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ある事柄の全体的把握の不可能性

以下の駄文は、ある講義の補足資料として作成したものである。

 哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。

その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべる。これは、今はやりのフェミニズムと関連しているが、この問題を除外しても、以下のような問題がある。(もっとも、あまりこのセリフをフェミニストがテレビ局に抗議したという話もきかないが・・・・。抗議などしなことが当然であるが・・・)。

第一に、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。不可能なことを他者に約束している。

第二に、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。あるいは、幸福概念は物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。この問題は広範な領域と関連しており、本人ですら自覚していない。

第三に、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。その間に両者の関係だけをとっても変化し、環境世界の変容は予想すらできない。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。

第四に、ここでは「君」の全体像を把握していることが前提になっている。本人にも分からないことが、なぜ他者に了解可能であろうか。ある事柄の全体を把握することは哲学的には不可能とされている。世界の概念的把握ができないのと同様に、個人の把握もできない。

第五に、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。この命題にどれほど責任倫理が付随するのであろうか。後になって、「私の人生を返して」と相手に訴えても、時間的過去をとりもどすことはできない。

 ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、このようなことを考える人間は必要であろう。また、人間はそのようにしか行為不可能である。

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