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異邦人ーー煙草による自己疎外の回復

 誰でも、自分はここにいるべきではないと感じることがある。それは、どのような華やかな場であれ、どのような熱狂に包まれようとも感じることがある。その時、一本の煙草に火をつける時、いつもの自己がまだ生きていると感じられることがある。

 外国に初めて行った時のことである。もちろん、知人も友人もいない。医療システムに対する情報もない。自分が属する組織もまだみえない。すべての世界が自分にとって疎遠であると感じられるときは誰にでもあるはずだ。

 その時、一本の煙草に火をつける。日本から持参したハイライトである。その一本の煙草に火をつけて一服したときだけ、まだ生きているという実感が生まれた。ここで死ぬわけにはいかないからだ。

 そのときの一本の煙草が私に与えてくれた恩義に対して、どのように報いることができるのか、まだ思案中である。

 そしてそのような一本の煙草を吸う場所がないことが、人間性を破壊しているのであろう。破壊された場所、破壊された人間性の回復の可能性は限りなく小さい。

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煙草の効用ーーまあ、一服と殺人の抑止力

  昔、ある青年が「あの野郎、ぶち殺したる」と無意識に叫びながら包丁を持っている姿を目撃したことがある。その姿は鬼気迫るものがあった。しかし、その姿をみたある老人が一本の煙草に火をつけ、その青年に渡した。その青年が煙草を一服した後、肩から力が抜けたようにして、包丁を落とした。

 もし、この青年にとって煙草がなければ、殺人罪で少なくとも10年位は刑務所暮らしを余儀なくされたであろう。このような情景が今でも目に焼き付いている。禁煙運動家はそのような青年の行動には無頓着である。

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昔、総評、今、禁煙ーー馬鹿が陸軍でやってくる

 昔、総評、すなわち日本労働組合総評議会という労働組合の連合組織があった。その是非はともかく、この総評はかつての日本陸軍と同様に独断専行するという性格が強かった。ある評論家がこの組織を評して、昔、陸軍、今、総評という有名な言葉を発した。一番有名な総評が為した行為のひとつは、「スト権スト」であった。労働組合の内部では、一定程度理解されたのであろうが、普遍的意義を持ちえないものであった。とりわけ、国労がこれに参加したことにより、国鉄解体の引き金を引いたと言っても過言ではない。つまり、このストによりすべての貨物列車もストに入り、多くの生鮮野菜を腐らせた。それにもかかわらず、総評、国労の執行部はストを止めなかった。その記憶は今もある。それ以降、農産物の鉄道からトラックへの移行が決定的になった。農家が腐敗する野菜を見て、涙ながらに抗議しても、幹部たちは無視していた。

 自らの組織を解体するような愚行の象徴として今でも記憶されている。この愚行を、数十年前の総評を見習った禁煙運動組織が行っている。禁煙もスト権ストも、ミクロ的に考察すれば、正しいかの外観を呈している。スト権ストも労働運動家においては当然=自然のことであった。しかし、その作用が別の領域においてどのような結末を生むのかに対して無頓着であるという点において両者は共通している。国鉄のストによって、国鉄そのものが解体し、禁煙運動によってより巨大な悪をもたらしていることが理解されないようである。昔、陸軍、今、禁煙である。 彼らはなぜ喫煙家が煙草を吸うのかについて全く想像力を働かせないし、その結末に無頓着である。

 

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煙草一箱1,000円?ーー馬鹿が馬鹿丸出しでやってくる

 雨の降る場外馬券場で警備員をやっていたころの話である。正確な時間を覚えていないが、確か45分警備を担当して、15分休憩室で休憩といって勤務形態であったと記憶している。そこでは、45分間、ただ立っていることが仕事であった。常に時計を気にしながら、休憩の時間がくることだけが楽しみであった。交代要員が来て、休憩室で一本のハイライトを喫煙することのみが唯一の希望であった。雨に濡れながら、一本のハイライトを思い浮かべていた。

 このような労働者の唯一の娯楽を剥奪しようとする者はだれであろうか。45分間の労働の唯一の楽しみが一本のハイライトである労働者であろうか。炎天下の自動販売機の前で、一本120円(当時は100円)の冷たいジュースを買おうか買うまいか思案したことがある人間であろうか。

 おそらく、そうではあるまい。このような人間の在りようとは無縁な冷酷慈悲のない人間であろう。すべての人生をほぼ計画通りに生きてきた人間であろう。そうでなければ、1箱1、000円の煙草という馬鹿げたことを想像すらできないであろう。

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大学における禁煙と大麻ーー馬鹿がミクロ的合理性でやってくる

 大学が綺麗になったと評判である。東京の主要大学からは、立て看板がほぼ撤去されている。そして、多くの大学内建物から煙草の灰皿が撤去された。多くの喫煙者は喫煙室という限定された空間においてか、あるいは雨風をきにしつつ屋外で煙草を吸うことを余儀なくされている。

 しかし、大学が綺麗になればなるほど、人間の精神も綺麗になるのであろうか。人間そのものが清潔になるのであろうか。かつての大学内において喫煙は講義室でも自由であった。ある刑法学の最高権威の一人は、講義中も喫煙していた。もちろん、流石にこの教授あるいは助教授は灰皿を持参していただろうが・・・。

 ここで講義中の喫煙を主張しているのではない。受動喫煙は非喫煙者にとって喜ばしい状況ではないからだ。しかし、喫煙者は白眼視され、惨めな状況下で喫煙を許されているにすぎない。このような精神的不自由のなかで、喫煙という小さな逸脱を抑圧していることによって、大学は綺麗になった。しかし、このような小さな逸脱を排除することによって、大学はより巨大な悪を招き入れてしまった。大麻汚染である。小さな逸脱を許すまじ、というPTA的正義が幅をきかすことによってより巨大な悪を産出した。

 ミクロ的に見れば、煙草は多少健康に悪いことになるのであろう。それ自体を否定しているのではない。しかし、人間存在は逸脱を許容している。少なくともそれを意思することによってより巨大な悪から逃れる術を知っていた。少なくとも、煙草の吸殻の落ちていたキャンパスには、大麻はなかった。煙草に満足できなければ、葉巻を吸っていた。しかし、より匂いのキツイ葉巻を吸う環境は少なくとも綺麗な大学からは消えている。煙草から大麻である。あるいは非喫煙から大麻である。段階を踏まえておれば、そのような馬鹿げた飛躍は起きなかったであろう。マクロ的に考察すれば、馬鹿がミクロ的合理性を背負ってやってきたのである。

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