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書評論文という形式ーー書評との差異

 

書評論文と書評

書評という形式は、学問的な表現形式として伝統的に承認されている。遅くとも18世紀、19世紀のドイツにおいて書評形式は、学問的雑誌だけではなく、新興の情報媒体である新聞、雑誌等においても承認されていた。書評は一般に学術論文に比較して、短いものが多い。たとえば、『ドイツ哲学雑誌』においてA4形成の雑誌1-2頁が書評に費やされている。それは日本語の原稿用紙5枚前後に相当している。この限られた空間において幾多の先人が研究史に燦々たる業績を残している。たとえば、ドイツ観念論哲学者、カント、フィヒテ、ヘーゲル、シェリング等が現代でも参照されている議論を残している。限定された空間において書くべき事柄が決定されている。それは、日本語における俳句の「五七五」という空間に相当している。たとえば、著者の紹介から始まり、ある書籍の意義が述べられている。最後に、当該書籍の欠陥と欠落が著者あるいは書評執筆者によって将来克服されることが述べられている。

この形式における「欠陥と欠落」を指摘する際、限定された空間では、既存のパラダイムを前提にせざるをえない。この前提そのものを問題にしている学術出版物の場合、既存の研究史と新たな研究的前提、つまりパラダイム転換が書評形式において論述されねばならない。その場合、「五七五」という空間から「五七五七七」という空間への飛翔が必要となる。言わば、俳句から短歌へのメタモルフォーゼが必要とされている。質的転換は量的転換を必要としている。量は質を規定する。

原稿用紙20枚前後の書評が自己をさらなる段階へと転換する。書評論文という形式が、この転換を表現している。

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