近代における初期近代と後期近代の時代区分
近代革命成立以後、現時点に至るまでの社会を近代社会と総称している。しかし、近代社会は1960-70年代を境として大きく変動する。端的に言えば、68年革命の世界的敗北をその分類のメルクマールとする。前期近代と後期近代という時代区分が必要になる。その、分別の根拠として以下のことを挙げることができる。近代革命は通常暴力革命として出現した。前期近代において暴力への一定の了解があった。しかし、後期近代において暴力への社会的承認力は無になる。この暴力革命への対応がこの前期近代と後期近代を分ける分水嶺になるが、それだけではなく、多面的な社会現象として出現してくる。
近代という枠組は不変ながらも、初期近代において想定されていない事柄が出現する。必ずしも、当該事柄が存在しなかったわけではない、たとえば、環境問題も前期近代、あるいは近代以前からに存在していた。鉱山開発は前近代からあったし、それに伴う鉱毒問題、空気の汚染、伐採過多による洪水等の問題もあった。環境問題は後期近代特有の問題として出現した。後期近代に普遍的なものとして一般に認識された。環境問題だけではなく、高齢者問題、高度医療問題、原子力問題等が出現した。このような新しく認識された問題として、生命倫理もある。初期近代において映画「この天の虹」(木下恵介監督、1958年松竹)において、八幡製鉄所からでる煙は「7色の煙」として肯定的に描かれていた。後期近代では、中華人民共和国における工場煙突として非難の対象になっている。
このような近代の一般理論において対応困難な問題が出現することが、後期近代という時代区分を必要にしている。しかし、これらの問題は必ずしもすべての国家に妥当する問題ではない。後期近代においても、このような問題が現象しない国家のほうが実は多い。後期近代という時代把握が生じるのは、西欧を中心とした高度資本主義国家においてのみである。
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