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可能性の限界内における可能性ーー大麻に唯一の可能性を見出す馬鹿

 本ブログにおいて、無限の可能性を自己に投影することの無意味さを常に考えてきた。自己の芸術的才能を信じるニート、あるいは研究者を目指す元大学院生が、無限の時間を前提にしていることを常に指摘してきた。

 しかし、本記事ではその逆も指摘しておこう。つまり、つまり限定された時間と能力においてもその中ではかなりの可能性が残されていることがあるからだ。それに気づかない場合も多い。

 ここでは大麻を例にしてみよう。人間社会は多くの嗜好品を伝統的に許容してきた。大麻に至る段階において、珈琲、酒、煙草等過剰摂取すれば問題になるが、過剰に摂取しない限りそれほど問題にはならない嗜好品を提供してきた。

 それはそれ自身を肯定してきたと同時に、社会の存立を危険に陥れる対象から分離させることを目的にしてきた。大麻、覚醒剤等の嗜好品が人間の健康だけではなく、社会そのものを破壊する要素があるからだ。煙草を吸って、刃物を持ち、殺人を犯す危険性は極端に少ない。もちろん、酒を飲み、刃物を持ち出す可能性は煙草よりも多いが、覚醒剤はその比ではない。

社会は大麻に至るまでに多くの段階における嗜好品を準備している。この段階を無視して、大麻に至る馬鹿が多い。おそらく、国内における大麻使用率は摘発されている以上であろう。未成年の場合、その報道は抑制される傾向にあるからだ。

 大麻に至るまでに、酒を飲み、煙草を吸うべきだ。紙煙草で満足できなければ、葉巻を吸えばよい。嗜好品を大麻に限定するような馬鹿なことは慎むべきであろう。大麻に至るまでにその段階を踏まえるべきであろう。

 

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