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「3丁目の夕日」コメント

 11月3日のブログ「3丁目の夕日」に関して、コメントを募集しています。この募集は11月30日です。

 但し、このコメントは12月初旬に一斉に公開されます。それまでは、ブログに反映されません。安心して「3丁目の夕日」コメント欄にコメントを送信してください。

 なお、コメントは500字以上700字未満でお願いします。

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社会国家と国民の媒介ーー協会

 

社会国家の間接性と直接性

社会国家の国民に対する作用形式は、以下の二つに大別される。両者の関係が直接的であるか、間接的であるかである。直接的である関係は明瞭である。何からの困窮状態にある国民が直接的に社会国家から援助を受ける。それに対して、間接的関係は多様である。ここでは、カール・ナウヴェルクの議論を紹介しよう。「ナウヴェルクは労働者個々人の最低限度の生活を直接的に保障しようとしたのではなく、近代における自由競争原理と、結果としての不平等の必然性について洞察していた。したがって、国家および地方自治体が直接的に個人の生計それ自体を援助すべきであると考えられていたのではない。労働者の自立的組織がその媒介項として設定されていた。つまり、「国家が失業者、つまり非自発的失業者を救済する義務を可能なかぎり負う場合・・・国家はまず何をすべきであろうか。国家は個々の非自発的失業者に対して一片の仕事を与えるのではない。むしろ、国家は全労働者の大きな自立的組織の保護者および推進者とみなされることによって、すなわち労働者相互保障の金庫の設立を促進することによって、その労働者全体の自立的組織つまり連帯組織全体に対して配慮を与える」。国家が国民の最低限度の生活を保障する手段は、労働者個人に対する救済ではなく、むしろ労働者によって自主的に結成された自立的組織という媒介を前提にしている」。(本書134頁)

その援助は直接的ではなく、労働者が形成した自律的組織を媒介にしている。国民自身が形成した自助組織が主導的役割を果たす。個別的な国民に対するものではなく、集合的国民に対する援助が中心になっている。さらに、援助が受動的なものではなく、積極的になる。国民自身がその媒介組織を形成している。


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裁判員制度への基礎づけ

裁判員制度

 本邦において、司法過程に対して市民が参加するという制度が、法的に要請されている。この論拠に対する基礎づけの方向は多様である。ここでは、19世紀中葉のドイツの思想家、カール・ナウヴェルクの議論を紹介しよう。「同様の観点から、ナウヴェルクは司法官僚に対する国民による統制という問題を提起する。議会内自由主義者によって提起された司法改革案によれば、自治体の調停裁判所の裁判官は司法官僚からだけではなく、自治体の構成員からも選抜されるべきである。議会内多数派はこの市民参加型の裁判制度を、市民間の民事上の紛争を取り扱う第一審に限定していた。これに対してナウヴェルクは、この市民参加型の裁判制度をすべての裁判、つまり民事、刑事を問わず全審級の裁判に例外なく適用することを求めている。このような提案には市民武装と同様の観点から、国民自身による司法過程への参加という思想が含まれていた。この思想によれば、市民から選抜された参審裁判官の理性的判断が、司法官僚のそれよりも健全であり、より正確に国民精神における法と正義を発見することができるであろう。国民自身による国家への参加が、司法過程にも適用されるべきである。官僚制度は軍事的部門であれ、司法的部門であれ、国民の現実的な生活意識から乖離し、それを抑圧する。国民自身が司法過程に参加することによって、この乖離を減少させることができる。」(本書、128頁)

 この議論は、専門家つまり司法官僚の理性に対する市民的理性の優位を問題にしている。もちろん、知識と経験は司法官僚のほうが、格段にある。本邦において司法試験合格者、つまり法曹への社会的敬意の度合は、並の公務員の比ではない。その給与体系をみれば、数倍の違いがある。しかし、彼らがエリートであるがゆえに、国民の一般的理性から乖離していることは否めない。

 もちろん、本邦におけるこの制度がナウヴェルクの議論に由来しているということはない。おそらく、本法律を作成した根拠は別にある。しかし、カール・ナウヴェルクの議論も結果として、本制度を基礎づけることという観点からは同一である。

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映画「Always 3丁目の夕日」  後期近代の出現と近代の変容

 映画「3丁目の夕日」の第二部が本日(2007年11月3日)、全国公開される。それを論じる前に、第一部を論じることも意味のないことではないであろう。

 この映画は同名の西岸良平の漫画をもとにしている。原作と同様にこの映画の中心点は、万年芥川賞応募者、茶川が、縁もゆかりもない少年をひきとることにある。後期近代において、血縁関係のない少年の生活を支えるという行為はほぼ100パーセントありえない。しかし、前期近代においては、それはまれではあるが、成立可能である。

 また、この映画のもう一つの主人公、鈴木オートの社長もまた、集団就職で上京してきた六さんと、家族同様にくらす。この設定もまた、後期近代においてはありえない。従業員と経営者が家族的関係をもたらすことはほぼありえないからだ。

 このような後期近代においてはあり得ない設定が、少なくとも前期近代の終了目前の1960年前後、昭和30年代にはありえた。この現在ではありえない設定が感動をもたらす伏線になっている。

 このあり得ない設定の本質とは何か。それは共同体的連帯の思想である。家族的関係、つまり血縁関係と性的関係から逸脱する人間を、家族として抱擁する人間的余裕が存在していたことにある。もちろん、生産力の低さ、富の低さ等はこの時代にもあった。しかし、人間が共同体的連帯を抜きにして生きるこはできないとう前提があった。

 しかし、後期近代が出現する1960年代以降、このような連帯の思想はほぼ消滅する。映画の象徴を用いれば、東京タワーが出現することによって、前期近代の連帯思想、それは前近代から継承されたものであったが、この思想がほぼ命脈を絶たれる。すくなくとも、後期近代に生きるわれわれにとって、ほぼ異質な時代である。それが、感動を呼ぶ背景にある。

 

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社会国家と連帯 過剰と不足

連帯の間接性 過剰と不足

1.

近代と前近代の差異から連帯という思想を考えてみよう。前近代においてもちろん、連帯という思想は存在していた。ただし、それが様々な共同体内部に限定されていた。連帯は共同体の内部の人間に対して直接的に行使された。逆に言えば、共同体的関係から排除された人間、あるいはそもそもその共同体とは係わりのない人間に対して、連帯の思想が現実化されることはない。

それに対して、近代社会は直接的には国民同士が連帯しない社会である。もちろん、国民全体が共同体であるという擬制を、国民国家が保持している。しかし、直接的に遠い親族(たとえば、祖父の兄弟)、あるいは近隣の老人すらその経済的な連帯を直接的に行使するだけの金銭と時間は個々の国民にはない。その共同体的基盤が欠けている。しかし、この共同体的な直接的連帯が衰退することによって成立した社会国家が、間接的に連帯の思想を具現化する。言わば、間接的連帯が近代の社会国家の原理である。それは、共同体的連帯が衰微した結果の必然である。連帯なくして人間は生きられない。しかし、その連帯は前近代と異なり、直接的ではなく、間接的な緩やかである。

しかし、近代、あるいは後期近代に限定しても共同体的な直接的連帯が皆無になったのではない。直接的連帯も機能を縮小しながら、残存している。家族が消滅したわけでもなく、地域共同体が絶滅したわけでもない。ただし、それが中核的な連帯の場所から撤退したことを意味しているにすぎない。

2.

近代国家は社会国家として現象する。しかし、そのすべてではない。その一つであるにすぎない。自由国家、市場制御国家、資本主義国家等、ほぼ無数に概念規定可能である。本書の根本的欠陥は第一部と第二部を結ぶ結節点的論文が欠けている事である。近代国家は自由を実現するために存立している。その点に関しては、本書第一部、12頁参照。自由の概念と連帯の概念は相補的であり、かつ矛盾的である。

 まず、相補的であるという点に論究してみよう。最低限度の生活を保障するという連帯の思想は、自由を実現するためには最低限度の生活を必要としているからだ。最低限度の物質的生活がなければ、憲法上の自由は絵空事になる。通信の自由を例にとれば、便箋、封筒、切手等が買えない生活であれば、通信の自由はそもそも問題にならない。最低限度の生活を維持することが自由の実現の最低保障になる。普遍的自由は物質的基盤を必要とする。

 しかし、両者は相補的であるだけではなく、矛盾的である。なぜなら、連帯は労働可能な人間が労働不可能な人間、あるいは何らかの理由で完全な労働かできない人間に対する援助であるが、この被援助者と被援助の量的拡大は援助者のそのものの存立基盤を破壊するまで大きくなれば、連帯そのものが成立しない。極端なリバータリアンが社会国家を否定することは有名であるが、連帯者の側の自由を完全に破壊するまでの負担を強いることはできない。労働する人間に対する租税負担と社会保障費負担が、その自由を破壊する程度にまで上昇することはできない。連帯にも限度である。自由を破壊する程度の連帯はできない。

3.

連帯という思想は、最低限度の生活を労働しない人間に対して保障する。つまり、自由が至高の原理であるかぎり、その最低程度に対して制限を加えてゆく。賃金、報酬を例にとれば、年間数億円を稼ぐ人間もいれば、200万円以下の低所得者もいる。人間の労働、活動に対する賃金、報酬に上限はない。なぜなら、上限を設けることは、人間の自由という理念に抵触するからだ。しかし、その下限は設定されている。最低賃金法によって、地域ごとの時給は決定されている。あまりに安い賃金は、労働者の健康を破壊するからだ。もっとも、それは賃金に関する事柄であり、それ以外の報酬に関する制限はない。たとえば、知的障害者施設における「日額1501500円の作業報酬」という事例は珍しいものではない。健全な経済活動を営むための最低限に関する下限を設定することは、必ずしも自由を抑圧することにはならない。

 しかし、連帯の思想を徹底すれば、下限だけではなく、上限も設定すべきであろうか。過剰を公共性の下に従属させるべきであろうか。この問題はたんに自由の原理を侵害するだけではない。むしろ、連帯の思想そのものを破壊する。なぜなら、この過剰こそが連帯、つまり社会国家の基礎にあるからだ。社会において過剰が存在せず、均等に不足していれば、連帯そのものが不可能になる。本邦においても、生存権が保障された終戦直後の状態において、憲法的規定において社会国家が成立していた。しかし、実態的にはそのような規定は意味をなさない。通常の労働者が飢えているときに、社会的連帯は絵に書いた餅でしかない。過剰こそが、社会国家の基礎にある。

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