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思想史 1 近代の至高原理としての自由

思想史 1 近代の至高原理としての自由

1.

12頁

近代社会の至高原理とは何か。様々な政治的行為、社会的行為は、共同的自由を拡大するためになされる。この意味を現代日本の事例を用いて考えてみよう。たとえば、郵政民営化は自由な競争社会を樹立しようとし、整備新幹線網の拡大は、より移動の自由を増大させようとするであろう。その結果、在来線の廃止によって、移動の自由が阻害されることは確実であろう。新幹線網の確立は自由を実現するのであろうか、あるいはなかろうか。ここで問題になっているのは、自由一般を実現するための派生的自由あるいは自由の実現手段である。もちろん、自由は原理的に考察されるだけではなく、個々の具体的自由論においても展開されねばならない。

しかし、ここで取り扱う自由論は、このような派生的な自由論ではない。近代社会(die Moderne)そのものの原理を問題にする。この時代の派生原理ではなく、近代の本質のみを問題にする。

 近代の概念は、ヘーゲル哲学のコンテキストにおいて、概念論の水準ではなく、本質論の水準で考察される。「本質は、媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は、本質において相関的であるにすぎず、また端的に自己のうちへと反省したものとして存在していない。したがって、概念はまだ対自存在ではない。本質は、自己自身の否定性を通じて、自己を自己へと媒介する存在であるから、他のものへと関係することによってのみ自己自身へと関係する」。[1]

2.

ここでは、近代社会を他の社会との比較によって考察してみよう。ある社会の本質は、他の別の社会と比較されることによって構想される。近代社会という時代とは異なる時代は無限に設定可能であろう。古代ゲルマン、古代ギリシャ、あるいはポスト・モデルネ(Post-Moderne)つまり近代以後の社会が想定されるであろう。しかし、今の社会が果たして近代以後の社会であるか否かは疑問である。現代は近代と総称されながらも、初期近代との位相差を明確にしながらも、同一性を維持している。

 また、どのような反対概念を設定するかによって、当該概念、ここでは近代概念に関する意味づけが変容する。もちろん、近代社会を前近代との比較によって構想する以外にもその方法は多様である。逆にいえば、それによって近代の本質も変化してくる。様々な反対概念のうち、いずれかを選択することによって、近代の本質も変化してくる。この観点すれば、本書において展開された近代の本質論も相関的なものでしかない。

3.

 近代社会は成功したか否かを問わず、その出自において暴力的革命を経験している。世界史的には17世紀後半のイングランド革命、18世紀後半のフランス革命、19世紀中葉のドイツ革命、日本革命としての明治維新、これらの革命は暴力的手段を用いて絶対主義君主制、身分制社会を破壊しようとした。また、これらの革命は社会的に承認されていた。近代社会は、その根底に暴力革命を伏在させている。

 初期近代は暴力革命への社会的承認があったが、後期近代において如何なる正当性があろうともその社会的承認力は喪失する。逆にいえば、その社会的承認力が喪失することによって、後期近代が始まる。

4.

13頁

 身分は社会的秩序として社会的承認を受けていた。これは、社会的秩序を含めた精神的秩序総体は、神によって形成されたものとして社会的に承認されていた。前近代社会は、神が絶対的なものとして、政治社会を統御していた。神は自然と人間を創造した。自然と人間から構成される社会も当然の事ながら、神によって統御されていた、と考えられていた。

 この思想は、村落共同体における教会という存在によって実体化されていた。生産力の低い段階における当時の村落において、10メートルを超える塔を持つ教会は、将に周辺地域を圧倒していた。土曜日には、教会周辺において市が立ち、日常品を購入できた。また、日曜日には、村落共同体構成員すべてが教会に集合して、神父様の説教を聞いた。この機会は、構成員の社交の場であり、共同体の重要なことが討議された。教会は宗教的機能だけではなく、政治的、社会的な機能を担っていた。また、出生証明等の管理も宗教施設が実施していた。行政的機能も果たしていた。


[1] ヘーゲル『小論理学 下巻 岩波文庫』9頁。

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