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討論会の総括

 討論会は終了しました。また、一部のコメントの表示が遅れました。陳謝します。この点を指摘いただいた「馬耳東風」氏に感謝します。

 ところで、個別コメントに対して応答はできません。あまりに多いので。ただし、一括して総括します。ただ、10月過ぎになります。すいません。私事多忙ということでご勘弁願います。

 なお、私にかわり、この討論会全体(コメントを含む)に対する総括がありましたら、よろしくお願いします。できれば、本メイルのコメント欄にコメントをいただければ幸いです。なお、この公開も10月過ぎになります。これもまた、私事多忙ということで。

 皆さん、良い夏休みを。夏休みに成長すると小学校のころ聞いた記憶がありあますが。もっとも、大人になれば、夏休みは死語になりました。夏もまた、仕事です。立派な仕事を祈念しています。

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討論会の終了

 討論会は本日をもって終了します。これ以後、投稿しても削除されます。ありがとうございました。このような難解な課題に対して、投稿があることは現代日本の知的水準の高さを表現しています。

 内容に関しては、後日再検討します。

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討論会ーー世界観

「個人が変化することによって、その世界観も変化する。この意味の、個人的な、しかし抽象化された水準における考察」に関する討論会を企画します。この討論会に関するコメントを募集します。

 なお、コメント欄への投稿は、7月21日から、22日までの2日間だけです。なお、投稿しても、すぐには公開されません。公開はそれ以後になります。

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共生ーー喫煙者と非喫煙者

 個人の恣意的自由は他者の自由を侵害しないかぎり、承認されるべきであるという思想がある。少数者の権利は多数者によって侵害されてはならない。社会を多数派の思考様式によって一元化してはならない。「清潔」な社会は、人間抑圧的である。しかし、近代社会はある原理によって社会を一元化しようとする。学問もまたそうである。市場原理によって社会を一元化しようする。共生という概念は知的障害者と健常者との共生として1950、60年代北欧で広まり、米国を経由して日本に輸入された。しかし、現実において共生はほとんど不可能になりつつある。嫌煙権運動は喫煙者と非喫煙者との共生をなぜ指向しないのであろうか。

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近代における初期近代と後期近代の時代区分

 

近代革命成立以後、現時点に至るまでの社会を近代社会と総称している。しかし、近代社会は1960-70年代を境として大きく変動する。端的に言えば、68年革命の世界的敗北をその分類のメルクマールとする。前期近代と後期近代という時代区分が必要になる。その、分別の根拠として以下のことを挙げることができる。近代革命は通常暴力革命として出現した。前期近代において暴力への一定の了解があった。しかし、後期近代において暴力への社会的承認力は無になる。この暴力革命への対応がこの前期近代と後期近代を分ける分水嶺になるが、それだけではなく、多面的な社会現象として出現してくる。

近代という枠組は不変ながらも、初期近代において想定されていない事柄が出現する。必ずしも、当該事柄が存在しなかったわけではない、たとえば、環境問題も前期近代、あるいは近代以前からに存在していた。鉱山開発は前近代からあったし、それに伴う鉱毒問題、空気の汚染、伐採過多による洪水等の問題もあった。環境問題は後期近代特有の問題として出現した。後期近代に普遍的なものとして一般に認識された。環境問題だけではなく、高齢者問題、高度医療問題、原子力問題等が出現した。このような新しく認識された問題として、生命倫理もある。初期近代において映画「この天の虹」(木下恵介監督、1958年松竹)において、八幡製鉄所からでる煙は「7色の煙」として肯定的に描かれていた。後期近代では、中華人民共和国における工場煙突として非難の対象になっている。

このような近代の一般理論において対応困難な問題が出現することが、後期近代という時代区分を必要にしている。しかし、これらの問題は必ずしもすべての国家に妥当する問題ではない。後期近代においても、このような問題が現象しない国家のほうが実は多い。後期近代という時代把握が生じるのは、西欧を中心とした高度資本主義国家においてのみである。

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