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生得観念と平等主義的原理ーー初期近代の思想

デカルトの思想の一部を要約してみよう。大陸合理論において生得観念が認められていることによって、人間は理性的存在として規定されている。人間は神によって創造された、生来の理性的存在者であり、万人が理性的存在者である。平等かつ同質的人間像が構成され、理性的人間が自己自身に基づいて真理に到達可能である。複雑な世界が単純な原理に還元されることによって、この真理に万人が接近可能である。平等的世界像が成立し、政治的領域における一人一票制が成立する。身分制的原理において、身分が上昇すればするほど、理性をより多く持ち、身分が低いほど、理性をより少なく持つ。支配あるいは政治的なものに従事する身分と、そこから除外された身分が明確に区別されている。後期の身分制社会において、その原理を根本的に否定する近代的論理が現れる。

この点はロックのタブラ・ラサの理論と同様な平等主義人間像を描いている。それは通説のように、相対立する議論ではなく、初期近代特有の思想である。

彼のこの思想には幾何学的世界像が背景にある。幾何学は単純な概念から複雑な概念へと上昇可能である。点と線という単純な概念から構成される。この単純な原理は万人によって認識可能であり、人間が理性的存在であるかぎり、この単純な原理を認識可能である。

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馬鹿撲滅運動?ーー馬鹿のふりをして?

 呉智英が「馬鹿撲滅運動」を提唱していた。しかし、この運動にもかかわらず、馬鹿は繁殖している。近代社会が根本的に揚棄されないかぎり、それは無理であろうし、近代の揚棄も可能とは思われない。

 このごろ、馬鹿は自覚的に馬鹿を装い、自己の隠された利益を追求しているように思える。馬鹿のふりをして、正確には局所的正義を主張しながら、隠された別の自己の物質的正義を追究しているように思えてならない。もちろん、その局所的正義に追随しているのは、本当の馬鹿であるが・・・・。

 馬鹿を相手にするのは疲れる。しかし、繁殖した馬鹿を相手にしなければ、仕事にならないのもまた事実であろう。どのようにすれば、この円環構造から逃れられるのか、思案している。

 

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専門馬鹿と官僚制

 専門馬鹿という言葉が数十年前、つまり初期近代から後期近代への移行期において流行した。それは、主として社会反乱が学生層、青年層を中心としていたがゆえに、批判の矛先は支配階級だけではなく、大学教授に向かっていた。この批判は、大学教授の性格づけとしてはほぼ妥当している。多くの教授が専門家であろうとすれば、一般教養は放棄せざるを得ないからだ。専門家として成功しながら、一般教養においても秀でている教授はまれであったし、現在もまれである。多くは偏狭であり、偏屈である。しかし、この言葉は教授に対する称賛の言葉でもある。専門的知識人である証拠だからだ。そして、教授が少なくとも大学から出ないかぎり、社会的な害悪をもたらすことはほとんどない。

 しかし、この専門馬鹿が、官僚機構に属するすべての人にあてはまるならば、問題は国民生活全般に係わってくる。法律、条例を実質的に作成し、その運用にあたる人間が、専門馬鹿であれば、その社会は死滅する。官僚、役人がすべてその自己の狭い仕事範囲の事柄しか熟知せず、全体的利益を考慮しないで政策決定をなし、それを運用するかぎり、社会が崩壊する。現在、民主党、そして自民党も官僚政治打倒と叫んでいるのは、官僚の狭い視野では、全体的利益が考慮されないからだ。もちろん、政治家にその能力があるか否かは疑問であるが・・・・。

 問題はこの専門馬鹿であればあるほど出世という機制が官僚機構に存在していることである。与えられた仕事以外の観点、あるいは自己の所属する部署への不利益を考慮する役人がいたとしよう。彼は上司から排除され、同僚からいじめられるであろう。まず、出世はあきらめたほうがよさそうであろう。

 たとえば、「高速道路1000円均一」という政策を見てみよう。それによって、高速道路を利用した需要が喚起されるという側面がある。しかし、高速道路へと交通がシフトすることによって、公共交通はますます衰退する。とりわけ、廃止が常に議論の対象になっている地方鉄道、地方海上輸送は壊滅的な打撃をうけるであろう。もちろん、高速道路無料化という政策は、それらに壊滅的打撃を与えるだけではなく、息の音をとめることになろう。この政策を国土交通省大臣が推進することによって、公共交通という社会的基盤を破壊している。彼らが考察の対象にしているのは、高速道路だけでしかない。それだけから考察するえば「理性的」な政策判断であろう。しかし、地方公共交通の破壊という観点、あるいは地方破壊という観点からすれば、別の視角が必要であった。

 もちろん、官僚が地方破壊を目的にしているのであれば、また別の文脈が必要である。官僚機構の上層部は必ずしも専門馬鹿でないからだ。しかし、この真の目的が公共的議論領域に現象することは、少なくとも近未来的には無理であろう。

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ある事柄の全体的把握の不可能性

以下の駄文は、ある講義の補足資料として作成したものである。

 哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。

その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべる。これは、今はやりのフェミニズムと関連しているが、この問題を除外しても、以下のような問題がある。(もっとも、あまりこのセリフをフェミニストがテレビ局に抗議したという話もきかないが・・・・。抗議などしなことが当然であるが・・・)。

第一に、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。不可能なことを他者に約束している。

第二に、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。あるいは、幸福概念は物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。この問題は広範な領域と関連しており、本人ですら自覚していない。

第三に、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。その間に両者の関係だけをとっても変化し、環境世界の変容は予想すらできない。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。

第四に、ここでは「君」の全体像を把握していることが前提になっている。本人にも分からないことが、なぜ他者に了解可能であろうか。ある事柄の全体を把握することは哲学的には不可能とされている。世界の概念的把握ができないのと同様に、個人の把握もできない。

第五に、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。この命題にどれほど責任倫理が付随するのであろうか。後になって、「私の人生を返して」と相手に訴えても、時間的過去をとりもどすことはできない。

 ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、このようなことを考える人間は必要であろう。また、人間はそのようにしか行為不可能である。

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