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変転しない世界と自己を信じる馬鹿:世界と自己は変転する。

 拙著『近代の揚棄と社会国家』(萌文社、2005年)が問題にしたことは、世界そのものが変転することである。にもかかわらず、近代社会は世界の把握を目指し、世界をある一元的原理へのと還元しようとする。この原理として、市場社会、資本主義社会(あるいはその揚棄態としての社会主義)を容易にうかべることができる。

近代社会は世界観だけではなく、人間観も一元化しようとする。現実態において人間は変転するにもかかわらず、その一元的把握を指向する。自己そのもの、あるいは人間関係が、変転しない自己という幻想に陥る。

「君子豹変」という単語を例に取ろう。この言葉は、人間が変化することが、善であるという前近代、おそらく古代中国に由来する思考であろう。しかし、近代においてこの熟語は、悪であるとみなされる。「麻生首相の豹変」という批判は、原理原則なく思想の廃棄を意味している。2009年に給付された定額給付金を例にとれば、彼はこの給付金を受領することを、その当初さもしいとみなしていたが、のちに喜んでこれを受領すると言いだした。これに対する非難が、「豹変」という言葉によってなされた。果たして、流転する自己は悪いことであろうか。もっとも、麻生氏を「君子」とみなすことには抵抗があるが・・・。

人間自身の把握の一元化は、世界の一元化に対応している。変転する自己にもかかわらず、自己の本質、本当の自己、自分探しが流行している。あるいは、前世における自己を幻想的に取り出し、前世と現生、あるいは現時点の自己とを統一的に把握しようとする。前世は永遠の真理とみなされ、幻想において固定化される。

しかし、そのような固定化された自己の本質などはどこにも存在しない。そのような幻想を信じることは馬鹿の典型であろう。

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