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社会国家と連帯 過剰と不足

連帯の間接性 過剰と不足

1.

近代と前近代の差異から連帯という思想を考えてみよう。前近代においてもちろん、連帯という思想は存在していた。ただし、それが様々な共同体内部に限定されていた。連帯は共同体の内部の人間に対して直接的に行使された。逆に言えば、共同体的関係から排除された人間、あるいはそもそもその共同体とは係わりのない人間に対して、連帯の思想が現実化されることはない。

それに対して、近代社会は直接的には国民同士が連帯しない社会である。もちろん、国民全体が共同体であるという擬制を、国民国家が保持している。しかし、直接的に遠い親族(たとえば、祖父の兄弟)、あるいは近隣の老人すらその経済的な連帯を直接的に行使するだけの金銭と時間は個々の国民にはない。その共同体的基盤が欠けている。しかし、この共同体的な直接的連帯が衰退することによって成立した社会国家が、間接的に連帯の思想を具現化する。言わば、間接的連帯が近代の社会国家の原理である。それは、共同体的連帯が衰微した結果の必然である。連帯なくして人間は生きられない。しかし、その連帯は前近代と異なり、直接的ではなく、間接的な緩やかである。

しかし、近代、あるいは後期近代に限定しても共同体的な直接的連帯が皆無になったのではない。直接的連帯も機能を縮小しながら、残存している。家族が消滅したわけでもなく、地域共同体が絶滅したわけでもない。ただし、それが中核的な連帯の場所から撤退したことを意味しているにすぎない。

2.

近代国家は社会国家として現象する。しかし、そのすべてではない。その一つであるにすぎない。自由国家、市場制御国家、資本主義国家等、ほぼ無数に概念規定可能である。本書の根本的欠陥は第一部と第二部を結ぶ結節点的論文が欠けている事である。近代国家は自由を実現するために存立している。その点に関しては、本書第一部、12頁参照。自由の概念と連帯の概念は相補的であり、かつ矛盾的である。

 まず、相補的であるという点に論究してみよう。最低限度の生活を保障するという連帯の思想は、自由を実現するためには最低限度の生活を必要としているからだ。最低限度の物質的生活がなければ、憲法上の自由は絵空事になる。通信の自由を例にとれば、便箋、封筒、切手等が買えない生活であれば、通信の自由はそもそも問題にならない。最低限度の生活を維持することが自由の実現の最低保障になる。普遍的自由は物質的基盤を必要とする。

 しかし、両者は相補的であるだけではなく、矛盾的である。なぜなら、連帯は労働可能な人間が労働不可能な人間、あるいは何らかの理由で完全な労働かできない人間に対する援助であるが、この被援助者と被援助の量的拡大は援助者のそのものの存立基盤を破壊するまで大きくなれば、連帯そのものが成立しない。極端なリバータリアンが社会国家を否定することは有名であるが、連帯者の側の自由を完全に破壊するまでの負担を強いることはできない。労働する人間に対する租税負担と社会保障費負担が、その自由を破壊する程度にまで上昇することはできない。連帯にも限度である。自由を破壊する程度の連帯はできない。

3.

連帯という思想は、最低限度の生活を労働しない人間に対して保障する。つまり、自由が至高の原理であるかぎり、その最低程度に対して制限を加えてゆく。賃金、報酬を例にとれば、年間数億円を稼ぐ人間もいれば、200万円以下の低所得者もいる。人間の労働、活動に対する賃金、報酬に上限はない。なぜなら、上限を設けることは、人間の自由という理念に抵触するからだ。しかし、その下限は設定されている。最低賃金法によって、地域ごとの時給は決定されている。あまりに安い賃金は、労働者の健康を破壊するからだ。もっとも、それは賃金に関する事柄であり、それ以外の報酬に関する制限はない。たとえば、知的障害者施設における「日額1501500円の作業報酬」という事例は珍しいものではない。健全な経済活動を営むための最低限に関する下限を設定することは、必ずしも自由を抑圧することにはならない。

 しかし、連帯の思想を徹底すれば、下限だけではなく、上限も設定すべきであろうか。過剰を公共性の下に従属させるべきであろうか。この問題はたんに自由の原理を侵害するだけではない。むしろ、連帯の思想そのものを破壊する。なぜなら、この過剰こそが連帯、つまり社会国家の基礎にあるからだ。社会において過剰が存在せず、均等に不足していれば、連帯そのものが不可能になる。本邦においても、生存権が保障された終戦直後の状態において、憲法的規定において社会国家が成立していた。しかし、実態的にはそのような規定は意味をなさない。通常の労働者が飢えているときに、社会的連帯は絵に書いた餅でしかない。過剰こそが、社会国家の基礎にある。

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