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裁判員と後期近代

裁判員制度

 本邦において、司法過程に対して市民が参加するという制度が法的に要請されている。この論拠に対する基礎づけの方向は多様である。

 この問題は、初期近代において広義の政治参加、市民参加のコンテキストにおいて把握してみよう。行政機構としての司法過程に対する市民参加という観点から、この問題を考察してみよう。市民参加が善であり、参加する市民の理性性が前提にされている。はたして、参加する市民は理性的判断を下すことが理念上求められている。市民の理性が何らかの留保なくして前提にされていた初期近代の議論に基づいている。

 しかし、後期近代においてこの権利としての司法過程は、義務に転化する。この意味に対する討論を期待する。できれば、2,000字ほどの討論論稿を期待している。投稿期日等に関する詳細についてはのちに提示する。来月中旬を考えている。

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裁判員制度が導入されることで国民の意見が裁判に反映されることになる、この点から見れば民主主義の精神からいっても良いことのように思える。しかし、ほとんど無作為に選ばれた人間が人を裁いていいのかという気持ちにもなる。裁判というのは公正な場であるというのが前提としてある。だが、裁判員というのは司法に対して素人の人間である、被告人に対して公正な気持ちでいられるのか疑問が残るというのが正直な気持ちである。司法に国民が参加することが前提とされた初期近代は国民の意識が司法に対して積極的だったのではないかと思う。権利というものは絶対的に保障されるものではなく自らが行動することによって与えられるものだという意識がその時代には存在していたのではないだろうか。現在、このような意識があるかと言われるとどうだろうと思ってしまう。義務化される裁判員制度で行われる裁判で積極的に参加できるのかと思ってしまう。理性的判断を下すことが初期近代では前提とされていたとブログに書いているが、その前提が現在にも通用するのだろうか。理性的判断をするには裁判員となった人間は第三者として量刑を判断しなければならない。それが、可能なのだろうか。私は、よっぽどの理由がなければ被害者の立場に立って量刑を判断してしまうと思う。悪いこととは思わないが、公正な量刑判断ができるのかわからない。知識のない人間が自分の思うままに判断するというのは公正ではないのではないか。そういった点で裁判員制度には問題があると思う。ただ、裁判のニュースを見ていてその判決はないだろうと思うことがあるのは事実である。司法というものが私たち国民にとって不透明である、わかりづらいと思うことがある。裁判員制度を導入することでその面を改善しようというのは間違っていないという点でこの制度を否定することは出来ないだろうとも思う。
実際に導入してみなければわからない面が多くはっきりとした意見を出すことが出来ないが義務化、裁判員に選出方法にはあまり賛同できない。積極的に参加しなければ意味がないと思うし、素人判断で人を裁くことになるということに抵抗があるからである。また、仕事があってもほとんど拒否することが出来ず、不当に欠席したと判断されれば罰則も存在する。司法に参加するということは重い責任を伴うものであるから罰則があるというのもわからないでもないが、やりたくないという人がやる司法参加に意味があるのだろうか。積極的に司法に参加したいと考える人に裁判員になってもらうほうがよっぽど理性的判断を下すことが可能ではないだろうか。日本人は情報に流されやすい性質があるので第三者的立場で量刑判断を下すことは難しいと思われる、この点も問題になると考える。
 しかし、すでに裁判員制度が導入されることは決定されたことである。この制度が施行されどうなっていくのか見守っていこうと思う。

投稿: 人間賛歌 | 2008年1月13日 (日) 00時01分

 裁判員制度とは、一般国民から選ばれた裁判員6名と裁判官3名が重大な刑事事件の有罪、無罪を判断し、量刑を決める制度のことである。このように、国民が裁判に参加する制度は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等の国々でも行われており、裁判を国民にとってわかりやすくすることにより、司法への信頼が向上することや市民から選抜された参審裁判官の理性的判断が司法官僚のそれよりも健全であり、より正確に国民精神における法と正義を発見することが出来るであろうと期待されている。裁判員には、20歳以上で裁判員法に挙げられている事柄に該当しない国民ならば原則として誰でもなることができる。対象事件は、代表的なものとして殺人、強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死、現住建造物放火、身代金誘拐、保護責任者遺棄致死などである。
 この制度において、司法過程を義務化するということは、司法に対する国民参加を強制的に行なうということ、トレーニング、経験、そして当然力量もない国民による裁判では公正な裁判は成り立たなくなってしまうということだと考えられる。その結果、裁判の質の低下に陥る。逆に、裁判官との合議制ということは、裁判官にその能力、信用力があることを物語っており、敢えて裁判員制度を導入する必要はないとも考えられる。その他にも、「国民に果たして裁判の能力があるのか」「制度導入による一般国民の負担」などといった様々な問題がある。
 また、現在の我々にとって、最大の情報源はテレビや新聞、そしてインターネットなどのマスコミである。全国各地で日々起きている事件も、政治状況もすべてそれらが無ければ知るのは困難である。つまり私たちは、マスコミが与える情報以外に比較する対象を持たず、実に視野の狭い部分でしか情報を受けとることができないのである。また、凶悪犯罪についての報道が私たちに伝えるもの、中でも特に被害者や遺族のことは、悲しみと怒り、そして犯人に対する憎しみなどの感情的な部分が大半を占めているのは事実である。このような偏った情報によって国民の感情が左右されている今の社会の中で、私たちが裁判に参加して公平な審理を行うのは、不可能ではないだろうか。実際、人というのは賛成・反対の決断に迫られたときに、ある問題を論理的に判断しようとしても、自然と主観が入ってしまうもので、それは仕方のないことである。しかし、裁判とは法に基づき行われるものであり、決してそこに自らの感情を加えてはならないのである。なので、現状行なわれている制度の維持が妥当のようにも考えられる。
 しかしながら、日本という国は民主主義の国である。民主主義というのは、個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制のことである。つまり、民主主義のためには、国民参加が不可欠なのである。国民が刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながることが目的とされており、裁判の透明性にもつながるものと考えられる。これは、国民の司法への不信は、国民が裁判及び裁判官をよく知らないためと考えられているからだ。また、多様な価値観(性別、様々な年代の人、様々な職業に付く人々によってもたされたもの)を取り入れることが出来るので、民意を大きく反映できるのではないだろうか。そして、これらにより直接司法に 関わることが国民的基盤の強化につながり、司法が民主的基盤を得る事ができるのである。そして、民主主義を強固なものとし、その適正な土壌が作られるのである。そういった意味においては、裁判員制度は必要不可欠のもといえるだろう。
 今から1年後、裁判員制度は確実に行われる。そうなると私たちは、いつ、どこで、どのような事件の裁判に参加することになるのかはわからない。なので、本当に、裁判員制度の意義や目的に則った、公平かつわかりやすい裁判を実現させるためにも、我々は、自分自身の中で適切な判断力を持っていかなければならないのである。

投稿: 性善説 | 2008年1月12日 (土) 22時46分

 裁判員制度とは、一般国民から選ばれた裁判員6名と裁判官3名が重大な刑事事件の有罪、無罪を判断し、量刑を決める制度のことである。このように、国民が裁判に参加する制度は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等の国々でも行われており、裁判を国民にとってわかりやすくすることにより、司法への信頼が向上することや市民から選抜された参審裁判官の理性的判断が司法官僚のそれよりも健全であり、より正確に国民精神における法と正義を発見することが出来るであろうと期待されている。裁判員には、20歳以上で裁判員法に挙げられている事柄に該当しない国民ならば原則として誰でもなることができる。対象事件は、代表的なものとして殺人、強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死、現住建造物放火、身代金誘拐、保護責任者遺棄致死などである。
 この制度において、司法過程を義務化するということは、司法に対する国民参加を強制的に行なうということ、トレーニング、経験、そして当然力量もない国民による裁判では公正な裁判は成り立たなくなってしまうということだと考えられる。その結果、裁判の質の低下に陥る。逆に、裁判官との合議制ということは、裁判官にその能力、信用力があることを物語っており、敢えて裁判員制度を導入する必要はないとも考えられる。その他にも、「国民に果たして裁判の能力があるのか」「制度導入による一般国民の負担」などといった様々な問題がある。
 また、現在の我々にとって、最大の情報源はテレビや新聞、そしてインターネットなどのマスコミである。全国各地で日々起きている事件も、政治状況もすべてそれらが無ければ知るのは困難である。つまり私たちは、マスコミが与える情報以外に比較する対象を持たず、実に視野の狭い部分でしか情報を受けとることができないのである。また、凶悪犯罪についての報道が私たちに伝えるもの、中でも特に被害者や遺族のことは、悲しみと怒り、そして犯人に対する憎しみなどの感情的な部分が大半を占めているのは事実である。このような偏った情報によって国民の感情が左右されている今の社会の中で、私たちが裁判に参加して公平な審理を行うのは、不可能ではないだろうか。実際、人というのは賛成・反対の決断に迫られたときに、ある問題を論理的に判断しようとしても、自然と主観が入ってしまうもので、それは仕方のないことである。しかし、裁判とは法に基づき行われるものであり、決してそこに自らの感情を加えてはならないのである。なので、現状行なわれている制度の維持が妥当のようにも考えられる。
 しかしながら、日本という国は民主主義の国である。民主主義というのは、個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制のことである。つまり、民主主義のためには、国民参加が不可欠なのである。国民が刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながることが目的とされており、裁判の透明性にもつながるものと考えられる。これは、国民の司法への不信は、国民が裁判及び裁判官をよく知らないためと考えられているからだ。また、多様な価値観(性別、様々な年代の人、様々な職業に付く人々によってもたされたもの)を取り入れることが出来るので、民意を大きく反映できるのではないだろうか。そして、これらにより直接司法に 関わることが国民的基盤の強化につながり、司法が民主的基盤を得る事ができるのである。そして、民主主義を強固なものとし、その適正な土壌が作られるのである。そういった意味においては、裁判員制度は必要不可欠のもといえるだろう。
 今から1年後、裁判員制度は確実に行われる。そうなると私たちは、いつ、どこで、どのような事件の裁判に参加することになるのかはわからない。なので、本当に、裁判員制度の意義や目的に則った、公平かつわかりやすい裁判を実現させるためにも、我々は、自分自身の中で適切な判断力を持っていかなければならないのである。

投稿: 性善説 | 2008年1月12日 (土) 22時44分

最近、裁判員制度が来年もしくは再来年から施行されるからか、いろいろ話をよく聞きます。しかし判決に与える影響は本当にあるのか、また国民が負う負担を軽減する保証、制度はしっかりしているのかと思うと疑問です。
国民にも裁判の情報開示が必要であるとか、とかくそんなことが言われていますが、おそらく国民の大多数は裁判員に参加したいとは思ってはいないでしょう。ただしこれは義務であるということで、選ばれてしまったらその責任から逃れることはできません。ここで責任という言葉を使いましたが、この言葉にはいろいろな意味が含まれているわけです。単に国民の代表として裁判を見届けるのではなく、積極的にほかの裁判員たちと議論を話し合い、そして量刑を決めるわけです。アメリカのように有罪無罪だけを決めるわけではありません。刑の重さまで決めなくてはなりません。ネットで確認したところ、「法的な判断はこれまで通り裁判官が行います。」との記述を最高裁判所のWEBサイトで発見しました。また、「裁判員の皆さんには、事実認定と量刑について判断していただきます。これについては法的な知識は必要ありません。」という事も書いてあります。裁判の有罪か無罪かを一般の国民が決めるということは、果たして本当に良い事なのでしょうか。彼らはあくまで一般の人たちです。法律のことなんてたいていの人が何も知りません。ですから検察側と弁護側はわかりやすい言葉を用いて裁判員に説明しなくてはなりません。けれど、結局のところ、その説明を聞いて益々混乱することになるでしょう。検察と弁護は正反対のことを言います。そのどちらが正しいか裁判員自信が判断しなくてはならないのですが、本当にほかの裁判員に左右されないと証明できるでしょうか。どちらにしろ多数決を採用しているそうなので、日本人の性格上から、多数派の意見に皆流れてしまう気がします。また被告人に対する処罰感情が働き、冷静な判断に欠ける部分が出てくると思います。一般の国民はメディアからの処罰感情を駆り立てるような偏った情報を受けるので、少なからず判断に影響するのではないかと感じてしまいます。それと、裁判員制度の対象になる事件は殺人などのかなり重い事件です。ともすれば、被告人を死刑にする判決を、一般国民が決めるということもありうるようです。自分の判断が判決を左右してしまったと考えるとその精神的な重圧は相当なものだと思います。
裁判員制度を導入した理由の一つとして挙げられているのが、裁判官は司法の上で法を裁く専門家として長けていますが、その反面、広い視野での判断や、一般的な常識が不足していると見られ、その部分を補うために一般国民の常識の判断が必要になったと聞きました。実際にその常識的な判断がなかったために、疑問が残る判決が出てしまった裁判もあったようです。このように一般常識から見る見解も裁判には必用かと思いますが、裁判員という形で参加し、上記で示したとおり一般の国民が冷静に、理性のある判断し裁判に影響を与えるかというと疑問に感じてしまいます。また時間的な問題、金銭的には給与保証などの問題も出てくると思います。
このような点を踏まえると裁判員制度が果たして期待通りの効果を発揮するとは感じることができなかった。

投稿: 性教師 | 2008年1月12日 (土) 22時44分

 近ごろ話題となっている裁判員制度だが、これはもっと以前にナウヴェルクによって実行すべきだと言われていた制度である。何故、ナウヴェルクがこの制度を実行すべきだととなえたかと言うと、それは国民自身による司法過程への参加が、犯罪を抑圧・減少させることにつながると考えられたからである。
 ナウヴェルクがいうように、国民自身が国民を裁くことによって本当に犯罪は減少するのだろうか。自分が裁く側をやらなければならないので、普通裁かれる側にたちたいと思う人間は確かに減少するかもしれない。しかし、たとえば親を殺した未成年は親に裁かれるわけでもなく、自分が他人を裁いた経験もないので、そんな心情は一切察知できないだろう。危ない思想を持った殺人犯などを裁く場合には、そもそもそんな人間に人を裁く権利など与えてはいけないと思うし、裁判員である国民が、たとえば死刑にしなくては殺される、などと考えて誤った審判をくだすことになってしまうかもしれない。
 裁判員制度を取り入れることによって誤審は減少するのだろうか。『市民から選抜された参審裁判官の理性的判断が、司法官僚のそれよりも健全である』とナウヴェルクがいうように、裁判官の判断が裁判に参加している国民ら以外の国民の判断と異なるものであることは多いように思われる。また、裁判官は、個人的な心情を判断に取り入れないように、偏った判断をくださないように慎重になりすぎているのではないだろうか。それが逆に明白な事実を曇らせて、誤った判断をくだしてしまったりすることにつながっているのであると考えられる。しかし、わたしは裁判官だけを責めるわけにもいかないと考えている。テレビや裁判を見ているだけの国民は、自分なりの判断をくだしたところで他人のこれからの人生を左右したりはしないが、裁判官の判断にはそれを左右してしまう力がある。たとえばその自分なりの判断が間違っていて、そのせいで無実の人間を何年も刑務所に入れてしまったり、最悪の場合死なせてしまうことだって有り得るのだ。逆に罪のある人間を社会に野放しにしてしまうことだってある。そんな責任を背負って、果たして本当に冷静な判断がくだせるのだろうか。平常心を保ち、同情や怒りに流されず、正しい判断をくだすことができるのだろうか。おそらく裁判員制度は、国民の”健全”な判断を裁判に取り入れることによって、裁判官のゆがんだ理性的判断を”健全”な判断にする効果を期待されているのだろう。しかし、国家に真剣に関心を持っている国民はどの程度いるのだろうか。仕事でもないのに他人のこれからの他人の人生を左右するほどの責任を負わされることを、喜んで受け入れる国民など存在するだろうか。裁判員制度に関する国民の反応を撮影したドラマやニュースをいくつか見たことがあるが、たいていは嫌々裁判員をやっているという風であった。国民ひとりひとりが裁判員をやれば、理性的な判断をくだすことの難しさや最終的な決定するときの緊張が理解できるだろう。しかし、”健全”な判断をくだすことを期待されている国民が、その緊張に飲み込まれてしまう可能性も、なきにしもあらずである。そうすれば知識のない国民は、裁判官の”理性的な判断”に自分の判断をゆだねるしかなくなってしまうのではないだろうか。さまざまな立場の国民を裁判員にすることによって、確かに偏りのない意見・判断を求めることができるのかもしれない。しかし、本当に、犯罪について何の知識もない人間に他人を裁かせてよいのだろうか。テレビドラマでは、何かわからないことがあれば裁判官が丁寧に教えてくれると説明していたが、どの程度の丁寧さなのかはその裁判官によって異なる。また、理解力も国民ひとりひとり異なる。だからどんなに丁寧に説明してもわからない国民がいれば、裁判がスムーズに進行できなくなってしまったりするのではないだろうか。裁判員を面倒だ、と思っているやる気のない国民がいれば、それだけで場の雰囲気が壊れてしまうだろうし、裁判を早く終わらせて仕事に戻りたい、と思えば適当な判断をくだし誤審をしてしまう可能性だって高くなる。
 裁判員制度は、国民自身を司法過程へ参加させることによって、犯罪を抑圧・減少させることにつながる。国民の健全な判断を取り入れることで、裁判官の判断を健全にする。などの効果があるのかもしれないが、それらは国民が健全な、冷静な精神のもとに判断をくだすからこそ期待できる効果であり、たとえば強い恐怖感におそわれてしまったり、裁判の緊張感や責任感に国民が自分を見失ってしまえば、その効果は期待できなくなってしまう。それどころか、逆の効果を与えてしまうかもしれないという危険性すらはらんでいると、私は考えている。ゆえに、今は裁判員制度に賛成はできないが、それによって得られる有益な効果があるかもしれない、と考えていることも事実である。
真駄男

投稿: 真駄男 | 2008年1月12日 (土) 22時41分

日本で裁判員制度が2009年5月をめどにいよいよ導入される。この制度の目的は、行政機関による文書によると、1つ目に「市民の司法参加は、国民主権を実質化し、司法の国民的基盤を確立するためにも必要不可欠な制度であり市民の・市民による・市民のための裁判が実現することによって、司法に対する理解が深まり、信頼が高まることが期待される。」とし、次に 「さまざまな生活上の経験や知識を持った市民が刑事裁判に参加することによって、証拠を多角的に評価することが可能となり、刑事裁判の質が向上さまざまな経験や知識を持った市民が、その良識に照らして疑問の余地はないと確信してはじめて、有罪とする。そのような仕組みが、市民のかけがえのない自由や権利を守る。」と述べている。

この制度には、司法への市民参加が可能になる、法律家の専門的見地からではなく、多角的に物事を判断出来るというメリットが確かにあるが、実行するにあたっていくつか問題があると思われる。その1つに裁判員は、市民から無作為に選ばれ、特別な理由がなく拒否した場合、過料が課されることもあるというから、国民が強制的に司法過程に導入されると点が挙げられる。

一方で初期近代における国民による司法過程への参加はどのようなものであったのだろうか。ナウベェルクが主張した国民の司法参加についてまとめてみる。

初期近代の時代背景として、絶対王政が崩壊し、新たな社会秩序の構築が求められおり、一部の権力者による統治ではなく、統一的民族の形成のため、国民の意思に基づく国家形成が望まれた。そこで国民は政治的・公共的生活に進んで参加し、それに伴い普遍的な体系知を持ち合わせていることが必要とされた。司法過程に関しても、国民の現実的な生活から乖離している司法官僚よりも国民の方がより健全な理性的判断、生活に根ざした法と正義を発見出来るという見解から、司法官僚を統制し、積極的に介入するべきであるというのがナウベェルクの見解であると解釈している。


初期近代の段階では国民の人格形成のために政治参加
を促し、国民は自由主義のもと、自主的に国家に介入していくという印象を受ける。一方新しく導入される裁判員制度では、まず国家主導で制度を構築し、国民がその制度に従わざるえないという図式がある。国家は国民主権を謳っているが、当の国民はそれを本当に望んでいたのであろうか。前者は国民にとって、一言で表せば権利であり、後者は義務と言い表すことが出来るのではないだろうか。

現に裁判員制度に対する批判の声は少なからずある。例を挙げると、「法律の知識など何もない一般人が人を裁いて良いのだろうか。」「うっかり情報を漏らしてしまえば罪に問われ懲役刑を科される恐れがある。」「仕事でそれどころではないのにわざわざ無理して行かなければならないのか。」など数えればきりがない。わたしも人様の人生を左右するような判断を迫られるのは苦痛にしか感じない。運悪く当たってしまわないよう願うばかりである。仮に裁判員の資格を与えられたとしても到底それが与えられた権利と解することは出来ない。苦痛を伴う義務であるとわたしは考えてしまう。


投稿: 分度器 | 2008年1月12日 (土) 20時25分

政治参加における目的の一つは、行政機構の公務員の常識と市民の常識の乖離を埋めることにあった。前期近代においては、個人の中に国家あるいは更に小さな単位の家族としての共同体意識、共同体の常識が成り立っていた。だから、市民の側からしても「みんなのため」ということで、政治参加することにはむしろ積極的であっただろう。その共同性からしても、市民の常識的判断という意味での政治参加はある程度意味をなしていたのである。
 しかし後期近代になり、その共同体という意識は徐々に消え失せようとしている。例えば“Always”のような映画が国民にヒットするのも、共同体に対するある種のノスタルジー的なものなのかもしれない。そんな後期近代において、人々の行動は自己利益の追求に向かっていった。例えばホリエモンである。彼は「お金で買えないものはない」などという今までの常識では考えられないようなことを、大衆に対して呼び掛けた。このことにたいしては賛否両論が相次いだ。今までの“常識的判断”からするとこういった考えは日本人としてあるまじき行為であった。しかし、今までの常識とはあまり縁のない人々、特に若者(前期近代をあまりよく知らないヒト)にしてみれば「どちらでもよい」あるいは「そんなの関係ない」のである。つまり、常識的判断が根底におかれる政治参加において、その下に流れる常識が分化・個別化してきたのである。
そこで、今回の裁判員制度である。司法過程においてしばしば問題となる判決内容と市民感情の乖離、これが司法過程への市民参加を義務化させる一つの理由であろう。つまり、司法による客観的な判断に、市民感情や市民の常識による判断を加えるということである。ここでいわれている常識とはどういったことなのだろう。常識には2つの解釈の仕方が可能である。一つは一般的・社会的な行動に関すること、もう一つは理性に関することである。つまり本邦の裁判制度は後者の理性的な判断を求めているのである。理性は感情と深く結び付いており、切り離すことは容易なことではない。感情はその人の経験にも大きく左右されやすいものである。例えば、イスラム原理主義の人間が自爆テロを起こしたニュースを見て恐怖心を抱き、「イスラム世界は怖い」というレッテルをはる。それが一部の人間による犯行であっても、である。このようにステレオタイプな見方、これをぬぐい切ることは、やはり不可能に近いのだ。そんな中で常識的・理性的な判断が下せるかというと、難しいところである。
 しかし、それが義務化されたことにはどういった意味があるのだろうか。個人の社会における重心の変化から見ていきたい。前期近代は共同体社会であり、個人の重心はあくまでも共同体にあった。それが後期になると個人の重心は私になった。個人が尊重される風潮が過激になり私以外のことには無関心になった。それと並立してジャーナリズムが台頭し、政治の側が矢面に立たされることになったのだ。その声が余りにも大きくなり、国家として国民を組み込まざるを得ない側面もあるだろう。それ以外に解決策があるのではないか、とは思うが、参加させるというその行為に意義があるのではないか。今まで矢面に立っていた公務員から、批判の対象を参加した人間に移すといった側面も否定はできない。つまり、国民を参加させているのだからこの決定は常識的であり、批判することは常識に反する、いわば責任転嫁のような感じもするのである。だから、政府からすれば、批判するならその批判する側である国民を巻き込んで議論を展開させていけばいいという考えもあるだろう。
 理性的・常識的な判断が求められるこの制度であるが、後期近代の人間が参加するとどうなるのか簡単には予測はできない。それが義務になったことにより、人々の苦難が増すことも事実である。そんな中でこの制度が健全に動くのか、疑問を感じるところでもある。

投稿: 富岡町 | 2008年1月12日 (土) 18時35分

裁判員と後期近代について私が最も感じたことは、権利の義務化の意義と重要性を後期近代に生きる私達は正しく理解していないのではないかということである。選挙権、労働三権など、近代の初期から生きてきた先代による努力の末獲得された権利を私達は生まれながらにして持っている。そのように「あって当たり前」のように感じてしまう権利を使用しても使用しなくてもよいと、私達は誤認識してしまっているのではないか。
 初期近代で考えてみると、さまざまな権利は一部の階級によって独占されていた。現代では当然のようにある平等や自由などは初期近代にはなかった。私達が使おうと使わまいと勝手だなどと言っている権利は、当時の人々にとっては考えられないことであった。十九世紀後半に入り、日本でもやっと平等や自由の広まりを見せるようになってきた。それでも今日のものと比べるとまだ保障された権利は少なく、それも先代達の努力によって今日に至る。
 このような歴史を私達は正しく認識しているであろうか。先代の苦労と努力を考えたら、私達の持つ正しい権利を簡単に放棄することができるであろうか。板垣退助らが尽力したことは義務教育の段階で学ばれてきたはずである。
 選挙の投票率の低さを見ると分かることがある。国民の政治に対する関心の低さと、投票の重要性を理解していないことである。日本国が抱える借金や対外政策を見て、現在の政府が全く間違っていないと言い切れるであろうか。また、確固たる思想をもっていない為か、日本人特有の保守の思想からか、戦後の政権は大部分が保守政党により握られている。このままでは確実に日本は良い方向に向かわない。だが日本は未だに保守政権による政治が進められている。
 平等は社会主義の中にこそあり、自由は資本主義の中にこそある、と考えると社会主義体制の下でこそ階級格差がなくなり、資本主義体制の下でこそ自由を手にすることができるのではないかと考えた。現代の日本において、私達は多くの自由を手にしている。その自由を如何なく発揮してきた資本家は、後期近代において豊かな暮らしとともにさまざまな弊害をもたらしてきた。私達の手にしている自由は、投票の権利の自由にまで及ぶものではないはずである。私達をそのように勘違いさせるほど、この国は私達に自由を与えすぎたのではないか。弊害は、地球を侵食するだけでなく、私達の心まで侵した。そして、いずれ自由は破綻するだろう。
 そのため、現在の政府は権利を義務化せざるを得なくなったのである。自由から強制である。裁判員制度は徴兵制のようなものであり、それは戦前の日本が実際に行なっていた「強制連行」である。選挙民を投票所に「強制連行」させなかったのは、現政権の崩壊に繋がる可能性を否定できなかったからではないだろうか。
 だが裁判員制度は、選挙という政治参加の場を自らの手で放棄している日本国民にとっては良い機会であるとも考えられる。しかし、参加の機会が司法の場であるということに問題点がある。人の人生を左右することに携わることに国民は消極的であるということだ。本当に国民に政治参加してもらいたいと政府が思っているならば、もっと他に参政への道を切り開けたはずである。二世議員や有名人、地盤を持つ有力者ばかりが当選する現状の選挙スタイルを維持することが国のすべきことではないはずである。もし手始めに司法の場から参加させ、やがて国民の政治参加を促そうとしているならば大間違いである。国民が政治参加を果たす頃には、日本の借金は返済不可能になっているであろう。
 裁判員制度により少しでも日本が良くなるのであれば私は賛成しよう。だが現体制下においては、好影響は望めないであろう。
裁判員制度という権利の義務化から後期近代を見ると、やはり後期近代における体制の欠点が露呈されたのではないだろうか。義務化しないと行わない国民にも問題はあるが、そうさせてしまったのは国家である。やがて現体制が崩壊した時、権利の重要性が国民に再認識され、義務は義務で無くなるであろう。

投稿: 原稿用紙 | 2008年1月12日 (土) 17時07分

 日本での裁判員制度といえば、私がまず真っ先に連想するのは映画の「12人の優しい日本人」だ。つい先日、テレビでも深夜に放送されていたので私もひさしぶりに見たのだが、裁判員制度が現実に導入されることが決まった今こそ多くの人が見るべき映画だと思うので、まずはこの映画の話からしようと思う。
 映画「12人の優しい日本人」は1991年に公開された。原作は三谷幸喜が舞台用に書いた戯曲であり、舞台の方は過去に3回公演が行われている(ちなみに舞台での初演は1990年)。日本に陪審制があったらどうなるかという設定で、ある殺人事件の被疑者が有罪か無罪かを12人の陪審員が話し合うというストーリーである。タイトルからもわかる通り、この映画はアメリカ映画の「十二人の怒れる男」のパロディであるが、こちらに関しては私は未見である。
 この映画に登場する12人は様々であるが、皆やはりどこか日本人的である。優柔不断だったり、意見を曖昧にしたり、とりあえず多数派に賛成しておいたり。すぐ他人の意見になびく人がいれば、全く聞き入れずに意固地になる人もいる。だが、タイトルにもあるように、色々な人がいても基本的には「日本人は優しい」という視点がこの映画にはあると思う。そしてその優しさは必ずしも良い意味とは限らず、時には保身の裏返しとしての優しさでもあるという批評が、ほんの少しだが私には感じた。私が映画の中で特に印象に残っているシーンがある。場の議論が有罪の方へ傾いていた時に、決を取るシーン。議論の進行役である陪審員長は、有罪派の意見も素直に受け止めているように見えるが、決を取ると必ず無罪の側に回る。その理由を問いただされた陪審員長は、以前にも陪審員を務めたことがありその時は全員一致で有罪になったのだが、実際に刑が執行されると嫌な感じばかりが残ってしまったからだと説明する。それを聞いた何人かは、すぐさま「私、やっぱり無罪!」と寝返ってしまうのである。
 このやりとりは、裁判員制度の大きな問題点を提示しているように思う。誰だってそんな話を聞けば、全て無罪で通したくもなってしまうだろう。だがもちろん、無罪にしたからといってそれで気分よく終われるかといえば、そんなことはないはずだ。仮に自分が関わった裁判で無罪になった被告が実は有罪であり、数年後また同じように罪を犯してしまったとしたらやはり後味が悪いし、それどころか周囲から非難だってされるかもしれない。
 と、ここまで考えて思うことは、少なくとも私は裁判員なんかやりたくないし、おそらく多くの人も同意見なのではないかということだ。人の刑を決めるだなんて、一般人にとっては重すぎてとても担えないような決断だと思う。そこでようやくブログの本文における問いへの論となるのだが、私としては司法への市民参加の義務には反対したい。あくまでも権利としての制度で充分だ。裁判の内容に国民の感覚を反映させるために一般人にも参加してほしいという事情は理解できるが、果たしてこれは本人の意思を無視してまで強制的に参加させることができるものだろうか。
 極端な話、私はやりたい人だけやればいいというぐらいに思ってる。「世間知らずの判事なんかに判決を決めさせてしまっていいのか!」というような正義感を最初から持ち合わせている人だったら、義務でなくたって自分から進んで参加すればいいのだ。私は申し訳ないけどやりたくない。やりたくない、なんてことを言うと、誰かが決まって「もし自分が裁判に巻き込まれた時に正当な判決がなされなくてもいいのか」というようなことを言ってくるだろうが、だとしたらそもそもその正当な判決というのは何だ?という話だろう。結局この議論は突き詰めていくと、人が人を裁くことの是非という大きな問題に繋がって答えが出なくなってしまう。ただ私は、この法律の義務として強制参加させられるという点に関しては反対であり、法務省は否定しているようだが、憲法18条の「意に反する苦役」に当たらないのかという疑問を持っている。

投稿: 修正液 | 2008年1月12日 (土) 15時14分

 後期近代において、裁判に対する市民参加を義務付けることは、現状として無理があるのではないかと私は思う。なぜ無理があるのか。
 確かにナウヴェルクの言うように、裁判制度を市民参加型にし、判断を仰げば、専門家から見た判断に加え、一般国民から見たごく一般的な判断が加えられることによって、判決の正確性は増していくと考えられる。ここでいう専門家(司法官僚)は、それについては一般市民と比べて知識も豊富で判断能力も高いのかもしれないが、それゆえに見落としてしまっているものがあるのではないだろうか。専門的なことばかりに気を取られてしまい、気づいていないことがあるのではないのだろうか。「木を見て森を見ず」という言葉がそのまま当てはまるだろう。このことは司法官僚に関してだけでなく、あらゆる専門家について言えることだ。しかし、私はそのことを批判するわけではない。専門家には、専門知識を持っているからこそ出来る判断があるのだろう。そんな司法官僚の持つ弱点を埋めてくれるのが、ナウヴェルクの言う「市民から選抜された参審裁判官の理性的判断」なのだろう。彼らには専門的な知識などまったくない。だが、だからこそ邪魔な先入観を持たず、純粋に問題と向き合うことができるという利点がある。専門家の持つ専門的観点から見た判断と、一般市民の持つ、ごくごく普通の判断が合わさることで、判断の正確性が増すのだから、積極的に裁判に市民参加を取り入れていくことが賢明なのだろう。
 間もなく、日本においても裁判員制度が導入され、裁判に対する市民参加が開始される。しかも、裁判への市民参加は義務化されるのだ。はたしてこの制度はうまくいくのか。政府は国民に対して、この制度の理解を得ようとさまざまな宣伝をしている。しかし、私にはこの制度がうまくいくようには思えない。今の日本の現状を考えたとき、一体何人の人間が積極的に裁判に関わろうとしているのだろうか。出来れば関わりたくない、面倒は避けたい、そう思っている人が大半を占めるだろう。それはなぜなのか。その答えは今の日本の社会にあるではないかと思う。
 私たちを取り巻くこの社会は今、個別化が進んでいる。つまり、他人のことには興味を持たない、二の次である、ということだ。そうなってしまった今の社会が、裁判への市民参加を困難にしているように私は思う。もし裁判員制度の導入で、裁判に参加することになれば、何日も行動が制限される。仕事を休まなければならない、そういう状況に立たされることになる。ただでさえ職場での生存競争の激しい今の世の中、何日も仕事に行けなくなるなんて御免だ、というのが国民の本音だろう。私がもし、裁判員として召集されることになり、職場を休んで裁判に行かなければならなくなったとしたら、と思うと恐ろしい。そんな義務に振り回されて、職場での自分の立場が危うくなってしまったら、もともこもない。そう思うのは私だけだろうか。きっと多くの社会人がそう思っていると思う。ここにも個別化がうかがわれる。まずは自分のこと、他人のことは関係ない、二の次だということがはっきり分かる。この状況の中で裁判員制度を実施したら一体どうなるのか。必ず反対の意見が多く出るだろう。これは単に、反対の意見を持つ協力的ではない国民が悪いのではなく、こういった社会を形成してしまったことに原因があるように私は思う。だからといって裁判員制度を実施しないほうがいいと言っているわけではない。ナウヴェルクの言うように、専門家が見落としてしまう点を、裁判員が発見し、お互いが連携して、より正確な判断を下すことは、とても重要かつ必要なことだと思っている。大切なのは、市民参加が圧倒的に難しい今の日本の状況で、いかにこの制度を浸透させることが出来るか、であると思う。
 他人のことに興味を持つ余裕も無くなってしまった今の世の中で、どれだけ個人にかかる負担を減らし、社会全体の理解を得られるのか、ということが、これから実施される裁判員制度の行く末を決めるのだろう。私が将来、裁判員として召集されたときにしっかりとした体制が整っていたのなら、必ず快く受け入れ、裁判についても真剣に取り組むであろう。それは私だけに限らず、この制度に関わる全ての人間に言えることであると考えている。

投稿: 愚麗外村 | 2008年1月12日 (土) 14時25分

 今回のレポートテーマである、裁判員制度について、私が考える意見、感想、期待などをこれから述べたいと思う。
 そもそも、裁判員制度とは一体何なのだろうか。一見、身近に感じてしまいがちなこの裁判員制度というトピックだが、私を含め、世間一般の人はこの内容について意外と知らないのではないだろうか。私自身、裁判員制度については、高校の授業で軽く耳にした程度だったので、今回調査をしてみて、この制度の見えていなかった点が数多くあった。裁判員制度とは、一定の刑事裁判において、国民から事件ごとに選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に参加する、日本の司法・裁判員制度のことを言う。つまり、裁判官でもない私たち一般人が、抽選によって選ばれ、裁判所において裁判官と一緒に判決に携わるという、今までの日本にはない画期的な司法・裁判制度なのである。
 今回の裁判員制度は、「司法制度改革」の一環として、死刑制度に反対している公明党主導で導入され、国民が死刑裁判に参加することにより、裁判がより身近でわかりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながることを目的としている。きっと、公明党としては、死刑廃止論者側の立場から、「死刑を行うと、特別予防ができない」、「誤判によって死刑が求刑される可能性がある」、「いくら死刑といっても人の命の重さについて考えてもらいたい」といった意見を持っていたはずだ。そして、そのような意見を推したかっただろう。しかし、死刑存置論者側の立場で上げられうる、「起こした罪がどのくらい重大か認識させたい」、「殺人犯罪の抑止効果の一つとして死刑は存置させるべきだ」、「死刑を廃止すると、私刑が増加する」といった意見も尊重した上で、今回の裁判員制度は誕生した。その判断は決して間違っていないと思う。しかも、国民の信頼感を得る上でも、死刑を存置させたまま、裁判員制度を導入させることは、正しかったと私は感じている。なぜならば、国民の大半が死刑存置論者であり、世間的に死刑という刑罰は、被害者の加害者に対する感情を少しでも和らげてくれるものだと考えるからだ。また、私は「人を殺した者は、死をもって償うべきだ」、「被害に対する応報感は、死刑によって納得される」、のようにも考えるからだ。
 ただし、私はここで、「死刑が廃止されると、私刑が増加する」という部分に少し疑問を感じた。確かに、死刑存置により、私刑の増加を防ぐことができるのかもしれない。けれども、そこで裁判員制度を導入することで、私刑の増加を防ぐどころか、私刑を濫用されてしまいかねないと思った。その理由は、裁判員が一般人というところにある。大体、「抽選で本人の意思に関わりなく裁判員候補を呼び出し、裁判員を選出する」という裁判員制度の性質が問題視され、指摘されていることと、裁判員制度に参加したくないという国民の声が七割もあることから、裁判員制度そのものが今すぐにでも見直されるべきだと私は考える。自分の意志で行きたくない人が、赤の他人の裁判の判決を冷静、且つ適確に判断できるのだろうか。そこは、私は無理があるのではないかと思う。適当な判断をいかねない。また、仕事を持っている人は、勤務先に申告をした上で裁判に参加する。だから、第三者である勤務先の人に知られるのは確実だ。裁判員として裁判所に行っても、見ず知らずの人といっても第三者が大勢裁判を見に来る。すると人目を気にしながら審議を行うことになる。明らかに、心理的に気まずい。
 今までの私の意見からだと、裁判員制度に賛成なのか反対なのか一体どっちなのか分からないと思う。ただ、私は裁判員制度の導入は賛成である。前述したように、裁判員制度導入は、「専門家ではない裁判員によって適切な判断が成される」、「裁判に国民感覚が反映され、司法への国民の理解、信頼が深まる」、「刑事裁判の手続き、判決がわかりやすくなる」という国民の切なる期待も抱えているからだ。私が、今一度言いたいのは、裁判員制度の部分的に不的確である内容の改正が行われて欲しいということだ。国民全員の意見を全て満たした内容にすることは、絶対に不可能なことである。しかし、国民に対するアンケートを行った時に、最も反対意見が多かった「裁判員制度の強要性」については今一度政府、内閣を中心に考え直されるべきである。しかも、今は裁判員制度に対する国民の関心が明らかに薄い。だからこそ、今後より良い国民の審議が行われるために、地盤を固めていってほしい。裁判員制度の今後の進展に賛成派として大きく期待したい。

投稿: 甲子園 | 2008年1月12日 (土) 14時19分

確かに、裁判官が市民よりも経験や知識があって専門的であり、それゆえに市民と考え方が違うから市民による裁判=裁判員制度を導入する、というのは理解できなくもないが…はたして市民の政治参加は本当に善なのだろうか。
裁判官はいわば司法のエリートであり、市民と常識がずれているのは明らかだ。だが自分の属するものに関して知識が豊富であるエリートだからこそ、見えてこない事もある。まさに「木を見て森を見ず」な職業人である。対して市民は、司法に関しては素人だが「森を見る」ことはできる。ゆえに、時に素人であるが広い範囲を見ることができる市民の判断が官僚よりも正しいこともある。そのために裁判員制度の導入を政府が求めているのだ。
だが、市民がすべて正しいのかというと、そうではないのではないか。後期近代は、市民が分化、個人化している時代である。市民と対照関係にあたる、大衆という存在がある。裁判員制度は市民の理性性を前提にされており、理性的判断を下すことを求めているのに、大衆による理性のない判断が下されてしまうおそれがあるのだ。
凶悪な殺人事件を起こした被告人の裁判を想定して考えてみる。被告人が死刑になるかならないか、というような事件だとする。参加している市民は死刑廃止論者であろうがなかろうが、自らの理性に基づき判断を下す。だが、ここで参加した市民が自分の考えでなく、大衆意見に従っている人物であればどうか。自分の、個人的な考えを持たず、ただただ大衆の意見に流されている人物であったなら――それは健全な判断とはいえないのではないだろうか。大衆が死刑といえば自分もそれに従って死刑という。人を殺した者は死をもって償え、というのが国民=大衆の当然の感情なのである。これは市民による健全な判断といえるものではない。
いわゆる大衆と呼ばれる人達がどれだけ多いのかは、インターネットの掲示板サイトなんかを見れば一目瞭然である。大衆のなかで反対意見をする者がいれば、すぐさま他の全員に叩きのめされるだけだ。大衆には討論も何もない。理性がない。そのような人達に、裁判員を任せてよいのだろうか。
私達後期近代に生きる者は、市民と大衆の二つの側面を持ち、どちらにもなりうる。そんな人々に裁判員になることを義務として求めてよいのだろうか。いまや初期近代と違い、「市民」が大衆に流されやすい時代なのだ。市民だから常識的な判断ができるだろう、という考えは甘い。政府こそ、市民と常識がずれているためにそういう側面が見えてこなかったのかもしれない。
もうひとつ、参加が義務付けられている、という点から制度を見ていく。裁判員に選ばれた人物は、特別な条件を満たしていない限り辞退できず、裁判所の呼び出しに答えなければ罰金を払わされたりなど、かなり強制的である。人を裁けない、または参加したくないという人は大勢いる。参加したくない理由として、経済的な問題を挙げている人が多い。参加している間、特に個人で経営している店の人にとってはえらい迷惑となる。しかも、その分の保障もない。だがそれもお構いなしである。参加を拒む市民を「くじびきで選ばれたから」といって無理やり裁判員にする、というのはどうかと思う。市民がいやいや参加する司法は、本当に健全なのだろうか。そのような市民に、理性に基づいた判断ができるのだろうか。おそらく、私だったらできないだろう。凶悪な犯罪を起こした被告人を裁く、といっても、簡単なことではない。自分の判断で被告人の運命が決まる――そのような人の人生に関わる重大なもの、冷静に、理性に基づく判断などできるものではないと思う。まして、万が一自分が有罪と言って多数決でも有罪となり、その後被告人が無罪だったと明らかにされた、という事態があったなら、本当にやりきれない。裁判の内容を他の人に言ってはいけないとあるが、そういう問題ではない。自分の中にずっと、自責の念を閉じ込めて生きていくことになる。政府はそこまでして、市民を裁判に参加させたいのだろうか。市民が参加する裁判は、確かに迅速なものかもしれないが、嫌がる市民を強制参加させてまでするようなものではないのではないだろうか。本当に参加したいと思っている市民もいるはずなので、そのような人達のために、義務としての裁判員制度の権利としての代わりに、権利としての市民参加の機会を設けてはどうかと思うのだが…。
裁判員制度の導入は間近に迫っている。大衆意見の問題に、参加拒否する市民の強制参加…どう考えても健全とはいいきれない裁判員制度を導入した日本がこの先どうなってしまうのか、今から不安でならない。

投稿: 大工娘 | 2008年1月12日 (土) 14時07分

裁判員制度とは、市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官と共に、裁判を行う制度である。導入の理由は、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上が目的とされている。裁判員制度が適用される事件は、殺人事件や放火罪、身代金目的の誘拐罪などの一定の重大な犯罪についてである。裁判員の権限としては、有罪または無罪の判決をするに当たって、事実の認定、法令の適用、刑の量定について裁判官とともに合議体を形成して、裁判をする権利を有する事になる。裁判の評決は合議体の構成裁判官と裁判員の双方を含む過半数の賛成を必要とする。裁判員は出廷義務と守秘義務という二つの義務を負うことになり、出廷義務は公判の場に出席、評議に出席し、意見を述べなくてはならないというもの、守秘義務は評議の経過や、それぞれの意見、「職務上知りえた秘密」を漏らしてはならないというもので、守秘義務は生涯に渡って負うことになっている。裁判員は原則として辞退できないが、特定の条件に該当するものは辞退出来るように決められている。以上が、裁判員制度の主な内容である。この制度から感じた事は、評決を出すときに裁判員が裁判官と同じ一票の力を持って、多数決を取る事で、被告人の判決を決めてしまうことから、逆恨みや報復の危険性はないのか、つまり、裁判員の安全はどのようになっているのか。ということと、無作為に選んだ市民にこのような責任の重い義務などを課していいのか、ということである。最初に、裁判員の安全の問題については、裁判手続きにおいて被告人に裁判員氏名が開示される事はなく、裁判員相互も開示されないと定められている。事件について知るために裁判員に接触する事も禁じられる。氏名を漏示すること、裁判員やその親族を威迫することは、罰則を持って禁じられていて、これが、裁判員の匿名性、安全の確保につながる。さらに、報復の予期される暴力団関連事件などは裁判員制度から除外事件として想定されている。このような徹底した氏名非公表で大きく安全は確保されたと思う。しかし、忘れてはならないと思うのが、他の裁判員や被告人にも顔は見られていると言うことだ。次に、無作為に選んだ市民にこのような義務を課していいのか、ということについて。私は、最初に裁判員制度を知った時は「選ばれたくない」、「やりたくない」などの否定的な意見であった。しかし、その後に裁判員制度についての短い映画を見て、考えが変わった。映画では、最初は選ばれた事をめんどくさがっていた主人公たち裁判員がだんだんと事件に向き合うようになっていき、お互いに意見を言い合い、そして、裁判官の人にも意見を言えるような評議になっていく、という内容である。もちろん現実ではこの映画のように上手くはいかないかもしれない、しかし、この映画を見てからは、機会があればやってみたいという考えになった。現在の日本では、初期近代のような昔よりも凶悪な事件が多発していて、殺人事件などはずいぶん身近に感じられるものになってしまっている。それゆえ、後期近代において身近になってしまった殺人事件などの凶悪犯罪について考える事は必然と増えてくるだろうし、必要だと思う。そのために、多少強引ではあるが無作為に選んだ市民にこのような義務を課すことは、今の時代には必要なのではないかと考えた。つまり、後期近代においてこの裁判員制度が導入され、司法過程に参加するのが義務になったのは、昔よりも裁判員制度が適用される凶悪な事件が増え、考えなくてはならなくなったという理由からだと思う。
 最後に、裁判員制度はもちろんまだ完全な制度ではないから問題は多い。裁判員は被告人の一生を左右するような多数決に手をあげるのはとてもストレスを感じることだと思うが、守秘義務があるので他人に相談などで打ち明ける事が出来ない。このように裁判員のケアなども考えていかなければならない問題の一つである。しかし、裁判員制度は事件について考える事を身近にする画期的な制度であると、私は思う。

投稿: 森羅万象 | 2008年1月12日 (土) 06時09分

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