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映画「Always 3丁目の夕日」  後期近代の出現と近代の変容

 映画「3丁目の夕日」の第二部が本日(2007年11月3日)、全国公開される。それを論じる前に、第一部を論じることも意味のないことではないであろう。

 この映画は同名の西岸良平の漫画をもとにしている。原作と同様にこの映画の中心点は、万年芥川賞応募者、茶川が、縁もゆかりもない少年をひきとることにある。後期近代において、血縁関係のない少年の生活を支えるという行為はほぼ100パーセントありえない。しかし、前期近代においては、それはまれではあるが、成立可能である。

 また、この映画のもう一つの主人公、鈴木オートの社長もまた、集団就職で上京してきた六さんと、家族同様にくらす。この設定もまた、後期近代においてはありえない。従業員と経営者が家族的関係をもたらすことはほぼありえないからだ。

 このような後期近代においてはあり得ない設定が、少なくとも前期近代の終了目前の1960年前後、昭和30年代にはありえた。この現在ではありえない設定が感動をもたらす伏線になっている。

 このあり得ない設定の本質とは何か。それは共同体的連帯の思想である。家族的関係、つまり血縁関係と性的関係から逸脱する人間を、家族として抱擁する人間的余裕が存在していたことにある。もちろん、生産力の低さ、富の低さ等はこの時代にもあった。しかし、人間が共同体的連帯を抜きにして生きるこはできないとう前提があった。

 しかし、後期近代が出現する1960年代以降、このような連帯の思想はほぼ消滅する。映画の象徴を用いれば、東京タワーが出現することによって、前期近代の連帯思想、それは前近代から継承されたものであったが、この思想がほぼ命脈を絶たれる。すくなくとも、後期近代に生きるわれわれにとって、ほぼ異質な時代である。それが、感動を呼ぶ背景にある。

 

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