したときにどのような態度表明をするのであろうか。少なくとも制御可能とみなしている自己の身体と制御不可能な本来的自然を同一視する。食品と自然が同一視され、食品の保持が自然の脅威よりも、より重大であるかのような幻想を抱く。

自己の存在が歴史的な環境世界にあることを認識していれば、そのなかで対処できたはずである。古代以来の人間は、そのように対応してきたはずである。近代以前の人間は、食料が一時的に枯渇しても、対応しなければならない状況を知っていた。近代人のみが、人間的自然と自然それ自体を等値してきた。この大いなる力のもとでしか人間は生存できない。この厳然たる事実を津波は我々近代人に示した。


[1] 「嗚咽、呪い、怒り――遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

|

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その三 防災技術論

20110612

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その三 防災技術論

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。[1] 

 ここでは、防災技術論として、「緊急持ち出し袋」に限定して述べてみたい。この袋は、緊急に自宅から脱出するさいに、必要なものである。津波、地震等壊滅的被害が想定される場合に持ち出すものである。したがって、預金通帳、あるいは身分証明書、現金等の最低限、市民社会において必要とされるものである。しかも、自家用車による避難の場合を除けば、人間の手によって運搬可能なものでなければならない。しかも、それを持って走ることが想定されている。このような前提があれば、その持ち物は限定される。しかも、小学校以下の幼児であれば、このような家族にとって重要なものを持ち出す必要はない。2日分の自分の着替えで十分である。その着替えも、セーター、ワイシャツ類ではなく、下着だけで十分である。

 しかし、多くの幼児は、この以外に多くのものを持ち出しがちである。中には、玩具、御人形類を持ち出そうする幼児もいるであろう。また、自分の貯金箱、つまり10円玉、100円硬貨がぎっしり入った貯金箱を避難袋に入れようとする児童もいるかもしれない。これは、総額が数万円を超える場合、かなりの重量になる。父兄が紙幣に交換の上、避難袋に入れるべきであろう。5万円分を10円硬貨で換算すると、5000個になる。5000個の10円硬貨は10キログラムを超えることになろう(正確には10円硬貨1個は45グラムであり、225キロになる)。幼児が持参する袋が破損する場合もある。とても、幼児、あるいは大人ですら持参できない。

 彼女が持参しようとしたレトルト食品等の食糧はどうであろうか。それは、停電等で自宅避難する場合に、必要なものである。緊急に持ち出す必要はない。緊急持ち出し袋とは、差し迫る危機に対して、持参するものである。数日分の食糧を持参するなどは、大人でも無理である。水もそうである。水、食料等は自宅に保管すべきものだ。命と金があれば、資本主義体制が維持されているかぎり、ほとんど問題はない。都市部の避難所に行けば、最低限の水等は確保されるであろう。よしんば、確保できないと想定しても、それを持って走って避難することはそもそも不可能である。その瞬間の生と財産だけで十分だ。

 また、袋はどのような形態であろうか。もっとも望ましい形態は、リュクサックである。走る、あるいは長時間歩く場合に、もっとも適した袋は背中に背負う形式である。抱えて持たねばならない形態は、ふさわしくない。

 また、靴は歩くという行為にふさわしい運動靴が最高である。雨、雪の場合はそれにふさわしい靴があるはずだ。それぞれの地方、天候に応じた靴を日ごろから用意すべきある。


[1] 「嗚咽、呪い、怒り――遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

|

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その二 人間認識論

20110611

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その二 人間認識論

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。[1] 

この少女にとって人間とは何であろうか。もちろん、ここでこの小学3年生の人間認識の錯誤を問題にしている。その錯誤の是正を小学生に求めることは、過酷であることは承知している。しかし、その認識論の錯誤は、近代人が陥る陥穽一般と関連している。それゆえ、本稿において問題にする。彼女の死を無駄にしないために。

彼女にとって、人間とは市民社会において何らかの役割を担う人間、あるいは自己の身体に限定されており、歴史的な環境世界において形成されてきた人間ではない。これは、現存する市民社会において求められた人間でしかない。市民社会的原理に従属する市民の役割意識が強化されたことによって、本来的自己と自己規制に従う活動は、疎外されている。この疎外された自己意識は、長期間教育によって肉体に浸透して第二の自然になっている。[2]

この第二の自然が解体され、自己に再領有されねばならなかった。少なくとも、この市民社会から自己同一性を反省する能力が獲得されねばならない。この少女が求められた役割は、身体を再生産するための食糧を確保することでしかない。この少女に欠けていたことは、万物への関与存在としての自己と、そこから構成された自己という認識である。市民社会による義務教育は、実利的合理性を追求している。しかし、人間はこのような現存する市民社会の合理性追求の主体に限定されてはならない。人間は歴史的な環境世界から構成されている。この環境世界は、歴史的な人間の身体、精神だけを意味しているのではない。まさに、すべての有機的連関それ自体を指示している。そこには、自然を含む環境世界から構成された万物が含まれている。

すなわち現存する市民社会において確立されるべき自己とは異なる自己が、認識されねばならかった。人間は、「自己自身を孤立としてではなく、より巨大な全体の一部として、つまり万物と深く結合していると感じる。宇宙へと連関している叢への結合展開は、・・・人間の進化の第一歩である」。[3] この新しい人間像は、現存する市民社会の合理的人間像と根本的に対立している。

このような人間像に基づくかぎり、レトルト食品という卑小な現存する身体にとってしか有用でないものに固執することはなかった。より大きな自然と歴史的な環境世界に従属する身体という認識があれば、食糧に固執することはなかった。しかし、現在の義務教育は、現存する市民社会に適合する人間を生産する場所でしかない。このよう高次の人間論を、小学生に教えることはしていない。それが、この少女の死をもたらした。


[1] 「嗚咽、呪い、怒り――遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

[2] Vgl. W. Klehm u. P. Ziebach: Konzepte zugehender Bildungsarbeit: Das Modell „ Zwischen Arbeit und Ruhestand“.  In: Hrsg. v. S. Kühnert: Qualifizierung und Professionalisierung in der Altenarbeit. Hannover 1995, S. 212.

[3] F. Vaughan: Die transpersonale Perspektive. In: Hrsg. v. S. Graf: Alte Weisheit und modernes Denken. Spirituelle Traditionen in Ost und West im Dialog mit der neuen Wissenschaft. München 1986, S. 208.

|

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その一、序論

20110418

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その一、序論

2011年の東日本大震災は日本の国民、日本という国家に大きな傷跡を残した。とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所の爆発は、世界史に記述されるであろう。Fukushima(福島) という名前は、Hiroshima(広島)以上に、重大な犯罪が実行された場所として世界史に記述される。Fukushima は、Tokio(東京) 以上に欧州において有名になりつつある。日本の首都の名前以上に、Fukushima は、日本を代表する概念になる。もちろん、全世界に、ストロンチウム90、プルトニウム239、セシウム137等を撒き散らした主体として、欧州の国民に記憶される。悲劇ではなく、むしろ犯罪として把握される。Tepco(東京電力)は、人類に対する犯罪行為の主体として、長く記憶される。

それに対して、Tsunami(津波)による被害は、まさに天災として記憶される。数年経てば、欧州の人々の記憶から消滅する。Ofunato(大船渡)、Minamisannrikutyou(南三陸町)という地名は、少なくとも欧州の新聞ではほとんど見出されない。しかし、Fukushima と異なり、三陸沿岸の町は世界から同情の対象になる。世界から集まった義捐金は、まさにこの地方に住む悲惨な不幸に見舞われた人々に対する同情が表現されたものである。間違っても、東京電力に対する見舞金ではない。

Tsunami(津波)による被害は、涙なくしては語りえない多くの物語を生みだした。しかし、以下の数行を読んだとき、三日三晩涙が出て止まらなかった。否、安易な修辞法をここでは慎もう。この文章を書いているときですら、涙が止まらなった。次の文章は、津波によって死んだある無名の少女を発見した法医学者の感情を記述している。

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。1

 この小学三年生の死に対して、多くの人が涙を禁じえないであろう。東京電力福島第一原子力発電所の爆発に対しては、恐怖あるいは怒りを禁じえなかった。それに対して、この津波によって小さな命を奪われた少女に対して、同情を超えた涙しか浮かばない。しかし、この悲劇――まさに悲劇として認識される――の背後には、少女が死ななくてもよかったという認識が隠されている。なぜ、この少女は死ななければならなかったのか。死ぬ必然性はなかったという認識が、隠されている。この少女の悲劇には、幾多の問題がはらまれている。それを以下で論述することによって、この無名の少女に対する墓標を建てたい。

それは、

1、人間認識論

2、防災技術論

3、近代思想

という三つの観点から記述される。以下では順を追って記述したい。

1、「嗚咽、呪い、怒りーー遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

|

福島原発事故に対する普遍的関心と個人的関心

20110601 東京電力福島第一原子力発電所の事故に対する普遍的関心と個人的関心

 東京電力福島第一原子力発電所の事故に対する国民的関心が高い。それは、以下の二つに分類できる。一つは、日本国民としてあるいは近代人としての普遍的関心である。この関心は、人類に対する犯罪に関する認識を深化させようとする欲求と関連している。たとえば、2001年ニューヨークにおけるテロ事件と同様な関心と類似している。この事件は、一地方に居住している多くの日本人にとって、ほとんど関係がない。アラブ人の組織、アルカイーダとアメリカ合衆国政府との関係が主であり、それが各日本国民の生活に直結しているわけではない。ある意味で対岸の火事を見るような、冷静な対応が可能であった。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故に対しても、多くの国民、とりわけ西日本に居住する国民にとって、これと似た関心を持っているにすぎない

 他方で、東京電力福島第一原子力発電所の事故が収束していない現状から、悲観的態度をとる国民が少数いる。この国民の中には、この事故の普遍的意味、思想史的意味を再吟味しようとする者と、より個人的関心が高いものが存在している。前者は第一の関心に分類されるので、ここでは看過してよいであろう。個人的関心の一つは、内部被曝に関するものである。水、空気、食品から摂取するかもしれないセシウム137、ストロンチウム90、プルトニウム239に対する恐怖である。食品衛生法に関する暫定基準基準値を満たしているかもしれないが、それ以前の基準からすればその基準を超えている放射性物質を摂取する恐怖がある。なにしろ、その基準値は20倍も甘くなっているからだ。[1]

 さらに、小康状態を保っている東京電力福島第一原子力発電所事故であるが、いつ315日の爆発を超える状態になるのか、未だ定かではない。その時は、半径600キロの住民が退避したほうがよい、という可能性を否定できない。

このような二つの種類の関心から、今なお東京電力福島第一原子力発電所に対する情報に対して、国民は過敏になっている。


[1]

1. 食品(牛乳等)における317日以前の放射能基準(203-204ペ―ジ)

セシウム137 10ベクレル/1Kg

ヨウ素131 10ベクレル/1Kg

http://whqlibdoc.who.int/publications/2004/9241546387_jpn.pdf

2. 食品(牛乳等)における317日以後の暫定的放射能基準

セシウム137 200ベクレル/1Kg

ヨウ素131 300ベクレル/1Kg

20-30倍に基準値を引き上げている)

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001558e-img/2r9852000001559v.pdf

|

県庁所在地以外での水質検査の実施

 現在、国土における一極集中化が問題になる。とりわけ、首都圏への情報、人口、権限等の集中が問題になっている。同じことが地方自治体においても、問題になっている。県庁所在地への情報、人口、権限等の集中化である。これについては、ここで詳細に述べるまでもないであろう。

 本提案においても、この観点からの考察が必要にされている。検査機能を保持している都道府県内の研究機関は、都道府県庁所在地にある衛生研究所だけである。

 都道府県庁所在地にある衛生研究所あるいはそれへの交通アクセスに問題が生じた場合、水質検査それ自体が不可能になる。したがって、都道府県県庁所在以外の複数の都市における放射能汚染に関する水質調査が可能になるようにすべきである。

|

ドイツ、フランス、オーストリア、イギリス、ノルウエーの気象庁等からの福島原発に関する放射性物質拡散予想

 6月30日現在、ZAMG(オーストリア国立気象学・地球力学中央研究所)、フランス放射線防護原子力安全研究所ともに、高濃度放射能雲の東京電力福島第一原子力発電所からの拡散予想を停止している。東京電力福島第一原子力発電所が危機的状況に陥れば、拡散予想を再開するとのことである。もちろん、日本の気象庁がやるべき仕事をしていないことが一番の問題である。

 また、東京電力株式会社福島第一原子力発電所が小康状態を保っているとはいえ、平時からすれば考えられないような放射性物質を大気と海に拡散している。

 ただし、DWD(ドイツ気象庁)のみが、拡散予想をしている。解説文が掲載されなくなり、残念であるが、最低限の情報を得ることができる。

 

1. ZAMG(オーストリア国立気象学・地球力学中央研究所)

http://www.zamg.ac.at/

現在では、最も信頼に足る情報機関の一つである。ただし、視覚情報的観点、サイト検索の複雑性から、ドイツ語に疎遠な方には勧められない。むしろ、ドイツ気象庁のサイトが便利である。6月1日をもってこの拡散予想は中止している。東京電力福島第一原子力発電所からの放出濃度が減少したからだ。

2. DWD(ドイツ気象庁)

http://www.dwd.de/ 

250メートルの高さにおける東京電力福島第一原子力発電所から拡散予想を実施している。その濃度は、その日毎における原発事故による放出された放射性物質の量に依存している。

毎日検索している唯一のサイトである。6月10日現在、本ホームページはこの拡散予想にのみ依拠している。

3. フランス放射線防護原子力安全研究所

http://www.irsn.fr/FR/Documents/home.htm

4. フランス気象局

http://www.irsn.fr/FR/popup/Pages/irsn-meteo-france_19mars.aspx

フランス気象庁のサイトは、3月初期の放射能拡散状況が詳しい。日本の気象庁が発表する以前に、情報提供を行った。3月の結果を多くの国民は、5月になって知った。無意味である。我々市民は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故の結果、避難するか否かを決断するための情報を欲していた。

5. Weather Online 社(ロンドンにある気象予報会社)

http://www.weatheronline.co.uk/weather/news/fukushima?LANG=en&VAR=zamg

基本情報はZAMGに依存しているが、視覚情報的見地から優れている。しかし、たまに更新されず、数日前の情報しか得られない場合もある。情報元が拡散予想を停止したので、この拡散予想も6月1日でもって終了している。現在、本ホームページはドイツ気象庁からの情報に依存している。また、再開される可能性もあるので、このまま、残している。(2011年6月15日)

 

6. ノルウエー気象庁

http://transport.nilu.no/products/browser/fpv_fuku?fpp=conc_Xe-133_0_;region=Japan

視覚情報的観点から優れている。ヨウ素131、セシウム137だけではなく、キセノン133 の拡散予想が掲載されており、有益である。4,5,6月には確認したことはない。毎日、確認するのは、ドイツ気象庁の情報で十分である。

|

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »