適度な政治学――完全性を目的にしない政治学――夢のエネルギーとしての原子力は、地上の楽園と同様に地上の地獄を招く。
20110415 適度な政治学――完全性を目的にしない政治学――夢のエネルギーとしての原子力は、地上の楽園と同様に地上の地獄を招く。
日本原子力研究開発機構広報部のホームページにおいて、「原子力・未来への挑戦~夢のエネルギーを実現するために」という文言を見出すことができる。1 そこでは、二酸化炭素排出量をゼロにした夢のエネルギーとしての原子力発電が推奨されている。所謂、原子力村のホームページであれば、このような文言をどこでも見出すことができよう。
ここでの問題点は、二酸化炭素排出量をゼロにした、あるいはゼロにしようとする意思である。確かにこの点において原子力に勝るエネルギーはない。火力発電所は石油あるいは石炭を燃焼させ、エネルギーを生産している。その限り、二酸化炭素を排出し、環境破壊を進めた。この環境破壊をゼロにしようとした原子力発電は、画期的であり、まさに人類の夢であった。
1960年代、金日成将軍によって支配されていた朝鮮民主主義人民共和国は、自己を地上の楽園と称していた。典拠を上げるまでもないであろう。その情報を信じて、多くの在日朝鮮人及びその日本人配偶者が朝鮮半島の北部へと渡っていった。その結果が無残であったことは、少なくとも現代日本においては周知のことである。
夢のエネルギーは、地上の楽園に対応している。後者において、私的所有は廃棄され、国家所有あるいは社会的所有へと転換された。私的所有に基づく差別は廃棄された。しかし、そこでは想像を絶する富の偏在が存在していた。朝鮮労働党に入党している人間と、そこから排除された人間との関係は、主と奴隷の関係を彷彿させるほど隔絶していた。まさに、地上の楽園は地上の地獄であった。
夢のエネルギーとしての原子力発電は、環境保護の観点から最高のものであった。しかし、原子力発電は制御不可能になれば、二酸化炭素を排出することはないが、セシウム137、プルトニウム239、ストロンチウム90等を環境に拡散させた。確かに、二酸化炭素の排出は環境に良いとは思わない。しかし、二酸化炭素はセシウム137、プルトニウム239、ストロンチウム90等に比べれば、はるかに環境に優しい。セシウム137、プルトニウム239、ストロンチウム90等を体内に吸収することは、体内被曝と同義である。
政治学において夢あるいは楽園という概念を持ち込むべきではない。もちろん、それを志向することは否定されない。しかし、それが実現されると仮定することは、さらなる悲劇を産出する。適度に環境を破壊する石油、石炭発電に対応する適当な政治学こそが求められている。すべての事象は、人間的理性によって制御できないことを前提にすべきである。
1.日本原子力研究開発機構広報部、第58号(2008年5月16日)
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