思想と現実ーー前期近代と後期近代
1848年――1968年
ブルーノ・バウアーの三月前期における前期近代と後期近代の経験
ドイツ思想史における1848年という位置は、世界的水準での近代史における1968年と近接している。1968年において、世界的規模で近代の揚棄が問題になり、若者を中心とした世界変革が問題になった。政治的行動と政治的変革が同一視された幸福な時期であった。また、それは、近代史における最後の暴力革命への社会的承認であった。多くの近代国家は、その発生史において暴力革命を経験している。しかし、一端成立した近代国家は、自らに対する暴力革命を否定した。その最後の経験が1968年革命とその敗北である。1968年以前において近代の揚棄とその方法論が議論されていた。それ以後、その問題設定そのものが無効になる。大衆社会の出現である。そこでは、大衆の個人的な私的利益への充足が課題になった。
同様な役割をドイツ思想史において1848年が果たす。ドイツ1848年革命以前、つまりドイツ三月前期における思想的課題は、来るべき近代をどのように概念化するかという点にあった。ブルーノ・バウアーもこの点において一定の寄与をなしている。しかし、彼は1844年以降、この思想の非実現性を思想の中心的課題にすえた。そして、1848年革命以後、この思想的設定そのものを放棄する。
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