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Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その四 近代思想

20110613

Fukushima(福島), Tsunami(津波), そしてある少女の死に関する思想史的考察――その四 近代思想

「自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、涙をこらえられなかった。胸に着いていた名札から小学3年生だと分かった。大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には大量のレトルト食品がパンパンに詰め込まれていた。持って走るには、きっと重過ぎただろう」。[1] 

この少女にとって近代という時代とは何であろうか。もちろん、ここでこの小学3年生の近代認識の錯誤を問題にしている。その錯誤の是正を小学生に求めることは、過酷であることは承知している。しかし、その認識論の錯誤は、近代人が陥る陥穽一般と関連している。それゆえ、本稿において問題にする。彼女の死を無駄にしないために。

近代は自然に対する支配力を拡大させた。たとえば、ウラン鉱石を加工することによって燃料用ウランを取り出し、核分裂させた。それによって、発電することに成功した。人間は自然を制御可能であると認識していた。この幻想は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故によって木端微塵に吹き飛ばされた。ストロンチウム90、プルトニウム239を空間に、そして地下水に拡散させることによって、自らの環境世界を汚染した。この汚染は環境世界の汚染にとどまることなく、人間の身体そして精神までも汚染するであろう。

しかし、近代人の日常意識は、自然を克服したという幻想から自由ではない。この錯誤した日常意識が、自然の驚異、たとえば津波に遭遇したときにどのような態度表明をするのであろうか。少なくとも制御可能とみなしている自己の身体と制御不可能な本来的自然を同一視する。食品と自然が同一視され、食品の保持が自然の脅威よりも、より重大であるかのような幻想を抱く。

自己の存在が歴史的な環境世界にあることを認識していれば、そのなかで対処できたはずである。古代以来の人間は、そのように対応してきたはずである。近代以前の人間は、食料が一時的に枯渇しても、対応しなければならない状況を知っていた。近代人のみが、人間的自然と自然それ自体を等値してきた。この大いなる力のもとでしか人間は生存できない。この厳然たる事実を津波は我々近代人に示した。


[1] 「嗚咽、呪い、怒り――遺体確認の法医学者も涙した凄惨現場」『ZAKZAK』(201144日)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110404/dms1104041555021-n1.htm (夕刊フジ)

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