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枝葉末節に拘る馬鹿ーー麻生総理の漢字能力と政治能力は無関係

 このごろ枝葉末節の事柄が本質である、とみなす人が多くなっている。事務労働者の世界でも、「フォントの大きさ、罫線の太さが違う」と批判して、得意になっている人が多くなっている。現に義務教育の教育労働者の世界では、「字の大きさやフォントなどを何度も書き直させる」(「先生、生徒指導は今」『毎日新聞』2009年1月28日、第2面)ことが一般化しているようだ。逆に言えば、このような事務処理能力に長けた人間が、良い教員、能力の高い公務員とされるのであろう。このような能力は、以前には村役場の庶務掛長にのみ必要とされる能力であり、高級官僚、大学教員、況や政治家に求める能力とは異質であった。

 このような転倒が一般的になり、本質的議論は等閑視されている。議論が単純化され、矮小化されればされるほど、本質は失われてゆくであろう。確かにそのような指摘は正しい。しかし、フォントが統一され、誤字脱字のないことは、それが本質的に正しいか、どうかということと全く無関係であろう。漢字が読めなくても、読めてもどうでもよい。フォントが少しヘンでも、内容が理解できればそれでよいのではないか。

 このごろ麻生総理の漢字能力に対する批判が、その政治的能力と同一視されるという馬鹿げた議論が横行している。彼の政治能力と文章能力とは別のものであろう。もし、批判すべきであれば、その政治思想であり、漢字能力ではないであろう。

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大学教員は「象牙の塔」へ帰れ?

 大学教員の世界において現在、「地域貢献」が叫ばれている。しかし、地域貢献が社会貢献、せいぜい日本社会の水準で考察されるかぎり、それは正当なものかもしれない。御用学者は別として、中央政府の審議会委員になることによって、その学問的見地から有益な情報をえることもあるからだ。

 しかし、地方政治に関与することは、その学問的成果を十全に還元できるのであろうか。地方自治を専攻している学者を除外すれば、疑わしいものになろう。統計学、確率論を学んだ学者からすれば、現実の身近な政策決定過程に参加することはその学問的良心からすれば、痛ましい結果になろう。現実の政策決定過程はそのような学問的成果を無視して、たとえば他の市町村がやっているからという横並び意識から決定される場合も多い。そこでは彼が生涯を賭けて学んできた確率論、統計学の基礎知識すら無視される。確率論からすれば、明らかに破滅へと進むことがほぼ確実にもかかわらず、その政策へと関与しなければならない。

 その審議会でどのように正論を吐こうとも、ミクロ的合理性にしか興味のない人間にとって、彼の統計学の基礎知識は余計である。ミクロ的合理性追求の学者にとって、専門外の統計学の議論は、他の素人同様に余計なものである。あるいは、前例第一主義の人間にとって、彼の統計理論はわからないはずである。耳を傾けようともしない。彼の発言の前に、根回しはすでに終了しているからだ。

 抽象的、歴史的水準を別にして、具体的水準において政策決定過程に学者が動員されることは慎まねばならない。もっとも象牙の塔などはどこにもない。帰るべき場所は、研究対象への没頭することだけかもしれない。

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公共交通における一元的思考ーー馬鹿が自家用車でやってくる

 本邦では路面電車、電車等は首都圏、名古屋圏、関西圏を除けば、悲観的にならざるえません。たとえば、ガソリンが、リッター500円をこえれば、自家用車の使用はかなり限定されざるをえません。鉄道等のない地域社会の衰退、まさに地方の衰退が加速されるでしょう。

 本ブログで再三再四述べたように、「一元的思考--たとえば、交通整備とは道路整備に限定される」は、おそらく破綻するでしょう。このような短絡的、近視眼的思考は近代の宿命的要素でもありますが、やはり批難されるべきでしょう。

 ミクロ的合理性とマクロ的非合理性、端的に言えば、マクロ的馬鹿が共存しているのが近代かもしれません。ミクロ的合理性を追求するという学問的存在形式は、現実世界を歪なものにします。とりわけ、似非学者、御用学者の横行がそれを追認しています。

 

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「エアフルトの路面電車」のコメント終了

 本記事に対して多数のコメントをいただきました。コメントは以後受け付けません。多くのコメント提供者に感謝します。多くの国に路面電車、電車が走っており、公共交通の重要性が世界的に認識されていることを再確認しました。ありがとうございました。

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エアフルトの路面電車ーー自動車の排気ガスなき市街地

エアフルトはドイツ連邦共和国チュウリンゲン州の首都である。この州はドイツ中部に位置しており、旧ドイツ民主共和国に属していた。ドイツの地政学上の中心的都市である。この州には、ゲラ等の工業地帯と同時に、ヴァイマール等の歴史的に重要な都市を含んでいる。この事実がこの州、そしてエアフルトの街の存立構造を規定することになる。

まず、工業化と町の存立構造との関連性から考察しみよう。この地域では、19世紀中葉から工業化が始まり、その後の国家社会主義、社会主義時代を通じてその形態は変化しなかった。そこでは、20世紀中葉以降において環境問題に配慮しない工業化が推し進められ、前世紀末、つまり社会主義政権末期においてその問題は大きな国内問題になった。多くの子供が疎開に似た形で工業地域から排除され、市民は大きなマスクをして工場へと向かった。社会主義政権に対する非難は様々な視角から可能であるが、生産主義に陥り、環境問題への配慮が少なかったこともその原因の一つであろう。首都東ベルリンは清潔で、かつ物資の供給も豊富であったが、地方、とりわけ戦前からの工業地帯における環境破壊は誰の目にも明らかであった。

次に、歴史性に言及してみよう。この州にはエアフルト、ヴァイマール、イエナ等ドイツの近代史に登場する歴史的伝統を有している都市が多数ある。これらの都市は工業都市だけではなく、有数の観光都市であり、かつ大学都市でもある。環境問題には敏感である。

この二つの要素がエアフルトの交通政策にも反映される。とりわけ、興味深いことは、町の中心部の旧市街において、自家用車の進入が制限されていることである。もちろん、貨物搬入用車両、緊急車両等の特別な許可を持つ車両は別であるが、一般車両は原則的に市街地から排除されている。しかし、都市住民、観光客にとって不便はほとんど感じない。多くの駐車場が市街地周辺に準備されており、かつ路面電車が縦横に走っているからだ。しかも、写真からからも分かるように大型車両による4両編成が珍しくない。ガソリンの排気ガスを吸引する危険から都市住民と観光客が免れているからだ。彼らは、路面電車と徒歩によって市街地散策が可能になっている。

http://de.wikipedia.org/wiki/Erfurt

参照:Blog4 

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