福祉の充実と社会的負の副作用
福祉の充実が叫ばれている。しかし、福祉の充実はその負の副作用を持っている。たとえば、生活保護費の削減が叫ばれてる。しかし、生活保護費が最低賃金よりも豊かである場合、労働意欲の減退につながるであろう。仮に、生活保護費が月30万円を越えれば、労働者の負担は大きくなるであろう。この点に関するコメントを募集する。募集する日時はのちに記述するが、1月中旬を考えている。
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福祉の充実が叫ばれているのは確かだが、実際問題視しているのは全体の何割なのだろうか。自分自身は未だ楽観的に考えている。問題だ、深刻だ、というのはわかってはいるが、行動に移したことはない。
日本は超高齢社会に突入しているわけで、私は、まず、年金に視点を置きたいと思う。
和が国は、成人になれば年金を毎月支払わなければならないが、かなりの人数が支払っておらず、このままでは、多くの高齢者を誰も支えられなくなると考えられている。私自身、正直年金を支払うのには躊躇いを感じる。まだ、支払うのはいいとして、自分が年金受給者になったときに支払った分、きちんと返ってくるのだろうか不安である。今日の日本ではニートや、再パラサイト、ネット難民などが急増しており、年金どころか、その日暮らしに精一杯でちゃんと定職に就かない人が数え切れないほど存在する。社会福祉を充実させようと思って、国民に年金を納めるように呼びかければ呼びかけるほど皆、納めなくなっているのは私だけではあるまい。将来、私たちが年金受給者になったときに、最低限度の生活が国によって守られるのだろうか。世論では、国民年金ではなく民間の生命保険に入り、支払っている者が多数いるそうだ。私もそのことを知り、確かにその方が利口だ、と思ったのは間違いなく、今の時代、国よりも、民間企業の生命保険の方が信用性はまだある、と思うからだ。
次に、障害者自立支援法について考えたいと思う。2006年(平成18)4月から、障害者自立支援法が施行され、公費負担による医療、介護福祉などの利用者負担制度が見直され、障害者福祉計画の策定、入所にかかわる契約制度に移行するなどといった、特徴も加わった。特に目を向けたいのは、就労支援の強化についてと、障害者程度区分についてだ。
就労支援の強化として、養護学校の卒業者の半数以上が福祉施設へ行き、新たに、就労移行支援事業、就労継続支援事業(雇用型、非雇用型に分かれる)の事業が創設され、障害者の雇用率適用も行うことになった。しかし、この事業は、障害の程度により、就労できそうな人に対する支援は、金銭面、指導等が熱心に行われ、就労出来なそうな人には、あまり熱心には指導、支援されないという問題が起こり、不平等な関係が生まれた。
また、自立支援法は自己負担の割合が半端なく増加し、自己負担は所得が課税世帯で現行4600円が新法では22000円、上限として37200円となっており、低所得者も今までは負担金0円だったのが、7500~12300円(上限1500~24600円)と大きな変化をした。また、就労支援施設などの利用に今までかからなかった食事の負担も負われ、課税世帯は食費14300円、非課税世帯は5100円で、障害者に負担を負わせ国は知らん振り状態と言っても過言ではない状況である。
障害者自立支援法の背景として、社会福祉基礎構造改革(少子化の影響にもよる)つまり、三位一体改革が目指された。中身は、国庫補助金の縮小、市町村単位の財源の移動、地方交付税の見直しである。そして、大きな影響を受けた障害者は、サービスの利用者の1割負担(応能負担)、地域生活支援事業の裁量的経費という括りに国のわがままに縛られ、充実した社会福祉を受けることが出来なくなった。
障害程度区分の認定調査での問題点として、身体介護を必要とする区分程度が高く、知的・精神障害は、比較的低く区分判定が行われる傾向があり、知的障害などの強いこだわりや、意思を伝えるのに支援が要るなどの日常的な支援の度合いが軽視されている、精神障害は、状態の良い場合と悪い場合の格差が大きく、一般的には、区分2知度までの判定がほとんどとなるが、中には非該当のケースも発生しており、精神障害者の必要な支援などが反映されにくく、体調によって、調理、掃除、洗濯などが出来ず、ヘルパーを週一回利用して安定している人がいるが、判定は非該当であったり、週三回ヘルパーを利用中、支援センターも週2,3回かかわっている人が区分2であるなど実際の支援との遊離が顕著であったり、気温や季節に合わせて調節が出来ず、支援が必要な場合が反映されないなど、問題が山積みである。自己負担は、国が障害者に対するいじめにしか感じられない。障害者に対して、障害を負った自分が悪いんだ、と言っているようにしか聞こえないほどのばかげた新法である。
投稿: 刈谷市 | 2008年1月13日 (日) 01時10分
時代とともに、社会福祉は充実していく。人々には暮らしやすい生活が提供され、貧富の差もほとんどなぃ。障がい者、高齢者など、その人に必要な生活保護費が国から支給され、憲法第25条における、“最低限度の生活”を、国民全員が手に入れているのだ。最低限度と言っても、食べたい物を好きな時に食べ、欲しい服は、少しお小遣いをためれば買える、そんな当たり前で幸せな生活を、誰もが送ることができる。そう私は思っていた。自分が、何不自由なく幸せに生活してきたからである。しかし、実際は、“最低限度の生活”とは、あくまでその文字通りの生活。私が思っている以上に、苦しい生活を強いられている人々は多い。生活保護法、すなわち憲法第25条をめぐる事件や問題は多い。国立療養所に入院中の原告は、生活保護法により、厚生大臣の保護基準として、医療扶助および生活扶助として最高月額600円(日用品費)の支給を受けた。しかし、実兄月額1500円の仕送りを受けることになったことから、市福祉事務所長は、生活扶助わを廃止し、残額の900円を医療費の一部として自己負担させることを内容とする保護変更決定をした。これを不服とした原告は600円が憲法第25条などに違反する
投稿: まゆげ | 2008年1月13日 (日) 00時27分
福祉は社会的弱者を助けるために存在しているのだと思う。
憲法25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
とある。このように、人間は生存する上で必要な条件を保障されなければならない。
その対象は、身体や知的に障害をもつ者や、高齢者や児童など社会的に弱い立場にいるものである。
高齢者は、平均寿命が長くない時代では病気になったら死ぬことが当然であった。医療の発達により身体の多少の病気をカバーできるようになり、体は不自由になっても精神は活動していくという状態が維持されるようになる。すると、体が言うことをきかなくなっても向上したいという意思、人間としてどう残りの人生を歩んでいくべきかという自己との対話が行われていく。このように、福祉の発達には人権や生存権といった、人間としてどう生きるといった思考の発達が関係している。福祉の充実が国家の豊かさに類似するのはその為であろう。
では、障害者に関してはどうだろうか。日本で最も古いとされる書物『古事記』には、「蛭子神話」としてイザナミ・イザナキ二神の最初の子として生まれた子どもが、蛙のような手足を持った障害児だったことから葦船に乗せて流し捨てた事が記されている。中世ヨーロッパにおいては、ローマ法王を頂点としたキリスト教の影響が大きく、自己犠牲と隣人愛という教義にもとづいた、教会の活動としての慈悲・救済が行われ、宗教的動機から王や領主が救済を行った。一方王侯貴族は、自らの宮廷に障害者をフール(道化)として養い、慰みものとした。
近世ヨーロッパにおいては、教会の支配に代わり絶対王政が確立した時期であるが、文化的にはルネサンス時代を迎える。しかし、経済的には国王と大商人の結託した植民地支配が行われ、これらの世俗権力は知的障害者や精神障害者に懲罰を与えたり、「魔女狩り」と称して火あぶりの刑に処した。イギリスにおいては、1601年にエリザベス救貧法が成立したが、貧困者は劣等処遇のもと、労働力の有無で選別されたし、労働力のない障害者は施設での収容保護がなされた。
18世紀後半、アメリカ独立革命やフランス革命を契機に市民社会が登場する近代社会においては、障害児に対する学校教育が始められたり、医学の進歩による障害児・者への処遇の改善がみられた。一方、資本主義の進展は、労働者に過酷な労働と貧しく不衛生な生活を押しつけ、その中で心身に障害をきたす事故や疾病が発生した。幼少期から労働に従事させられた子どもに心身の発達不全が発生したし、母体の保護を考慮しない労働は障害児の出産を招いた。このような過酷な労働者の生活状況に対し、19世紀の後半には慈善運動やセツルメント運動、そして労働者自らの労働運動による労働や生活環境改善の取り組みがなされた。
歴史を辿ってみても障害者が差別されてきたことは明白な事実である。
福祉は人間が平等であるということを大前提に考えている。このような考えがもたれたのは近年であるが、もともと比較してものを認識して捉える人間が自分より劣った物に対してマイナスな感情を抱くのは特殊なことではない。しかし、問題なのはそれが当然になっていくことだ。
2005年には障害者がもっと働ける社会を目指して障害者自立支援法が作られる。その概要としては、障害者の地域生活と就労を進め、自立を支援する観点から、障害者基本法の基本的理念にのっとり、これまで障害種別ごとに異なる法律に基づいて自立支援の観点から提供されてきた福祉サービス、公費負担医療等について、共通の制度の下で一元的に提供する仕組みを創設することとし、自立支援給付の対象者、内容、手続き等、地域生活支援事業、サービスの整備のための計画の作成、費用の負担等を定めるとともに、精神保健福祉法等の関係法律について所要の改正を行う。とある。
しかし、その自己負担の多さから反対の声が多く上がっているのも事実である。このように福祉を利用する側からの要望が聞けるという点では、現代は自由な時代なのだろう。
これからも、福祉は注目を集め新しい取り組みがなされていくだろう。日本ではまだまだ福祉のまだ見ぬ可能性が多く残されているので更なる向上に期待したい。
投稿: 卑弥呼 | 2008年1月12日 (土) 23時55分
福祉の充実には社会的副作用が伴う。負の副作用として、生活保護費が労働者の意欲を減退し、負担となっていることが例で挙げられている。
生活保護の一番の問題は、受給している人と受給していない人の意識の差が大きいということだと思う。受給していない人の中には、自分は苦労しているのに、受給者は国からお金を貰って楽をしていると考える人もいる。これが労働意欲の減退につながる。受給者側は仕方なく受給することになってしまった人が多く、傷病・老齢などにより就労が困難で収入が無く、最終手段として受給に至っているのだが、受給していない側がこのような立場をちゃんと理解していないことに問題があるだろう。
中には生活保護の受給を恥だと考え、申請をしないことにより、最悪の事態に陥ってしまう人たちもいる。食費を欠いた餓死・心労からの自殺・医療費が工面できないまま病死などがある。また、生活保護制度を知らず、生活保護を受けられずにいる人もいる。このようなことをなくするために、生活保護など社会保障制度について、小学校や中学校、地域で教育していく必要がある。そして、不正受給をなくすために生活保護受給後の定期的な審査をより厳しくしなければならない。生活保護費の削減ではなく、体制を見直し、改善していくべきだ。
政府は財政立て直しのため、社会保障費の削減を打ち出したが生活保護とは最低限の人間らしい生活を送るためにある。その本来の機能が失われてしまっては意味がないだろう。保護費の削減ばかりが先に立ち、最低生活基準を考えないというのは間違っていると思う。見渡せば、もっとたくさん予算を削減できるところがあるような気がする。
昨今、介護保険料の増税についての問題が浮上している、介護保険に関しては今後国民の負担はますます増えていくと予想される。諸外国の例、また、消費税の増税の動きからも、高齢社会に突入している現状を見ても国民負担が増すことは明らかだろう。この増税の問題は国民の義務でもあり、一律に税を徴収することは公平性の観点からは異論をはさむことはできないが、低所得者は、負担感が増し生活を圧迫させ、国民を守る点で課題が生じると考えられる。低所得者が自立した生活を営むためには、低所得に応じた利用料の設定が必要である。負担が減れば、利用者が増える、利用者が増えれば事業所の経営も安定し、雇用が促される。しかし、このようなサイクルを生み出すためには利用料の負担だけではなく、事業所に対する補助も手厚くする必要がある。薄利多売では、良質なサービスを提供できないため、ある程度の補助金の交付は社会の安定のために必要なことである。
福祉とは弱者への援助や生活保護ではなく、原義のとおり人間生活の幸福実現である。それが結果として、良質な労働者の確保につながると認識するから、先進諸国は福祉に力を入れるのである。もし、老人や障害児の保護を手厚くすれば、豊かな老後のため一生懸命仕事を頑張り、労働意欲が向上したり、障害を持った子どもが生まれても、幸せな育児ができるという意識が国民に芽生え、子どもを産むことに臆病になったりしないだろう。
社会的副作用は、福祉の充実による影響だけではなく、近代から現在までの社会変動に伴って生じたさまざまな現象が大きな要因となっていると考えられる。福祉の充実による負の副作用は、福祉を国民すべてが理解し、体制などを見直すことによって、いずれなくなくなっていくことだろう。もし、福祉がなければ、生活できない人たちが大勢でてくる。近年になってようやく重要視されてきた福祉の充実に期待する人は多いはずだ。福祉は、私たちにとって欠かせないものであり、充実させていくべきだ。
投稿: 春偲音 | 2008年1月12日 (土) 23時55分
私は生活保護について色々調べてみました。
現在の日本はバブル崩壊後の長期不況のため、社会の低所得層の収入水準や最低賃金が低下し、それと反対に生活保護の支給額が上昇したため、低所得者と生活保護受給者との所得額が接近しているらしいです。そのために生活保護を受けているほうが働くよりも収入が増える場合も多くあり、反発の声が出ているといいます。生活保護受給者のほうが地道に働いている人より、収入が多いというのは、不満が出てきて当然だと私も思います。このような問題の原因には、生活保護を受給している人と受給していない人との生活保護に対する意識の差が大きいという意見が出ているそうです。社会に出て働くことは簡単ではないです。仕事をこなすだけではなく、対人関係やストレスとも戦わなければいけません。しかし、そんな苦労をして手に入れた給料より、生活保護費のほうが上回っていたら、「働くだけ損だ」と思ってしまい、働かなくなる人も出てきてしまうかもしれません。「生活保護受給者は国からお金をもらって楽をして暮らしている」と思う人もいるかもしれません。しかし一方、生活保護受給者は仕方なく生活保護を受給することになってしまった人が多くて、不正に受給している人を除けば、怪我や病気・高齢などにより働くことが困難で収入がなく、最終手段として生活保護受給に至るケースが大半であるそうです。ただし、これについても「年金を払わず、単に高齢という理由のみで支給されるのは、平等ではない」という批判もあるそうです。実際に、何十年も年金を払ってきた世帯の国民年金支給額よりも、生活保護受給額のほうが多いことも見られるそうです。しかしこれについては、そもそも国民年金はそれだけで最低生活を保障できるように作られたものではないので、国民年金だけで最低生活が営めるような金額、すなわち生活基準以上に引き上げるべきだという指摘もあるそうです。
生活保護というのは、あらゆる事情で働けなくなった人にとっては本当に助かるものです。しかし生活保護を受けていない低所得者たちは、働いていないのに楽して暮らしていて不平等であると感じています。しかしそのように感じている低所得者に中には、実は生活保護の受給条件を満たしていて、申請すれば生活保護が受けられる人も存在するといいます。また、医療経費が現物支給になっていて、医療保険もかからないことなどから、申請時の困窮事由がなくなっても稼動を抑えて受給を続ける人も多いらしいです。しかしそのような受給者に対して、実施機関は指導することはできても強制力は持たないそうです。更に、生活保護受給者の親に育てられた子どもが、親子数代にわたって生活保護を受給するという問題もあるそうです。
私はこのような問題があることを知って、生活保護費を減らす、減らさないという問題も大事ですが、こちらの問題のほうも大事だと思いました。この問題は、生活保護受給者の考え方と生活保護の理解度の低さが原因だと私は思います。生活保護をもらわなくても生活できる人が、稼動を抑えてまで、受給条件内にとどまって受給しつづけるのは、そのほうが生活の質が高く暮らせるからだと思います。それは不景気であるこの時代では仕方ないのかもしれませんが、そのような方法で生活の質を守るのは違う気がします。だから、生活保護とはまた別の支援法を新しく考える必要があるのではないかと思います。その支援で生活の質が保たれるようになれば、稼動を抑えてまで生活保護を受ける必要が無くなって、ちゃんと精一杯働くようになるのではないでしょうか。しかし新しく支援法を作ったところで、生活保護のように理解度が低いのでは意味がありません。支援法があっても、それを使うべき人が存在を知らなければ、使うことができないからです。生活保護に対する正しい情報を全ての人に伝え、間違った使い方をしないように多くの人に理解してもらうこと、そして生活保護以外の支援法の情報も浸透させることが必要だと私は感じます。国はこれから、インターネットやCM、また学校で教えるなどの手段を有効に使って、正しい知識を国民に持ってもらうことが求められると思いました。特に、学校で教えるというのは、多くの人に知ってもらういい方法だと思うので、ぜひ実施していただきたいと思います。
投稿: 生命線 | 2008年1月12日 (土) 23時45分
生活保護費が最低賃金よりも豊かであると、確かに労働意欲の減退につながるだろう。働かない者が食べていくことができ、働く者が食べていけない社会なんて明らかにおかしい。これらの矛盾が事実になったとしたら、労働者は働く意義を失い、働くことを放棄し生活保護に頼るといった国の崩壊につながりかねないだろう。余分な生活保護費の支払いは労働者の負担を大きくするだけでなく、失業率の増加にも影響を及ぼす。少なくとも現に、定年延長など労働者の負担が大きくなっているし、失業者も依然として多く、フリーターやパート、派遣などの非正規社員の増大も社会問題となっている。
ここで、「福祉の充実と社会的負の副作用」を社会保障に焦点を当てて考えてみると、社会保障の社会的副作用として、失業率の上昇、離婚率の上昇、若者の老親扶養意識の低下などがあげられる。雇用保険の失業等給付は、一時的ではあるが自発的失業を助長し、失業率を高めるといえる。雇用保険は長期的失業や不安定雇用者に十分対応しているとは言えないが、保険の存在が失業者の保障になっていることは間違いない。また、女性の公的年金や児童扶養手当、母子家庭自立支援給付金事業などは離婚率を上昇させるといえる。実際、母子家庭の支援給付金目当てに紙上離婚し、同居して夫婦一緒に生活しているにも関わらず、給付金を受け取っている家庭もあると耳にしたことがある。保障が手厚くなると、このような手口に対策を講じる必要もでてくるだろう。また、高齢者福祉の充実による介護保険制度や様々な福祉サービスの適用によって、高齢者自身はもちろん、老親をもつ若者の政府への依頼心が増大し、同時に若者の老親扶養意識は低下しているといえる。近年、財政破綻した夕張市の地域医療を例にとると、総合病院の経営破綻の最大要因は、高齢者の長期入院であった。住民は、高齢者を病院や施設へ入れる傾向が強く、すべて病院まかせ、国まかせであった。しかし、高齢者自身が積極的に運動し、食生活に配慮することで生活習慣病の予防などの予防医療を実現させることができる。また、高齢者の在宅介護は市町村の医療費を下げることができる。福祉の充実は「国まかせ」にしてしまうという住民意識の低下に結びつき、このような面で社会的副作用を伴うといえる。そもそも福祉サービスとは、公的セクター、民間営利セクター、民間非営利セクター、インフォーマルセクターによって多元的に供給されるべきであって、そのサービスの主な供給者は後三者の民間セクターである。国家はこれらのセクターの供給するサービスをコーディネートする役割を担うに過ぎず、「国まかせ」の考え方は正しくない。個人ができること、小さな共同体ができることはこれに任せ、その手に余ることを政府に委ねるべきである。
福祉の充実とは何か。「福祉の充実と社会的負の副作用」について考えていると、ふと気になってしまった。一般的に福祉の充実として考えられることは、福祉に関する法律の制定やサービス制度の整備・確立などである。しかし、介護保険制度の改定による要介護認定システムの正確さに疑問を覚える。改定前、行政の判断により福祉サービスを受けていた者が改定後、要介護認定の結果、「自立」とされ、「要支援」「要介護」にならなかった場合、福祉サービスの利用を減少させざるを得ないのが実態である。このような高齢者にとって、福祉が充実したとは言えないのではないだろうか。
ここまで、福祉の充実によって引き起こる社会的副作用は、失業率の低下、離婚率の上昇、若者の老親扶養意識の低下、介護保険制度の矛盾などをあげてきた。私は、福祉を学ぶ者として福祉がより良くなることを望んでいる。社会的弱者のニーズに対応した福祉の充実は必要であるとも思う。しかし、福祉の充実の裏には、社会的副作用があることを考えなくてはいけないとこの機会に思い知った。福祉を発展させるためには、福祉の範囲を超えて社会的配慮が必要であると感じた。
投稿: 一般人 | 2008年1月12日 (土) 23時28分
社会福祉は経済、政治、文化、さまざまな社会環境の影響のもとにおかれています。
社会福祉はその国々がもつ生産力の大きさとそれをどう活用していくかに左右されます。貧富の差が多いなどの社会問題を抱えていると、社会福祉が発展しにくいです。しかし、経済が発展しているからといって、十分に社会福祉が発展するというわけでもありません。発展した経済を政府や政権与党がうまく調整し、社会の統合性や安定性を高めることが必要となってきます。そして、その時代の思想や背景にも影響されます。例えば、障害を持っている人たちに対して差別的な障害者観の強い時代には障害者に対する福祉サービスや法律といった施策があまりなかったけれども、今日は、ノーマライゼーション思想やバリアフリー思想など、障害者への理解が進み、障害を持っていても、よりよく日常生活を過ごせるようにと、さまざまな福祉サービスが存在しています。
このように、社会福祉は、社会を構成する基本的な要素としての経済、政治、文化と密接に関わりながら形成され、発展してきている。
さらに、社会福祉原論のテキストによると、社会福祉のシステム構成として、価値システム、対象システム、施策システム、利用支援システム、利用者・市民システムとがあると説明されています。価値システムとは、理念、目標、課題、目的などの社会福祉が実現しようとする価値の体系を構成していて、対象システムとは、生活問題や福祉ニーズ、あるいは要保護性、要保育性、要介護性などのサービス利用条件など、社会福祉の対象に関わる状況を示しています。利用・市民システムは、社会福祉の顕在化した利用者集団やその組織、潜在的利用者としての市民集団やその組織、また社会福祉の担い手として関連する施策の意思決定過程に参画し、あるいは福祉サービス提供の過程、苦情処理の過程などに参画する市民や市民組織、またその活動などの諸問題に関わっています。施策システムは、政策システム、制度システム、援助システムの3通りのシステムで構成されています。社会福祉の多様化、複雑化、高度化が進む社会福祉システムの中で、最も重用視されています。そして、利用支援システムは、施策システムと利用者・市民システムの中間に位置して両者を媒介し、顕在的・潜在的利用者としての市民による社会福祉の利用を支援するという役割を担っています。この価値システム、対象システム、施策システム、利用支援システム、利用者・市民システムがすべて関わりあい、社会福祉の利用者、支援者、市民一般によるアドボカシー、ソーシャルアクション(社会活動法)、社会運動などの、社会活動システムを作りあげています。
社会福祉とは、この時代に生きる市民の権利として、その自立生活、自己実現、社会参加を支援し、社会の統合と安定を達成維持することを目標に、自治体政府・市町村を軸に、広く公私の個別的、組織的な参画によって展開される社会的方策・制度の体系であり、具体的実際的なレベルでいえば、それは人々の生活上の一定の困難や障害を解決、緩和し、最低生活水準保障、自立生活能力育成、自立生活援護の実現を図ること、さらにはそれらの目的を達成するうえで必要とされる社会的資源の発見、開発、活用に関わる連絡調整を実施することを目指す諸制度とそのもとにおいて展開される援助活動の相対としてとらえる、と締められている。
このように、“社会福祉”として、単に存在するわけじゃなく、私たちが関わっている環境のすべてに影響し、影響されながら存在している。人間は一人ではいきていけないので、問題を抱えている周りの人、地域の人、市民全体が、助け、助けられて生きてくために、社会福祉が必要だと思います。
投稿: 黄桜 | 2008年1月12日 (土) 23時27分
生活保護の問題に沿って、福祉の充実と社会的負の副作用を考えたいと思う。
まず、生活保護とは次の原則によって適用されている。
①無差別平等の原則(生活保護法第2条) 生活保護は、生活保護法4条1項に定める補足性の要件を満たす限り、全ての国民に無差別平等に適用される。
②生活困窮に陥った理由や過去の生活歴等は問わない。この原則は、法の下の平等(日本国憲法第14条)によるもの。
③補足性の原則(生活保護法第4条)生活保護は、資産(預貯金・生命保険・不動産等)、能力(稼働能力等)や、他の法律による援助や扶助などその他あらゆるものを生活に活用してもなお、最低生活の維持が不可能なものに対して適用される。
民法に定められた扶養義務者の扶養、その他の扶養は生活保護に優先して実施される。
④申請保護の原則(生活保護法第7条) 生活保護は原則として要保護者の申請によって開始される。申請権は、要保護者本人はもちろん、扶養義務者や同居の親族にも認められている。ただし、急病人等、要保護状態にありながらも申請が困難な者もあるため、法は急迫保護(職権保護)が可能な旨を規定している。
⑤世帯単位の原則(生活保護法第10条)生活保護は世帯を単位として要否を判定し、その程度を決定する。
近年の不況により、収入水準が低下し貧困や格差が問題視されている。低所得層の収入も減退したため、福祉の充実は図られざるを得ない状況になった。
それによる生活保護の支給額の上昇、また、最低賃金が低いため低所得層と生活保護受給者の所得額が接近した。生活保護を受けている方が働くよりも収入が増える場合も多く、これに反発する声もある。
そのため、生活保護を受給している人と受給していない人の意識の差異がみられる。
受給者ではない人が、受給者に対して生活保護を受けて楽をしているように見えてしまう。受給者に対して「羨ましい」などの意見を持っている人もいるようだ。これによって労働者の労働意欲の減退につながるのではないだろうか。しかし、現在生活保護を受けていない低所得層の多くは、実は生活保護の受給要件を満たしており、申請すれば生活保護が開始されるにもかかわらず、生活保護基準や制度について学校で教えることも無く、行政からも十分に告知されていないため正しい知識が普及せず、本来生活保護を受けられるのに受けていない人たちや受けられないのに受けようとする人が大量に存在するとの指摘もある。
最近はニートなどの問題も表面化されてきている。ニートは多少異なる問題なのかもしれないが、働かなくても生きていける社会になれば無業者は増加するのではないだろうか。無業者が増えれば国力は落ちると言われている。生活保護の問題はこのような面にまで影響を及ぼすおそれがあるのだ。
しかし受給者は、不正受給を除けば、最終手段として生活保護を利用しているケースが多いようだ。傷病や老齢などにより就労が困難になり、仕方なしに生活保護を受けるのである。だがこれについても、生活保護費が年金支給額よりも多いことがよくみられている。何十年も年金を支払ってきた世帯よりも年金を支払わずに生活保護を受けたほうが多く受給しているという実態があるのだ。これは、年金だけで生活する高齢者を想定していない年金制度に問題があるようだ。
さらに、受給者の自立を促すような制度(生活保護法第1条)であるにもかかわらず、その自立の意識が芽生えないということも問題である。
第1条 この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。
生活保護受給者の親に育てられた子供の意識改革が進まず、親子数代にわたって生活保護を受給するケースも多く見られ(「ケースの子はケース」)、生活保護のありよう自体にも疑問が示されている。また、医療経費が現物支給となっており、医療保険料等もかからないことから、申請時の困窮事由がなくなっても稼働を抑えて受給を続ける者も多いが、そのような受給者に対して実施機関は、指導はできても強制力を持たない。生活保護受給水準の世帯を減少させる政策(自立保護、就労援助、所得向上等)とともに、セーフティネットとしての生活保護制度の本質自体にも議論が行われているのが現状である。
厚生労働省の生活保護見直し検討会議(樋口美雄慶應義塾大商学部教授座長)は現在、生活保護を受けている家庭より所得が低く、貧窮している家庭の増加などを考慮し、生活保護費のうち、主に生活扶助の食料費などを減額していく見通しを明らかにした。既に、老齢加算の廃止、母子加算の段階的廃止、が実行されており、これによる負の連鎖が起きかねないという。しかし、一律減額には問題があり、特に障害者の家庭などでは福祉という点からも問題がある。
投稿: 長谷山 | 2008年1月12日 (土) 23時15分
福祉はなぜ必要なのかと考えたとき、頭に浮かぶのは憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というフレーズである。この法律はそういう権利があるのだと言っているだけで、保障するとは言っていない。保障や何かの助けもなく、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送ることは難しい。だから、そのような生活を営むために福祉が必要なのではないだろうか。生きていれば誰かの力を借りなければならない時が必ず出てくる。そこで、福祉を必要とする場面と、もしその時福祉がなかったらという仮定を挙げていこうと思う。
まずは、金銭面である。病気で働くことができないとか、収入が少なくて暮らしていくのが困難だとか、そういった人たちは金銭的な支援がなければ生活を送っていくいくのは本当に困難なことだと思う。病気を抱えた人であれば医療を受けるためにたくさんのお金が必要だし、子供を持つ人であれば生活費のほかに学費が必要だ。それらをまかないきれない人達のために福祉の力である生活保護がある。その金額は裕福な暮らしができるほどのものではないが、あるのとないのとではかなり違うものだ。では、もし生活保護がなかったらどうだろうか。一般家庭のような普通の生活どころか、最低限度の生活すら営めないのではないだろうか。家族がいれば養っていくことはできないし、それほど人数がいなかったとしても十分な食事をとることさえできないかもしれない。このようにどうにもならない事態に陥ったとき、福祉が必要となる。
次に、高齢者が健康で文化的な生活を営むためのサポートだ。脳梗塞で体が不自由になってしまった人や認知症の人がいる家庭では、家族だけで介護をしようとすると慣れないことや分からないことか多くて、介護をする側に疲れやストレスがたまってしまう。もし家族に要介護者がいて家族以外のだれにも頼れないとしたら、ストレスや介護疲れにより死亡してしまうかもしれない。福祉がある現代でさえも介護疲れによる死亡は深刻なのに、福祉がなくなれば介護疲れによる死亡だけでなく、ストレスのもととなる要介護者を殺害するという事件が増えるかもしれない。だから、福祉が必要だ。これは、施設に預ける場合にも在宅で介護をを行う場合にも言えることだ。まず施設の場合、スタッフによる利用者の介護や毎日の食事など健康な生活を送るための福祉がある。そして、ちぎり絵をしたりビーズで何かを作ったりという活動や、レクリエーション活動といった文化的な面の福祉がある。家庭ではどうしてもできなかった部分も対応してくれる。頼りきりではよくないが、やはり専門知識がないと分からないこともある。そして在宅の場合だが、家で介護をするからといってすべて一人で行うのではない。何か困ったことや分らないことがあったとき、相談に乗ってくれるソーシャルワーカーがいる。一人で介護をするのはつらいことだし、ストレスがかなりたまる。家族のことだから誰にも頼りたくないと思う人もいるだろう。だから、ソーシャルワーカーがその人に合ったやり方を提案したり、相談に乗るだけなど直接関与しない方法だってある。介護する側、される側も気持ち良く過ごせるようにするためのサポート役として福祉は必要である。
最後に、障がい者の自立支援のための福祉だ。障がいを抱えた人だと就職が困難な場合が多い。障害者枠を設ける企業が増えてきているとしても、やはり自分だけで探すのは難しいと思う。また、障がいにもさまざまなものがあり、お金の計算が得意でなかったり、包丁で物を切るなどの日常で使う細かい作業が得意でなかったりする人もいる。苦手な部分だけの支援や、毎日生活に関与しなくても週に一度または月に一度だけ見回りに来るというような、指導員の監視の目をできるだけ避けた支援もある。もし、このような福祉がなければ、仕事に就けない障がい者が増え、施設の束縛された生活から逃れたいという障がい者の思いは叶わない。心も内容も安定した生活を送れるようにするためにも福祉は必要なのだ。
これまで挙げてきたように、人々が健康で文化的な生活を送るために福祉は必要だ。きれい事のように思えるかもしれないが、福祉は人々の生活に対するニーズを受け支援し、よくしていくためにあるのだと思う。
投稿: 長靴猫 | 2008年1月12日 (土) 23時03分
福祉の充実と社会的負の副作用についてコメントを書きたいと思います。とかく福祉の充実が叫ばれている現代ですが、それによるデメリットとして労働意欲の低下があります。例えば、最低賃金よりも生活保護費のほうが豊かであれば最低賃金で生活している労働者の労働意欲は低下し、生活保護に頼った生活に移行してしまうという危険も考えられます。
しかし、生活保護を受けている人のなかに現状の生活保護費では生活していくことが困難であると思っている人がいることもまた事実です。最低賃金より生活保護費が高くなってしまうことには負の側面があるかもしれませんが、だからといってこれ以上生活保護費を削減してしまったら、人間としての最低限度の生活を送ることさえも困難になってしまう人が出てくるかもしれないのです。例えば、障がいを持つ人々は生活保護費で生活していますが、その金額では足りない生活していくのが難しいのが現状です。障がいの軽い人で働き口を見つけ、働いている人でも生活保護費と収入として得た賃金を合わせても生活が苦しいといっている人もいるぐらいです。生活保護費も少なければ、働いて得る賃金も少ないというわけです。なので今日生活保護費の削減を叫ぶ声があったとしても、ただ削減すれば問題が解決するかというと、そういうことではないと思います。
そこで重要になるのは金額の問題ではなく、サービスなどの質の問題であると思います。そしてサービスの質の向上のためには、福祉サービスを向上させるための調査委員会の設置を地方公共団体に義務化し、その地方公共団体ごとのニーズの実態を調査させ、その調査結果に応じてサービスの内容を改善していき、質の向上を図るべきだと思います。例えば、失業者に対しては雇用機会を増やしたり、就職口を積極的に紹介する、また就職に必要な技術を身につけさせるなどの教育も必要になってきます。企業にも協力を求め、ワーク・シェアリングなどをさせることによって積極的に雇用機会を増やしてもらうなどの対策をとってもらいます。高齢者には医療費ばかりかけるのではなく、病気を予防するための諸教育を行い、グループホームなどを積極的に利用するよう情報公開、呼びかけをして社会と関わってもらうことによって痴呆症を予防していきます。また社会と関わるということは生きがいを創出することにもつながり、生活の質の向上になります。そして、どうしても介護医療が必要になった場合でもできる限り自宅での介護医療を行うことが大切であると思います。病気になったり介護が必要になったからといってすぐ施設を利用していては莫大な費用がかかってしまいます。また施設での介護医療は高齢者にとっては不自由なことばかりで生活の質の低下につながるからです。障がい者に対しては、自立して生活している障がい者には就職口を創出して就職支援を行い、自立して生活することが難しい障がい者にもできる範囲でできることはやってもらい、できないところで他人が手を貸すということが大切だと思います。またバリアフリーの概念に基づく町づくりを行うために様々な障がいを持つ人々の声を聞いていくことが大切です。シンポジウムなどを開いて障がいを持った人々が意見やニーズを述べることができる機会を設けるべきだと思います。
このように、質を改善していくことも福祉の充実であると思います。費用を上げても下げても負の作用が必ずどこかに発生するのであれば、質の改善をしていくことで金額が少なくて不自由している人々の不自由を取り除き、金額が高くて不満を持っている人々の不満をこれ以上増やさないようにしていくことが重要だと思います。
投稿: 加齢臭 | 2008年1月12日 (土) 22時51分
今回は、福祉の充実と社会的負の副作用、というテーマのもと、生活保護に関わった問題についてコメントをまとめたいと思う。最近では、『福祉の充実』ということが世間的にどこでも、大きく叫ばれている。それは、これまでの福祉サービスや政策では現代の社会状況に間に合わず、その存在自体が今の日本にそぐわなくなってきているからである。その点から考えてみると、福祉の充実が叫ばれていてもおかしくはない。しかし、書かれているように福祉の充実を図ることで一般社会のどこかに負担がくることは明らかである。それをどのように捉えるのかは個人の自由であると思うが、私の意見としては、福祉が充実されるためにはある程度負担が増えることは仕方がないことではないかと考えている。ただ、もちろんその他に、政策として削減できる部分を削減したうえでそれでも負担せざるを得ない、という状況であるならばという前提の上での話である。
ブログに書かれている例えを用いて考えてみる。生活保護費が最低賃金より豊かである場合、労働意欲の減退につながる。また、生活保護費が増大すれば労働者の負担も大きくなる、と書かれている。確かに、単純に考えてみると最低賃金でも連日働き続けている労働者がいたと仮定すると、生活保護費の方が豊かであるならば自分でも得られる高収入の方に流れてしまうことを容易に想像できる。そして、そうなれば制度を悪用する人間も出てくるかも知れない。さらにそういった人間が現れた時、みている側の一般社会の人間も反発を覚えることもあろう。
だが、そもそも生活保護というものは日本国健保第25条に規定されている生存権「健康で文化的な最低限度の生活を営む」という理念の下にあるわけである。その観点から考えると、やはり生活保護費はその理念である、最低限度の生活を営むために増大されるのであるならば仕方がないと、私は思う。けれど、その「最低限度の生活」、というものの最低のラインをどこに引くかが難しいのであると思う。何を基準に最低限度の生活と判断するのか、最低限度というものがどの程度であるのか、またそれが最低賃金よりも豊かであっていいのか。さらにそれだけでなく、生活保護費が増大すれば、労働者の負担は大きくなるという問題も出てくる。
しかし、前記した25条の意味をくんで考えてみると、その理念は単に金銭的に豊かになることを目的としているのではなく、人生の豊かさを目的としていることからも、『生活保護費がなぜ最低賃金より豊かであるのか』などというように、金銭的な部分のみに目を向けるべきではないと思う。では、労働意欲の減退を防ぐためにはどうするべきか、その解決策を見出していくべきであると思う。解決策はというとはっきりしたものはないが、解決策を探ることで社会全体で賃金体系について見直され、雇用条件の改善などにも繋がり、さらに福祉の充実というところにも繋がっていくのではないだろうかと私は考えている。
ただ、生活保護に関してもう一つ頭に入れておかなければならない点がある。それは生活保護法の補足性の原理である。これは保護を受ける側の人間に対して言えることである。生活保護を受給するならば、自治体によって多少差があってもその判断基準は厳しいと言われているが、やはりそれなりの審査を受けるべきである。また、足りない部分を保障するものである、という原理を当人たちにも理解してもらう必要があるのではないだろうかと思う。生活保護について私も含めて、世間一般の人はあまり理解していないように思う。
生活保護の基準の引き下げについても議論が出ていることに触れておくと、これについて私は反対ではないが、基準を引き下げても問題の解決にはならないと思う。むしろさらに格差が広がりを見せるだけだと思う。
やはり福祉の充実を図るのには、どこかに負の部分が出てくるとは思うが、だからといって今のままの福祉政策を続けることには、今後何の発展も望めないのではないかと考える。
投稿: 朝顔花 | 2008年1月12日 (土) 22時41分
福祉が必要とされているのは、憲法25条第1項にある最低限度の生活を営む権利を誰もが持っているので、それを保障するためだからだと思うし、何らかのサービスや援助を必要としている人たちに対してサービスを提供するのは福祉の役目だからだと思います。最低限度の生活を保障することとともに、生活がしやすいかどうかも重要なことだと思います。ノーマライゼーションの考え方が広がっていったことで、健常者にも障がい者にも便利で住みやすくなってきていると思います。これも立派な福祉と言えます。便利で住みやすくなってきているとはいえ、多く人々の抱える問題はなくなるわけではありません。最近は、サービスや援助を必要としている人が子どもから高齢者まで範囲が大きくなってきて、年齢層が広くなりました。もともと福祉とは、相互扶助や慈善事業から始まり、少しずつ改良され発展してきました。ですが、社会の変化により人々の求めるものや抱える問題が多様化、複雑化し、相互扶助や慈善事業ではこうした問題に対応しきれなくなったのではないでしょうか。抱える問題が難しくなるにつれて専門的な知識が必要になったり、分野の枠をこえて取り組まなければならない問題も多くなります。そのため、効率よく問題を解決することや、適切なサービスを提供するために現在の福祉の形に発展してきたのだと思います。形は変わっても福祉というものがあり続けたのは、サービスを求める側が自らの生活をよりよくしたいという思いがあり、その思いに応えることができる福祉は人々にとって必要不可欠なものであるからです。福祉というものが、もし存在していなかったら、たぶん相互扶助という考えを持つ人は誰もはいなかったと思います。だから、福祉が存在しないということは人々の中に助け合う気持ちがないことと同じです。人は一人の力では生きていけません。必ず誰かに支えられて生活しています。生活していくために必要な支えが相互扶助であって、福祉であると思います。その支えがあるおかげで最低限度の生活が保障され、よりよい生活を求めることができるのです。社会が発展していくともちろん豊かになりますが、社会自体複雑な構造になっていくので今まで出てこなかった新しい問題が発生するかもしれません。すると、その新たな問題に対してサービスを作り出して提供することが必要になります。そうしなければ、人々の最低限度の生活が保障されなくなる可能性があるからです。福祉にはこのように人々の生活に重要な意味を持っています。充実した生活を送るためには福祉は必要なものだと考えます。
投稿: 信号機 | 2008年1月12日 (土) 22時39分
社会福祉とは、「全国民が生活者としての主体的社会関係の全体的統一性を保持しながら生活上の要求を充足できるように、生活関連施策を利用、改善するように援助するとともに、生活関連の各制度の関係者に個人の社会関係の全体性を理解させて、施策の変更、新設を援助する固有の共同的行為と制度である」(岡村重夫)と規定されている。この規定を読んでわたしは、社会福祉とは、国民全員が、健康で文化的な最低限度の生活を営むための援助である、と解釈した。現代社会に福祉は必要不可欠であると、わたしは考えている。現代人には福祉の制度が身に染み付いているため、いまさらなくなっても困惑すると思うからだ。しかし、今日の福祉について考えると、果たして福祉は必要なのか、疑問に思ってしまうことも事実である。
わたしの祖母は現在、グループホームで生活している。そこでの生活は祖母にとって快適ではないようで、母に何度も家に帰りたいと訴えている。祖母がいうには、ホームに勤めているケアマネージャーが、部屋に入るとあからさまに臭い、と言うようないやそうな顔をしたり、洗濯物を1週間も返さなかったりするらしい。すべてが事実かどうかはわからないが、祖母が不快な思いをしていることは事実である。母とホームのケアマネージャーの連携もうまくいっていない。ホームのケアマネージャーは祖母の振る舞いを悪くいうばかりで、自分たちの非は認めない。また、美容室などもグループホームの指定したところに任せてあるが、その費用も普通の倍以上かかり、そんなにお金をかけるほどのサービス内容なのかと首を傾げてしまう。祖母をグループホームに入居させたのは間違いだったと思わせるほどの状況である。グループホームのすべてが、現在の福祉のすべてがこのようなものであるとは当然思っていないが、しかし実際こんなグループホームに家族をあずけるのは不安がつのる。慈善事業としてはじまったはずの福祉の従事者が、いまはそれを忘れて単なる仕事として福祉サービスを行っているのだ。
わたしの友人の兄は、生まれたときから脳に障害があり、歩くことも話すことも、妹である友人のほうが先にできるようになったそうだ。わたしは彼と会ったことがあるが、言葉が聞き取りづらく、歩き方も少し不自然なように感じた。現在は障害をもつ人のための就労施設の1つで働いているが、収入は月何千円といった微々たるものであるそうだ。昨今制定された障害者自立支援法によると、たった月何千円かの収入の彼のような障害のある人が今まで無料で使えていたような公共施設を有料にしてしまうなど、本当に障害のある人の自立につながるのかと疑えるような内容である。彼は実家にすんでいるためそれでも生活していけるだろう。しかし、今まで公共施設を多く利用していた人はどうなってしまうのだろう。障害によって寝たきりの状態から動くことができなかったり、就労できない人はどうなってしまうのだろう。おそらく自立支援法の目的は、今まで働けていなかった障害のある人を無理矢理にでも働かせることで自立させる、ということなのだと考えられる。しかし、現代社会において障害のある人をすすんで雇用する企業や会社がどれほど存在するというのだろう。ニュースや福祉関係の授業でみたビデオなどによれば、障害のある人は、自分が障害をもっているということを隠して就職を希望する人のほうが圧倒的に多いのだ。何故なら、障害をもっているということで採用してもらえない可能性が格段に上昇するからだ。自立支援法は、よくいえば障害者の”自立を促す”ための制度である。しかし、実際は、不景気のあおりを受けて福祉サービスを充実させることができなくなったために、福祉にかける予算を削るという目的で制定したとも考えられる。
社会福祉とは、国民全員が、健康で文化的な最低限度の生活を営むための援助である。と、少なくとも慈善事業としてはじめたときにはそう考えられていたはずである。しかし現代社会においてその考えはもはや失われつつある。福祉の本来の目的を忘れ、何のための制度なのか、誰のための制度なのか、そういう本当に大切なことを考えずただ利益を優先させてしまっている。しかし、福祉を充実させすぎてしまうと、ホームレスやネットカフェ難民といわれる人々が増加していってしまう。福祉制度によって、そういう就労していない人もお金をもらえるということになると、誰もすすんで働かなくなってしまうからだ。社会福祉とは、国民全員を保障する義務を担っているが、それを利用して堕落してしまっては、福祉制度を廃止せざるを得なくなってしまう。福祉制度はさまざまな問題を抱えているが、障害のある人や老人など、本当に援助を求めている人に対する制度を削るのはやはり反対である。福祉は現代社会において絶対に必要なものである。しかしその限度を考えなければ廃止したり、反発を招く危険があることを十分に考慮して、これからの福祉を熟考する必要があるとわたしは考える。
長谷川
投稿: 長谷川 | 2008年1月12日 (土) 22時38分
福祉の充実と社会的負の副作用
社会福祉とは健康で文化的な生活を保障するものである。それが、基本的人権としてとらえられていることが重要である。しかも他の人権のなかでも、まず生命と暮らしを保障するこの人権は、最優先、最重要と言えよう。
したがって、福祉とは、幸福をつかむための生活面の状況そしてその努力過程をさす用語であり、幸福はその結果、折々感じるものであろう。それは、自立への努力過程でもある。
アメリカの自立を目指す障害者運動が提起しているように、自立選択、自己決定、自己管理、自己実現できるような生活をめざし、それを推進、援助することが、社会福祉であるともいえる。
社会福祉法で、「福祉サービスの基本理念を明確にし、利用者が自立した日常生活を営むことができるよう、良質かつ適切なものでなければならない」と述べている。なお、社会福祉すなわち福祉をめぐる社会方策あるいは社会的努力という意味は、個人のみによる方策あるいは個人的努力すなわち自助をさすのではないということである。それは、自助を促進するつまり個人の方策あるいは個人的努力を支援する意味での協力や協同、すなわち互助や制度的な援助、政策などによる他助とりわけ公助を意味する。これらのことから、社会福祉を充実させるためには、利用者のニーズに応え、個々に合わせた利用者本位のサービスが必要不可欠である。そのため福祉をめぐるあらゆる社会方策がなされている。社会福祉を目的とした法律には、「福祉サービスの利用者の利益の保護及び地域における社会福祉(以下「地域福祉」という。)の推進を図るとともに、社会福祉事業の公明かつ適正な実施の確保及び社会福祉を目的とする事業の健全な発達を図り、もつて社会福祉の増進に資することを目的とする」と述べている。しかし、新規利用者が急増する見込みである現在、福祉サービスの利用者の利益の保護や地域における社会福祉のため、国の費用負担は莫大なものになる。福祉の措置や施設整備に要する費用は基本的にすべて公費で負担されている。基本的にと述べたのは、利用者からの費用徴収も行われているからである。
また、民間の社会福祉事業では、共同募金等の寄附金、競輪等の公営競技益金の補助金、その他の助成団体からの助成金等も活用されている。とはいえ、公的資金に比べると民間資金の規模は小さなものである。公費とは、国や地方自治体の予算に計上されたものである。予算の歳入の大半は税金だが、国債とか地方債という名前の借金も含まれている。この借金は、いつかは税収から償還されるので、公費とは結局税金に他ならないのであるが、毎年の収入という点では税金以外のものに含まれるということである。
したがって、福祉サービスの提供が進展、すなわち福祉が充実するということは、財政と密接に関係している。そのため、「福祉の充実」を重点におき、あらゆる方策を実施するということは、社会的負につながるのである。
「社会的負の副作用」は、福祉の充実を図り続ける限りなくなることはないだろう。福祉の充実と社会的負では、やはり福祉の充実が優先されてしまうが、社会的負は大きな問題であり、税金の値上げが確実であろう。私は、国民全体が平等になるために、消費税の値上げを求めたい。利用者が増えていくなか、個々の利用者のニーズに応じ、サービス内容を充実させるということは、ある意味日本にとって頭を抱えるほど苦しい状況に落ち込ますものであり、しかし、福祉を充実させるためにはなくてはならないものなので、わたしは日本に対して不安を抱いている。もちろんこれからの日本に対しても同じだ。そして、これらの問題をどのように対策、もしくは解決していくのか、もはや解決できる日がくるのだろうか、想像もできない。「福祉の充実と社会的負の副作用」というテーマに直面し、日本に対する不安、将来に対する危機感が生まれ、難しい問題ではあるが、避けてはいけない大変重大な問題であると痛感した。
投稿: ユウ | 2008年1月12日 (土) 22時13分
近年、急速な少子高齢化や日本経済の高度化の余波により、ますます社会福祉の充実が主張されるようになった。たしかに戦後、経済的に急速に豊かになり、世界でも有数の先進国の一つに数えられるようになった日本の現代社会では、国民一人一人の生活の質の向上を図るために、社会福祉の充実が重視されるのは当たり前である。しかし、そんな福祉が充実することによってデメリットが生まれてしまうのも残念ながら事実だ。たとえば、社会保障費。社会保障費とは、何らかの生活上の問題を抱え、貧困に苦しむ人に対して国家や地方公共団体から給付される、生活を安定させるための所得保障のことである。現代社会の中では、そんな社会保障費の大半が高齢者に給付されているそうだ。だが、最近では生活保護を受けなくても十分に生活することができるにも関わらず、生活保護を受ける人が増加しており、本当に生活保護を必要としている人に対してなかなか受給されない、というケースがよく見られるそうだ。この現象の原因には、働いて得る収入と生活保護費の差がほとんどなくなってきているという時代背景が隠されている。何もしなくてももらえる生活保護費が、一生懸命働いて得る収入と同等ならば、無理に働かずとも生活保護費で簡単に生計を立てられると考えてしまうのは当然の結果だろう。現代社会にはそんな人が増えているのだ。この傾向がこのまま続くと、本当に生活保護費を必要とする人に対して給付される社会保障費の割合が減少し、必要最低限の生活すらできない人が増加したり、それらの社会保障費の主な財源となっている若い世代の負担がさらに重くなり、世代間の不公平がより深刻化すると考えられる。現在、社会保障を必要とする人をカバーできるだけの支え手が間に合っていない。少数の若い世代が、生活保護を必要とする多数の生活困窮者を支えているのだ。これからも少子高齢化がますます進行するならば、現在の若い世代が社会保障費の恩恵を授かるころには、彼らが得る社会保障費よりも負担のほうが多くなってしまうだろう。だから、特定の世代に負担をかけすぎないようにするために、世代間での社会保障費の負担の差を少なくして全ての人がバランスよく負担したり、少子高齢化を改善して高齢者や若い世代、女性、障がい者の就労を促すことによって、このデメリットを改善に導いていかなければならないと思う。
そして、現代社会の中で社会福祉が重視されていくことにより、社会福祉専門職者が抱える負担や心理的なジレンマも多大なものになってしまうのではないだろうか。たとえば、老人ホームなどの老人福祉施設。施設への入居を希望している高齢者は年々増加しているにも関わらず、施設で援助を行う人材の雇用が追い付かなくなっているそうだ。一人一人の入居者に対して適切な対応ができなくなるだけではなく、施設職員の疲労やストレスを溜める結果につながってしまう。そのため、福祉の現場での社会福祉専門職者の負担が大きくなり、老人福祉施設での高齢者に対する虐待などの重大な問題を引き起こす可能性を秘めている。
また、地域による格差も見過ごすことのできない福祉の重要な課題の一つになっている。都市部に比べて少子高齢化が進んでいる過疎地域こそ、より濃密な援助が行わなければならないはずなのに、国や地方公共団体での財政の問題や人材不足により現状に見合った援助が行われていないのだ。これからも過疎地域での過疎化はますます進行すると考えられているため、過疎地域の福祉援助に充てられる財源が多めに見積もられなければならない。しかし、そんな地方地域だけではなく、都市部ですら援助が追い付いていないため、不足分を補うことは困難だというのが現状なのである。
確かに現代社会には社会福祉が必要不可欠である。しかも、福祉という分野は国家の状態を見ることができる、一つの尺度になりつつあるため、なおさら重視されるべきものだと思う。しかし、社会をよりよいものにするための福祉が充実することによって、逆に社会全体が不安定なものになってしまう可能性もあるのではないだろうか。
投稿: 私誰夢 | 2008年1月12日 (土) 22時09分
今、福祉の充実が盛んに叫ばれており、その例として生活保護がある。
生活保護とは、日本国憲法の第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という規定に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに自立を助長することをいう。この生活保護は、生活保護法という法律にしたがって行われており、生活保護を受けるには世帯全員の収入と国の定める保護の基準によって計算された最低生活費とを比較して、就労による、預貯金、保険、自動車などによる資産、兄弟などの扶養義務者からの扶養、年金などの他の制度による補助など、あらゆる努力を可能な限り行っても、収入を下回っていた場合に、その不足分を補う形で行っている。
しかし、現在の状況としては、法律ではこう定められ、不足分を補うとされていても、実際には、生活保護を受けている人の所得よりも、それを下回る賃金で働いていて、就労していても生活が困窮している家庭や、年金だけで生活してしている人の所得が、生活保護を受けている人の所得を下回っている世帯もある。なかには、生活保護を受けているのにもかかわらず、自動車を保有しており、結果的に不正受給となっている世帯もある。このような状況は、もともと生活に困窮する人の最低限度の生活を保障し、不足分を補助する目的であった、本来の目的と矛盾し、現実では、働いても生活に困窮している世帯よりも裕福な暮らしを保障していることになっている。このことによって、「一生懸命働いても、生活に困っているのに、生活保護を受けたほうがいい暮らしができるなら、働かないで、生活保護を受けたほうがいいのではないか・・・。」と考える人が発生し、結果的に労働に対する意欲が減少するきっかけとなってしまう。そうなると、労働に対する意欲を持つ人が減少し、労働力も減少するため、社会そのものが機能しづらくなってしまう。
このような状況に対して、厚生労働省は、生活保護見直し検討会議を行い、生活保護費のうち、主に食料費などを削減していく見通しを明らかにした。しかし、減額したとしても、もともと生活保護を受けている世帯より所得が低い家庭の救済にならないばかりか、生活保護を受けている世帯でさえも、生活に困窮してしまう可能性もあり、逆にそのような家庭を増加させてしまう可能性がある。こうなってしまうと、生活保護費の削減は逆効果となり、結果的に生活に困窮する世帯を増加させてしまう。
では、反対に生活保護の対象の基準をさげ、もともと生活保護を受けている世帯より所得が低い世帯も生活保護の対象になるようにした場合はどうなるだろうか。
この場合、確かに生活保護を受けることができる世帯が増え、その時点で生活に困窮している世帯は救済できる。しかし、この生活保護費を支払うのは地方自治体であり、その財源となっているのは、税金である。生活保護を受ける世帯が増えるということは、当然その分生活保護費として支払う金額も増えてくる。そうなると、財源となる税金もより必要となり、支払う金額が増えた分だけ徴収する税金も増えることとなる。その結果、当然労働者一人当たりの税金の負担も増えることになり、結果的に生活が苦しくなってくる世帯を増やしかねないし、労働意欲を減少させる原因にもなりかねなくなる。
このように、福祉を充実させ、より多くの困窮した人を救済しようとすると、最後にはその財源を負担する人を苦しめることになってしまうという悪循環が生じてしまう。つまり、福祉を充実させることは、多くの人を救済できたり、受けている人の生活レベルを上げることができる反面、苦しめる人を増やしたり、不満をうんだり、それを不当に得ようとする人が増えてしまう。だから、福祉の充実だけを目指すのではなく、その財源を負担しても十分生活ができるように、労働環境の整備などで個人の生活を豊かにする必要がある。
投稿: 田舎人 | 2008年1月12日 (土) 22時04分
少子高齢化社会に突入した日本では、福祉の充実はますます必要になってくることだと思う。しかし、「福祉」というものは絶対に負担者が支えていかなければ成り立っていかないものであり、その負担者(労働者)が負担することをやめてしまうと「福祉」は成り立たなくなってしまうのである。そこで、どうしたら福祉をよりよく充実させられるか、そして社会的負の副作用をより少なくするためにはどうするべきか考えてみようと思う。
まず、福祉はなぜ必要なのかという点から考えていきたい。
そもそも福祉というものは、未成年者、高齢者や障がい者で生活上なんらかの支援や介助を必要とする人、経済的困窮者、ホームレスなどに対し生活の維持、向上させるためのサービスを社会的に提供することである。このことからわかる通り福祉はサービスなのである。それをいかに対象者によりよいサポートをすることができるか、それはさまざまな方法で福祉サービスが増大している。それで救われる人はたくさんいるはずだ。
この日本で生活する上で、必ず生活困窮者や障がい者は生まれてきてしまうのは確かなことだ。障がい者の場合は生まれつきの先天的な障がいであったり、病気や事故などの後天的な障がいもありえる。医療が発達してきていると言われていても、今の医療では障がい者は生まれてきてしまうのである。それを止めることは今の医療ではできない。しかし、障がいがあると言っても社会に参加したいと思う人がたくさんいて、そんな風に人々が思うことは自然なことであるはずだ。そのような人を手助けしたり、何か補うために「福祉」が必要なのである。実際に1990年代に入ってから福祉や介護へのニーズが高まり始め、今ではますます向上すべきとされている。そして、生活困窮者の場合はリストラやワーキングプアの問題から発生してくる。これは本当に深刻な問題で、働く場所がなかったり、ネットカフェ難民と呼ばれる人たちも増えてきてしまっているというのが生活困窮者の現状だ。この場合も同じように、人には社会に参加できる権利を持っているのであり、必要最低限の生活は保障されなければならないものなのである。だからこそ「福祉」が必要となってくる。
次に、その福祉をより充実させるにはどうすればいいか考えてみたい。少子高齢化社会、格差社会、増税や医療費の自己負担の増大などとさまざまな問題がある世の中だが、福祉はどうしても削減の対象となってしまう。それは、税金で動いているものだからだ。しかし福祉を充実させるためにはお金がなければならない。それに投資できるお金を作らなければ福祉の充実は図れないだろう。
例にもあがっていた生活保護費削減のことだが、確かに最低賃金より生活保護費が高いのであれば、労働するより生活保護の対象になった方が生活が豊かになっていい!と考えてしまうだろう。しかし、それで生活保護の対象が増えてしまうのであれば労働者の負担が大きくなってしまう。だからと言って生活保護費削減がいいことだとは言えないと思う。少しがんばればもっといい生活ができるという人と違って、本当に生活に困っている人にとっては生活保護があるからこそ生活していけるのであって、生活保護費がなければ暮らしていけないという人もいるはずである。だからこそ、生活保護費という福祉の部分を削減することはいいこととは言えない。ここでの社会的な負の副作用を解消するためには、まず、国や地方自治体の財政を豊かにできればいいと思う。そして働きたいと思わせることができればなおいい。それは、不況の中では難しいことだが、今までは誰がどうやって使ったかわからない税金がたくさんあった。それを明確にし、税金をもっと有効に使っていければ福祉に回るお金も増えてきて負の副作用も解消できるし、さらに福祉の充実にもつながるはずである。そんなことを言うことは簡単だが、実際には難しいと思う。しかし、現実として問題になっていることなので、これからは社会の課題についてもっと考えていかなければならないと思った。
投稿: 伊藤園 | 2008年1月12日 (土) 20時52分
社会福祉はなぜ必要なのだろうか。社会福祉とは未成年者、高齢者や障害者で生活上なんらかの支援や介助を必要とする人、経済的困窮者・ホームレスなどに対し、生活の質を維持・向上させるためのサービスを社会的に提供すること、あるいはそのための制度や設備を整備することである。
ではなぜそのような制度が存在しているのだろうか。それは日本国憲法の第25条の生存権に関係しているのではないだろうか。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」この「最低限度の生活」ができない人たちのために存在し、またその人たちにとって社会福祉は必要であると考える。
もし社会福祉がなかったとしたら、障害を持ち働くことのできない人や、お年寄り、職を失ってしまった人たちは生活していくことが不可能となる。そのような人たちは何らかの扶助を受けなければならない。また介護が必要となった人たちに家族や親せきがいなかった場合、その人たちは自分ではどうすることもできなくなってしまう。そのようなことがないように、介護施設やホームワーカーなどが必要となる。
そして日本国憲法第25条の第2項には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定されている。「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するために、国が社会福祉の向上、増進に努めなければならないのである。
現在、日本にはたくさんの社会福祉が存在している。しかし、社会福祉としてうけられるサービスについて世の中にあまり浸透していないのも事実である。近頃のニュースでよく見られるのは、老夫婦が誰にも気づかれずに亡くなるというニュースである。その多くは夫婦のどちらかが要介護者であり、どちらかがその介護をしているということである。その介護をしている方が先になんらかの理由で自宅で亡くなってしまい、要介護者はどうすることも出来なくなってしまい、亡くなるのである。また、介護に疲れ、心中してしまうというニュースもあった。最近こうした悲惨な事件が次から次に起こっている。実際、たくさんの高齢者が孤独死に追いやられ誰にも看取られる事無く亡くなられてしまったり、家族が介護しなければという義務から介護ノイローゼになって人を殺してしまうなどということが多い。このような事件が増えている背景として、市民は福祉に関する説明が十分になされていないということが挙げられるのではないだろうか。施設や設備はある程度整っているがそれを市民は分かっていない。それでは「健康で文化的な最低限度の生活」を全ての国民がすることは難しいであろう。もっと社会福祉の制度や設備、受けられるサービスを国民に知ってもらうということを国はすべきなのである。
社会福祉は、すべての国民が最低限度の生活をするために必要なのである。そのためにある程度の負担をしなければならないことは仕方のないことなのではなかろうか。私たちもいつ社会福祉を受けなければならなくなるかわからない。自分のためだけではなく、すべての人のために社会福祉を充実させていくことが大切であると考える。
投稿: 秋時雨 | 2008年1月12日 (土) 20時19分
福祉にも様々なものが考えられるであろう。一概に福祉の充実といっても様々な面があるため、何を持って福祉の充実ということを指すのかは、人それぞれの考え方があると、思われる。だが、共通して見られる点も、なきにしもあらずといったとこだろう。一例として、公費によっておこなうというところか。公費というのは、元は税金だ。ここでは、生活保護の問題を掲げられているが、確かに様々な議論がなされていると思われる。よく引き合いに出されるのが、憲法25条第1項だ。憲法解釈は9条しかり、様々な問題があるので、引き起こされるべくおこったとでもいうべきだろうか。だが、私論をいうと福祉の充実は結構だが、生活保護費は削減すべきとおもう。むろん、条件付だが。理想論としてはそうなのだが、いろいろな考え方がある以上、どうしても憲法解釈という国家の最上級のもんだいにも絡む以上、あまりとやかく述べずに、専門家や国家上層部の意見を聞くほうが、いいのではないかと思う。それが、時代に合えば受け入れることが出来るであろう。とにかく、相反する事象が対立するのは、世の常であって、どちらかを犠牲にしなければ、何も変わらないと思う。例で言う、生活保護費削減か福祉の充実。
投稿: 南中紺 | 2008年1月12日 (土) 19時55分
社会福祉の充実は、一見、国民にとっては非常に魅力的で安心感を与えるような印象だが、実際には福祉の充実の裏には負の副作用が隠されているものだと思う。簡単に言えば、社会福祉を充実させるための基本は、産業の育成・発展により完全雇用と高水準の所得を保証する→高水準の所得が保証されてはじめて国民に高額な税負担が可能となる→これで福祉制度の財源が確保される、といった具合である。つまり、福祉を充実させるためには、絶対的な財源が必要不可欠であるため、結果的に国民の財布に負担がかかってくるのだ。何の出費も無しに福祉を充実させることは不可能なのである。また、福祉が充実することは、高齢者が増加することでもある。もちろん、長生きすることは悪いことではないが、介護という観点からすれば、若い世代の負担が増加する。これを少しでも軽減するために、また税負担を強いられる。つまり、福祉の充実という文字だけを見れば、豊かな暮らしが待っていると幻想を抱いてしまいがちだが、現実には、確実に税負担が増加する。消費税はもちろん、酒税、タバコ税…と個人のささやかな楽しみさえも難しくなってしまうかもしれない。生活が豊かになるということには程遠いものであると考えられる。むしろ、自分らしい生き方が困難になってしまう可能性だってあるのだ。
投稿: 大迷惑 | 2008年1月12日 (土) 19時49分
生活保護費が最低賃金よりも豊かであることは、たしかに労働意欲の減退につながり、また労働者の負担も大きくなるでしょう。しかし、はたして問題があるのは生活保護費の方なのでしょうか?私はそうは思いません。生活保護費は人間らしい最低限度の生活を営むのに必要な程度の金額であるはずです。だとしたら、改善すべきなのは人間らしい最低限度の生活を営むのに必要な金額よりも低い最低賃金の方だと思います。
福祉は、社会の富の余剰によりなされます。ですから、富の余剰がないのならば、たしかに生活保護費は減らされなければならないのかもしれません。しかし、今の世の中には余剰はあるはずなのです。財務省の「法人企業統計調査」によれば、バブル期の経常利益は18.8兆円。たいして2005年の経常利益はなんと32.8兆円だそうです。しかし、私のような一般市民には余剰はほとんどありません。なぜなら、日本の企業はアメリカの資本主義の考えにより、従業員のものではなく、株主のものになってしまっているからです。同じく財務省の「法人企業統計調査」より、2001年から2006年にかけて、企業の配当金計は約4倍に、役員給与+賞与は約2倍に、経常利益は約2倍に、そして従業員給与は1.4兆円のマイナスになったそうです。その上税制度も多く稼いだ方に有利になってきています。大いに余剰のあるお金持ちから取る分を減らし、余剰のなくなってきている市民から税金を取る。そういった今日の日本の制度こそ問題があると思います。税金は余剰のたくさんあるところからたくさん取り、ないところからはあまりとるべきではないし、財産のかたよりもあまりにありすぎるのはいけないと思います。資本主義の理念は、稼げる人が稼いでその財産によって底辺の底上げを図るというものであったはずです。しかし、稼げる人がどんどん稼ぐ仕組みばかりが発達し、底辺の底上げの部分はまったく実行されていません。その部分の制度(税金をとってそれを福祉に充てるだけではなく、従業員へも適当な賃金を配布させるような制度)を整えることが、生活保護費が最低賃金よりも豊かであるという問題の解決につながるのではないかと私は思います。
それに、労働者の負担が大きくなるという点においては、生活保護費よりももっとほかに責めるべき場所がたくさんあると思います。北朝鮮の兵器開発に注ぎ込まれている災害援助金や、消えた年金、身内に仕事を回すために行う無意味なダムやモニュメントや校舎の建設など、いくらでもあるのではないでしょうか。そういった無駄な血税の垂れ流しをやめれば、労働者の負担はぐんと減るはずです。生活保護費を受け取っているのは、血の通った人間です。今この時を生きているのです。その人たちのもらっている、人間らしい最低限度の生活を営むのに必要な金額を削ってまで、ダムやモニュメントをつくる必要はないはずです。私たちだって、いつ何があるかわかりません。一ヶ月後には生活保護を受けなければならなくなっているかもしれないのです。ですから、生活保護を受けなければならなくなった人間の立場に立った視点で生活保護費の問題を考えるべきだと思います。人間らしい最低限度の生活を営むのに必要な金額くらいは、受け取っていいと思います。
また、1950年に国連が行った社会福祉教育に関する調査報告によると、(1)個人の慈善事業を社会福祉という国と、(2)経済的依存に関連した、いわば救貧対策的な問題への公私の組織的活動を社会福祉という場合と、(3)社会の全員が、生産的で満足な生活の実現を目指して、全能力を発揮するための専門的援助サービスを社会福祉ととらえる国があるそうです。日本は(2)に近いように思います。しかし、本当に必要なのは、(3)であると思います。生活保護を受けている人が自分の全能力を発揮し、生産的な生活をしていたら、労働者もそれほど不満に思わず、労働意欲の減退も少なくなるのではないでしょうか。
投稿: 夾竹桃 | 2008年1月12日 (土) 19時31分
生活保護費における副作用は良くも悪くも両極端だろうと思う。私の周りにも生活保護を受けている人は多くいる。先生が述べる最低賃金を超える生活保護の問題以前に不正に生活保護を受ける者の見極めが最優先であり、この者達が減少することで労働者の負担は軽減するのだと思う。
私の知っている事例で、母子家庭に4人の子供がおり生活保護を受けていた。しかし、戸籍上は離婚しているものの元夫とは同居しているということであった。これは完全に生活保護目的の行動であり、隣人が役所に言えない状況でもあった。それは元夫が暴力団関係者だったからである。役所に忠告をしたことがばれると自分の家庭に乗り込んでくると考えると行動は出来なく、役所も知ったところで戸籍が離婚しているということになっていればそこを生活保護から外すことは容易なことではないのだと思う。これはあくまで私の周囲と小さな範囲で起こっていることであり、不正事例を全国で挙げてしまえば測り知れない膨大な金額になるだろう。
最低賃金分の生活保護金額にしてしまうのはまずはこれらの事を解消してからだと思う。また、最低賃金と等しい保護にしてしまうと病気を患っている人は最低限度の生活が出来なくなってしまうだろう。医療費がかからないからそれは関係ないと言う人もいるであろう。しかし、小さな病気ではなく一般的に障害者とよばれる人たちはどうだろうか。病気によっては普通の風邪だけで生死に関わってしまう。風邪にかかってからの医療費は保証されていてもそれでは遅いのだ。このように風邪を例に挙げれば加湿器を買い部屋が乾燥しないように気を配る。ここでまず加湿器本体にも費用がかかり常に湿度を保つには電気代もかかってしまう。暖房費も一般家庭の倍程度かかるだろう。このように風邪を例に挙げただけではあるが、一般家庭との差は歴然であろう。
以前障害を患った方の家を訪問していた時、役所の福祉課の方が訪ねてきた。(以下、性別等を隠すために障害を患った方をAとする。)それはAさんの生活保護が正しく使われているか確認のためのものであった。Aさんは私が見る限り明らかに最低限度の生活であった。衣装持ちというわけでもなく、何か趣味があるわけでもなく、貧乏でギリギリの生活というほど切り詰めた状態ではないもののあくまで一般的でその中に特別な贅沢はないものであった。しかし、役所の方は1つ1つに棘のある言葉を投げつけ、外から聞いていた私には「不正に使ってるのではないか?その保護支給はあなたには多いのではないか?生活保護・税金・国に頼りすぎなのではないか?」と責め続けているように映った。
また、こんな例もある。Bは母子家庭で兄弟もいた。教育費を負担してもらっていていても、部活動に入ればユニフォーム代や遠征代もかさむ。大学進学等お金は2倍かかる。母親は失業してからやる気を失い再就職を急ぐことは無かった。これは生活保護制度に頼った結果だと思う。だが、子供の事を考えると生活保護費をもっとかけて進路の選択の幅を広げてあげたいと思うが、生活保護の存在がやはり労働意欲を低下させる原因のひとつであることは否定できないのだ。
上に挙げた例はいくつかは私の周囲という小さな世界であり、またいくつかは実話を基にした本やテレビの情報である。これらはあくまで小さい範囲であり何度も繰り返すようではあるが全国規模で考えるとそれは莫大な金額になるであろう。
生活保護を少しでも削減しようと考えていくのではなく生活保護費を返還してもらおうという視点ではどうだろうか?先に述べた障害者の件ではあるが、障害者は外界との関わりを絶とうとしたり、働く環境が軽度の場合はあるが重度になればなるほど労働環境はないだろう。どんな軽作業であれ、寝たきりの人意外は働く労力を持っています。その労力で内職程度の作業を託すのです。わずかではあるがこれは確実な生活費用の返還だと私は思う。このようなわずかな小さなことでもし続けなければ、画期的な案が出るまで何も行動しなく、お金と時間がただ過ぎ去っていくだけだと思うのだ。これは障害者だけではなく母子家庭にも言えることであり、必死に働いていても保護の受給が必要な人もいれば形だけ働いて保護を受給している人もいる。これを国・地域がしっかりと把握し、労働場の確保や労働意欲の促進を図るなどする必要があると思う。
生活保護家庭には内職道具を渡し、家族で時間があるときにその内職を行って国に返還する。これも生活保護費のわずかながら返還となるであろう。
このように、まずは小さなことからでも動き出す必要があるのではないだろうか。
投稿: 菓子屋 | 2008年1月12日 (土) 18時55分
福祉が充実することによって、社会的に負(デメリット・マイナス効果)の事情が発生する、ということに賛同できる。
これは社会福祉に限らず、現代社会の様々な事情に当てはまると私は考える。簡単な具体例として、「自動車」を提示してみる。移動手段として、高い利便性を持つ自動車ではあるが(メリット)、排気ガスなど大気汚染の原因にもなっているのも事実である(デメリット)。また、「携帯電話」にも同じようなことが言える。いつでも、どこでも電話を掛けられる・メールができる等の利便性がある一方(メリット)、文章能力・語学力の低下や、家族間の会話不足等の社会的な負の作用もある(デメリット)。このように、「あるもの」を介在して人間の生活が豊かになる一方、それに伴う負の作用が発生することは、現代社会の必須ではないだろうか。
社会福祉の立場に戻る。前述した、福祉の充実によって、社会的に負の事情が発生する、ということに様々な角度で見ていく。
まずは社会福祉の概念を確認しておく。社会福祉には大きく、二つの概念がある。一つは、考橋正一が規定している「資本主義制度の構造的必然の所産である社会的問題にむけられた合目的・補充的な公・私の社会的方策施設の総称であって、その本質の現象的表現は、労働者=国民大衆における社会的必要の欠乏(社会的障害)状態に対応する精神的・物質的な救済、保護及び福祉の増進を、一定の社会的手段を通じて、組織的に行うところに存する」である。もう一つは、岡村重男が「全国民が生活者としての主体的社会関係の全体的統一性を保持しながら生活上の要求を充足できるように、生活関連施策を利用、改善するように援助するとともに、生活関連の各制度の関係者に個人の社会関係の全体性を理解させて、施策の変更、新設を援助する固有の共同的行為と制度である」と規定している。その後、一番ヶ瀬康子がその後の社会福祉の展開を反映して、「社会福祉とは現代資本主義の下において、国民の生活(現代的貧困)に対する生活圏保障の制度・政策として個々の生活者あるいは家族、地域社会の生活要求に対して貨幣・現物・サービス機能の分配を即時的に実施あるいは促進する人権保障の社会的実践であって、関連諸政策を代替または補完する機能をもつものであり、社会福祉政策発展の契機は国民の社会福祉要求運動にある」と規定した。三者の概念には大きな違いも見られるが、「ある介在物を通じて、国民一人ひとりの生活を豊かにしていく」、この点に関しては共通概念と捉えていいだろう。
社会福祉の概念を確認したところで、ブログ中の「生活保護費が最低賃金よりも豊かである場合、労働意欲の減退につながる」に関して考えてみる。ここで言う介在物は、「生活保護費」である。一生懸命働いて毎月10万円の給料に対し、生活保護費が50万円であれば、答えは単純だろう。当然、労働意欲の減退につながっていく。現実問題として、このようなことは起こりえないが、生活を豊かにするための「介在物」が、社会的に負の作用をもたらすことに異論はないだろう。もちろん、私もそう考える。
結局、社会福祉とは、国民一人ひとりの生活を豊かにするための「介在物」であって、その「介在物」が、行き過ぎたサービスになってはならないことを共通認識として捉えておく必要がある。資本主義の現代国家に生きる我々にとって、社会福祉の公的(国家的)サービスと、利潤を求める会社の純サービスの区別は、はっきりとしておく必要はあるだろう。
投稿: 方向性 | 2008年1月12日 (土) 18時46分
現代社会において、自分の能力や努力だけで人間の名に値する生活を確保することは極めて困難なことである。例えば、飽食の豊かな社会と称されるこの時代においても、多くの貧困者が存在していることを、私たちはホームレスの問題を通じて知っている。彼らは自ら望んでホームレスになったのだろうか。それとも怠惰であるがゆえに貧困問題に直面しているのであろうか。自分自身は最大の努力を払って自己の責任を果たしていても、会社が倒産し失業したり、就業中に事故や病気に遭遇し、仕事を継続することができなくなり、生活困難に陥り、その結果、家庭生活は崩壊して路頭に迷うことは、簡単に推測できる。私たちの日常生活とは、何があってもおかしくない、非常に不安定な状況に立たされているのが現実である。
今日では、例年、自殺者が年間で3万人を越える深刻な事態に達している。自殺者の年齢は、中高年層が最も多く、職業別で見ると、無職者が圧倒的に多い。無職者の中には、自ら就業することを放棄した人というより、会社の倒産、合理化などによる失業・リストラなどで、個人の意思とは関係なく職場から一方的に追放された人々が多く含まれている。これによって生活苦に陥り、将来の展望を持てず苦悩の果てに精神疾患などを誘発し、ついには自らの生命を絶たなければならなくなった人々が多く含まれている。これらの人々を努力不足とか怠惰、あるいは責任感の欠如などの言葉で簡単に片付けることは出来ない。
一見、安定した生活を送っているように思える私たちの生活は、社会的な何らかの出来事に遭遇すると、いとも簡単に生活基盤が破壊され、予想もしなかった事態に直面することとなる。それは、個人の能力では対応することができない部分に属する問題である。この問題群が私たちの生活を脅かし、人間としての名に値する生活を送ることを阻害しているのである。
こうした問題群は、貧困問題に限らず、子育て・虐待問題、障害者の就労問題、高齢者の介護問題など、私たちの身近なところで発生する生活問題でもあり、これらに対して自己責任や自己努力をどれだけ