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国民的同一性とプロレタリアート

国民的同一性とプロレタリアート

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 国民国家において、国家市民としての共同性が生じる。それは、「我々」という意識である。その意識は様々な水準において構成される。同一の法規範に従うこと、最低限度の生活と何かについて、共同的意識を所有すること等様々である。たとえば、同じ法規範を共有することは、必ずしもその規範に従うことを意味するのではない。しかし、その規範に従わない場合でも、その規範が存在し、その規範から逸脱しているという意識を有していることである。たとえば、売春をしてはならないとか、大麻(マリファナ)を吸引してはならないという規範を持っていることである。これは、現代日本の法規範に従うかぎり、悪であるが、別の国家、たとえばオランダの法規範に従うかぎり、問題はない。

 最低限度の生活(日本国憲法第25条)も、また国民的共同性の水準においてしか構成されえない。国民的同一性が存在しない限り、最低限度の生活という概念も成立しえない。

2.

 プロレタリアートとは、近代において大量に発生した労働者の一形式である。通説として、プロレタリアートは工場労働者として訳されている。しかし、その雇用形式は現在の社会国家における一般的な工場労働者、あるいは労働者とは、異なる。それは山谷(東京)、釜ヶ崎(大阪)等に住む日雇労働者にかぎりなく近接している。現代日本風に翻訳すれば、非正規小規模工場労働者であろう。しかし、問題を複雑にしているのは、彼らは必ずしも「労働者」であることを保証された存在ではないことである。明日、労働現場を見出すことができるか否かは、資本家の意思と経済状況に依存している。

この国民的共同体の周辺にいるプロレタリアートをいかに社会統合の対象にしてゆくかが、ドイツ三月前期の課題であった。この課題は19世紀から20世紀初頭に至る初期近代における政治的、社会的課題であった。このプロレタリアートという社会的存在形式は、古代社会における奴隷に近い状態であった(初期近代日本を例にとれば、この事態は『ああ、野麦峠』等によって描写されている)。この労働者を社会内統合の対象にするのか、あるいはその外部化を目的にし、社会変革の主体にすべきであるか否かが、問われていた。もちろん、ナウヴェルクは前者を志向しており、その途は社会国家への途であった。

 後期近代において社会国家が制度化されることに、この論争に終止符が打たれる。プロレタリアートを社会内統合することによって、プロレタリアートを社会変革の主体にしようとする運動の基盤が破壊されることである。これを社会変革の主体、つまり個別化された大衆としての塊を階級に形成するためには、初期近代特有の精神的基盤が前提にされていた。それは、このプロレタリアートが個別的な利益を追求する主体でなく、共同的な利益を追求する主体として構成されていなければならなかった。

 個々人の利益ではなく、共同的利益のために闘争することが前提にされていた。しかし、社会国家はこの基盤そのものを破壊する。社会国家がその価値をしたことは、国民の生命と財産の保護という極めて個人主義的な思想的基盤を拡大したからである。社会国家の目的は、個々人の生活の向上であった。個々人の生活が向上することによって、この共同性への指向が破壊される。社会国家が制度化されたことにより、個々人は初期近代における大衆へと逆転する。

 ニートはこの個人主義化された大衆の上に咲いたあだ花である。もちろん、社会国家がこれを推し進めた。

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