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近代の抽象的人間あるいは抽象性

 

具体的人間は、様々な差異を持っている。性、収入、年齢、遺伝子等すべての観点から、同一の人間は存在しない。にもかかわらず、なぜ抽象的人間という範疇を設定できるのか。近代はなぜ抽象的人間という概念を設定したのか。自由という概念を設定可能であるためには、抽象的人間という概念を設定できなければならない。差異を持った具体的人間を同一の自由な主体として取り扱うことができる。この抽象性は近代を特徴づけている。貨幣もまたすべての使用価値を捨象した抽象的概念である。また、近代的実体も前近代的な具体的実体概念を捨象した抽象的概念として設定されている。近代は具体性を捨象しようとする傾向がある。

この抽象的人間という概念は、前近代社会においても神の前の平等な主体として設定されていた。しかし、近代において人間共同体における抽象的人間は、神ということを前提にしない。自然的存在、自然的衝動を持った人間との対比において抽象的人間という概念が設定される。この抽象的人間という構成原理が、自由、平等、連帯という近代を規定する思想を形成した。たとえば、隣の具体的人間が困窮していたとしても、全ての隣人がその困窮している人間に対して、連帯の精神を発揮しようとは考えない。しかし、その具体性を捨象した抽象的人間として連帯であれば、たとえば生活保護という制度を媒介にして事実上していることになる。

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» 現代と神道 ~特別編その1~ [田舎の神主の学び舎 ]
暫くぶりの更新になってしまいました。 本当に有難いことではあるのですが、余りの忙 [続きを読む]

受信: 2007年6月25日 (月) 13時37分

コメント

具体的人間は、性、年齢、能力、美、民族などの属性を持っている人間で、抽象的な人間は部分的には中世神聖世界でイスラム教やキリスト教など神の前の平等であった。自由な諸主体、平等な諸主体としての同一性がある。自分が生まれた年、性は消すことができない事実でもある。生活保護だけではなく、もっと身近なものでいえば募金活動もいえるのではないか。具体的人間として援助する相手は見えないが募金活動をしている団体に寄付する。援助を受ける側からは抽象的な人間として存在する。具体的な人間として認識されるよりも、抽象的な人間であるほうが救いの手を差し伸べやすいように思う。

投稿: 日本人 | 2007年7月 4日 (水) 20時50分

具体的とはおおよそ目に見えることで、抽象的はおおよそ目に見えないことだと思う。
人間の定義として存在するものは全て具体的なもので、人間の実体が前提となっている。人間が自由で平等な世界を目指したとき、重要なのは具体的人間よりむしろ抽象的人間の概念だと思う。
これは私の解釈であるが、「私たちは異なった1つの個人である」という見方が具体的実体を示す人間の概念であり、「私たちは自由で平等であるべき同じ人間だ」という見方こそ抽象的人間の概念であると思う。

投稿: 次課長 | 2007年7月 4日 (水) 13時49分

 具体的人間と抽象的人間、戦後から現代の日本人という視点から見れば、彼らは具体性を捨て抽象性を取り入れようとしている気がする。他の人と違う考え・行動・容姿というものを日本人はとりわけ嫌ってきた。流行に後れないよう、周りから外れないよう生きていた。それは日本経済の主たる特徴である終身雇用の慣例化や年功序列だとかいう言葉を生み出してきた要因だといえ、またそのことが他国からのエコノミックアニマルだとか機械人間とかいう批判を生み出してきたのではないだろうか。
 しかしながら現代の若者は少し違ってきている気がする。「人と違うことがしたい」「自分は他の人とは違う」という考えを現代の若者は持っている。「個性」という言葉が今頻繁に使われるが、これはその現れではないだろうか。今後日本にとってそれが吉と出るのか凶と出るのか気になるところである。

投稿: 豚牛鳥 | 2007年7月 4日 (水) 12時29分

具体的人間、抽象的人間
具体的人間とは、性別、容姿、収入その他のいろいろな要素においてまったく同一な人間はいないということである。抽象的人間とはそれらの具体的な要素を取り除いた、あるがままの人間の姿を捉えたものである。したがって、抽象的人間の概念においては、人間は区別されず、どんな人間も人間として定義されるのである。そう考えると、抽象的に人間を考えたときに、人間を平等な立場としてみることができると思った。

投稿: 字一色 | 2007年7月 4日 (水) 11時22分

抽象的人間と具体的人間
 抽象的人間とは、性別、思想、職業、性格などのさまざまな性質によってグループ化された人間のことだと思う。日本人には抽象的人間が多い。他人の意見に流されやすく、自分の確固とした考え方がないのだ。一方で具体性とは、個人の差異に焦点を当てているため、みんな違ってみんないい、という考え方である。よって具体性の強い国では個性が重視される。アメリカなどが当てはまるだろう。
 戦後の日本は、抽象的人間の形成、すなわち国民が平等であることを大切にしてきた。しかし、近年では具体的人間の形成も大事であるという考え方も強まってきた。つまり、個性を大切にし育てる教育が学校でされるようになったのだ。
 日本人には抽象的人間が多いということは、和を大切にするということでもある。よって抽象性と具体性それぞれにメリットがあるので、極端にどちらかを重視するべきではない、とわたしは考える。

投稿: 特攻服 | 2007年7月 4日 (水) 00時33分

人間を具体的に見てみると、みんなが一人ひとり違い、同一の人間は存在しないと言える。
抽象的に見てみると、個人がそれぞれ持つ人間の性質を取り除き、あるがままの存在として捉えたものであると言える。
抽象的な人間は具体的人間より人間らしいと思う。抽象的人間を設定することにより、自由・平等も形成されていくのではないか。
自由という概念が設定され抽象的人間が設定されてよかったと思う。

投稿: 熊本県 | 2007年7月 3日 (火) 11時27分

 具体的人間とは誰一人同一の人がいない、という教授の言葉はまさしくその通りであると思う。この具体的人間というのを廃してしまえば、一緒のような人物が増え、今の年金問題のようにどれがどの人なのかわからなくなってしまうと思う。
 一方の抽象的人間とはブログにも書いてあったように貨幣も捨象して商品価値を無くしている。ただ抽象的人間という概念がどこか頭の中になければ、この現代を生きていけないと思う。個々一人一人が「抽象的人間」という概念を設定し、うまく自分の中で割り来ることができれば、近代において自由に生きていける。

投稿: 大三元 | 2007年7月 3日 (火) 11時18分

 具体的人間とは性別、年齢の違い、国籍、人種の違い、いわゆる個人を特定しうる様な特徴を持つ人間のことであると整理することができる。それに対し、抽象的人間とは、具体性を全て排除した人間のことであると理解することができる。この抽象的人間というものの存在が私には理解し難い。もちろん考え方としては、理解することができる。しかし、実際に存在するのだろうか。
 無差別平等をうたった生活保護制度は、本当に無差別平等だろうか。生活保護制度は憲法25条に規定されている生存権を理念とし、制定されたものである。しかしそれは本当に無差別平等であるのだろうか。理念としては確かに無差別平等とうたっている。だが、実際のソーシャルワーク活動の困難さや、受給者のスティグマ、漏給率の低さなどを考えると、無差別平等に与えられているとは考え難い。私は、物事を無差別平等に行うということは非常に難しいことなのではないだろうかと感じた。理念だけでなく、実際に無差別平等に行われていることは、私の経験上では、存在し得なかった。どんな場面であっても、差別や区別は存在したように思う。そうであるとするならば、抽象的人間というものそのものが、存在しえないのではないだろうかと感じた。
 自由という概念を求めて、抽象的という概念が生まれる。しかし、抽象的という概念のとに成り立つ、真の平等や自由は手にし難い。私たちが普段、自由だと感じていたものはもしかしたら、自由という概念ではないのかもしれないということを強く感じさせられた。

投稿: 花粉症 | 2007年7月 1日 (日) 13時10分

抽象的な人間と具体的な人間
 まず具体的な人間について私の考えを言いたい。具体的な人間とはまさに個人そのものを指すと考えます。つまり、性別、性格、肌の色、収入といった様々な差異が確認できる。同一な存在はないということである。さらに思考の立場で考えれば、そこには自我が存在する、社会から離された自我の中では主観的な考えを無限に構築することができる。
 一方で抽象的な人間とは、万人において共通の性質を持っている概念である。現実の共同世界において言語を操れる、学習能力がある、身体を使う運動ができることなどがあげられる。さらに個として最小の公的単位として規定もできる。年金台帳に書かれている名前は抽象的な自分という人間なのである。さらに言えば、交通事故死○○人と書かれた新聞紙の○○人も具体的ではなく抽象的な人間である。そこには人間が死んだということしか解らないからである。こうも考えられないか、抽象的な人間は実体がない、故にあらゆる創造的な人間を創造でき、そのイメージを共有することも可能である。これは具体的な人間にはできないことであると考える。

投稿: 魔大陸 | 2007年6月29日 (金) 11時32分

人間とは、性、収入、年齢、遺伝子などの様々な差異があってこそ成立すると思います。なので、一般的に「人間」と定義されているものは、具体的人間のことであると思います。
抽象的人間は、具体的人間が定義されてから、今のような概念を持ったのであると思います。

投稿: 宮前町 | 2007年6月28日 (木) 14時04分

 抽象的人間というものを位置づけるには、以下の理由があるといえるでしょう。
 本来、人間は、性、収入、年齢、遺伝子など、さまざまな違いがあります。しかし、自由を平等に与えるためには、人間が抽象的人間として存在していなければなりません。平等な自由を与えるためには、まず、人間が平等でなければならないからです。
 現代の社会では、抽象的人間は、事実、存在していませんが、抽象的人間という言葉でくくってしまえば、あとは自由を多少の誤差はありつつも平等として扱えば、抽象的人間の存在は確立されます。その例として、生活保護が挙げられます。


投稿: 丘珠高 | 2007年6月28日 (木) 01時26分

抽象的人間とはどのような経緯を経てつくり出された概念なのだろうか。抽象的という言葉の対である具体的という言葉は、形や姿を備えていることである。つまり抽象的とは形や姿を備えていないものということができるのだが、これを人間に当てはめることで、人間が生きるうえで様々なことが可能となったり制限が課されたりする。法律や生活保護などがそれであり、それらは人間が社会性を持った生き物という前提で、社会生活を営むために必要なことである。

投稿: 湯豆腐 | 2007年6月28日 (木) 00時01分

「近代は具体性を捨象しようとする傾向がある」とあるが、特に日本人はこの傾向が強いように思われる。日本では具体的な考えも持った人々(個性の強い人、自己主張の強い人)は浮いた存在として扱われやすい。しかし、大衆と同じように考え、行動する抽象的な人間は社会に溶け込む。このような社会であるために、日本は「近代は具体性を捨象しようとする傾向がある」のだと考える。
具体的な人は平等には扱いにくく、平等に扱うのであれば抽象的な人間の方がいいのかもしれない。しかし具体的な人間と抽象的な人間、どちらもTPOに応じて概念が変わってくるものだと思うので、どちらがどのようにいいとは言い切れないものだと考える。

投稿: | 2007年6月27日 (水) 23時40分

抽象的と具体的とは全く反対の言葉である。しかし人間というものを対象にこのふたつを見てみると反対を意味するというより違う観点から見るという風に言い換えられるように思う。性別や年齢、収入などといった目に見えて分かるものは具体的であり、自由や平等といった判断基準が曖昧で目には見えないようなものが抽象的である。
これだけ自由だ!平等だ!と叫ばれている世の中で抽象性、抽象的人間というのは大変重要になってくると思う。しかし自分のやりたい事を勝手気ままにやっていいとか、一から十まで同じ事をやっていいというわけではない。平等や自由というのは神から与えられるチャンスのようなものだと私は考えている。気づいてないだけでチャンスは誰にでも平等に与えられ、そのチャンスを色々な形で生かしていけるから自由なのだと思う。

投稿: 五戸町 | 2007年6月27日 (水) 23時09分

具体的人間は言葉の通り、性、収入、年齢、遺伝子などその他様々な観点で違いがあり、一人一人の個性が重要になってくると考える。多少顔つきが似てたりするのはあるが、自分と全く同じ人間は世界中探してもいない。この概念ははっきりとした違いがあるので分かりやすい。
だからこそ抽象的人間という概念はとてもあいまいなように聞こえる。しかし、近代社会においてこの概念が形成されたことによって、自由または平等といった概念が生まれた。現代では、自由や平等の考え方の方が多く用いられ、生活保護など様々な制度からも見受けられる。抽象的人間は具体的人間とは違い、固定概念に捉われない。そう考えれば具体的人間を際立たせるもう一つの人間の在り方なのかもしれない。つまり、抽象的人間があるからこそ今の世の中が成り立っていると私は考える。

投稿: 青森娘 | 2007年6月27日 (水) 21時38分

まず抽象化というのはどういうことなのだろうか。そのことを考えるために、まず、自己主張というのは自分以外のシステムにたいして何かを何かを主張するものではないということを思いだしていただきたいです。自己主張というものは単に内的状態を表現している、いってみれば勝手に騒いでいるだけのことです。それが他のシステムとの間にどのような相互作用をもたらすかはまったくもって他のシステムがそれをどう受け止めるかにかかっているのです。また個人の名前をあげるのならばそれは「具体化」になります。しかしその個人個人を一つの「人間」というくくりにして考えるのならば、それは「抽象化」となります。抽象化することによって個人を「人間」ととらえることによって、人間を一般化し、法律や憲法の設定ができると思います。

投稿: 八ヵ月 | 2007年6月27日 (水) 18時58分

抽象的人間と具体的人間の違いについて、私は人間の見方の違いだと考える。前者は「大衆(社会を形成する国民)」、後者は「個人」である。
前近代には身分制社会であったことから、政治体制においても具体的人間の概念が先行していたといえる。生まれもった人種、身分、性別といった個人の違いによって人々は区別・制限され、それによって社会が構成されていた。
その後近代化を目指す、つまり人々が自由や平等を目指す風潮が起こったことにより、抽象的人間という概念が生まれたことは当然のことなのかもしれない。具体的人間の概念に基づく政治体制では、社会が上手に機能していたとしても、結果的には個人の「差」というものが表面化してしまうからである。人々はその差に不便さ・不自由さを感じるのであろう。そうした具体的人間の概念から生まれる制限から脱却するために生まれたのが抽象的人間の概念である。よって大衆が考える自由とは、人々との間に差別や制限が生まれないこと、つまり平等であることだったのであろう。そのためには、一人一人を「国民」という一括りとして考えて社会を構成し、その「国民」の求めるものに向けて効率よく機能する政治が必要なのだと考える。
現代社会は、議員が国民の代表として国会において方針を決定し、少なくとも政策といった公的な面では、人々の自由・平等といったものが強調されている。最近では格差社会といわれ、それが疑わしくなってもいる。
しかし個人のレベルで考えてみると、就職の問題など自由ばかりではなくむしろ制限されていると感じることが多い。それはやはり一人一人が具体的人間であり、決して抽象的に捉えることのできない存在であるということである。
抽象的に考えるだけでは個人の尊厳という考えは薄れてしまうような気がする。やはり社会全体を考える上では、具体的人間・抽象的人間両方の概念を常に持ち合わせることが必要だと思う。

投稿: 花園町 | 2007年6月27日 (水) 18時21分

同一の人間は存在しない。にもかかわらず、なぜ抽象的人間という範疇を設定できるのか。という問に対しては、逆に考えてみることができる。
例えば、最近のこの国ではよく『個性』『自分らしさ』という言葉をよく耳にする。これを具体的人間の対象の一部とするのであれば、そこには自然と抽象的人間像というものが必要となってくるだろう。なぜなら、比較対照である抽象的人間像が存在しなければ、元々個性や自分らしさというものは存在しないということになるからだ。
それでは抽象的とはどうゆうことだろうか。上記の考え方でいけば、人間像は個性がない、自分らしさが無い、ということになる。つまり、平均値と考えることができる。その抽象的イメージが、貧しいと感じられているアフリカの国々には募金などの援助を、また、体が不自由と感じられている人々に対しては、公的扶助などのサポートがある。つまり、近年の思想は、抽象的イメージを政策や考えの対象として、参考にし、一方で個性などの具体性を評価の対象としているように思える。

投稿: 一本場 | 2007年6月27日 (水) 17時39分

具体的人間は、個人である前に男性であったり、貴族であったり、農民だったり身分や役割にとらわれた人間のことです。人間の生き方は、男性としてや、貴族としてあらわれ、個人といった生き方はなかった。だから、誰にとっても正しい生き方いったものは存在せず、貴族的な生き方と農民的な生き方は、異なったものだったと思う。
しかし近代ではその具体的な人間性を貫いて抽象的な人間性が生まれてきました。
この抽象的な人間性は、個人=一般の人間を指しています。 そこですべての人間に普遍的な概念として人権ができたのではないだろうか。
これらは現代の個人の結びつきが薄れてきたことに原因を感じました。

投稿: 排球部 | 2007年6月27日 (水) 16時35分

抽象的人間を理解するのはとても難しいと思いました。しかし、人間は物事を考えるとき、抽象的な思考や表現をすることがあります。人間から抽象性を無くすとバランスが悪いことになると思います。
抽象的人間という概念によって成り立つものもあると思いますが、そればかりでは思想だけで経験のない、危険なことになると思います。

投稿: 山羊恵 | 2007年6月27日 (水) 14時51分

 まず具体的とは、「はっきりとした実体を備えているさま」。抽象的とは、「いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま」と辞書にある。つまり、具体的人間とは、性別や外見的特徴で人間を捉えている。そこで、抽象的人間とは何かというと、性別や外見的特徴などを考えずに人間を捉えることだろう。例えば憲法で、日本国民はみな法の下に平等だ、とうたっている。これは、国民を抽象的に捉えて存在していることだ。もし前近代のように国民を出生や性別、収入のように具体的に捉えるならば、平等ということはないだろう。先生も挙げたように、抽象的人間を前提として自由や平等という概念が成立するのだろう。近代のいくつかの国家は、人間を抽象的に捉えることで平等や自由を唱えている。しかし、人間は人それぞれ違う。具体性により制限を受けることもしばしばある。それゆえに最近、人間の個性を重視しようとする動きが出てきているのだろう。
 つまり抽象的人間とは、自由、平等な国家を目指す上で設定されているものだと考える。もし、自由や平等ということを掲げないならば、格差社会も問題の無い話になるだろう。

投稿: 北の湖 | 2007年6月27日 (水) 14時50分

田村教授は以前講義中に「自由を超える概念はなかなか存在しない」と、話された。その近代における強い概念は、人を抽象的人間としてとらえなければ存在し言えないものだという。確かに、個々の性別、生まれた環境など様々な要因によってそれらは制限され、現実的な人間の世界と照らし合わせると人間は自由であるとは言い難い。具体的人間という人間の捉え方では人は完全な自由にはなれないだろう。
では、なぜこの現代社会では実際には抽象的人間を前提とした自由などないにもかかわらず、抽象的人間と具体的人間のかい離した自由を受け入れているのだろうか。
その理由一つとして、人々はすでに抽象的人間がもつような自由を求める必要を失ってしまったからといえるのではないだろうか。例えば、日本で明治維新以前の前近代を考えてみると、その社会では明らかな身分制が広がっていた。個々の具体的人間によって自由の制限は大幅に違っており、平民間にも身分制度がとられていた。そして、それらは公に認められている覆すことのできないものであった。これに対し、現代の日本では家柄身分制は天皇など一部に残るのみとなり、公では抽象的人間の平等、自由が前提となった社会が作られている。これによって、たとえ個々が具体的人間であるということに変わりはなくとも、「自由のようなもの」を手に入れることができた。与えられる自由の範囲がかなり広まったのである。つまり、ある程度のことであれば具体的人間のもつ制限された自由でも行うことができるようになり、さらに、それらは公には認められている権利であり堂々と主張することができる。これらの変化によって抽象的人間であることが実質的にできなくとも、人々はそれを受け入れ生活することができるのではないだろうか。

投稿: 小豆色 | 2007年6月27日 (水) 14時41分

「具体的」人間という概念が、「抽象的」人間という概念を生んだと思います。具体的という例はいくつも挙げることができますが、抽象的となるとそうはいきません。だからこそ、「抽象的」という概念はそれ自体が自然に振ってわいたものではなく、「具体的」という考えに相反する形として誕生したのではないかと考えます。
具体的人間とは、ある人間をその人の名称以外で簡単に表せるような人間だと考えます。だから、世の中の多くの人が「具体的」人間となるような社会が理想なのではないでしょうか。

投稿: 社文情 | 2007年6月27日 (水) 14時18分

具体的人間とは人間の個体の差異に焦点をあて、あくまでも単一で捉えるもので、抽象的人間とは人間を全て一般化したうえで形式でくくる概念のことだと考える。
自由、平等の概念を設定する場合に抽象的人間の概念を設定しなければならないのは理解できる。自由や平等はまず共通したモノに対して与えられて意味をなすと考えられるからだ。しかし「近代は具体性が捨象される傾向がある」というのはどうだろうか。近代は抽象的人間の概念の設定なくしては成立しないし、社会の形成や制度は具体的人間にではなく抽象的人間に焦点を合わせている。これだけみれば具体性は近代にそぐわないと考えられる。しかし具体的であるからこそ自由や平等を求め抽象性を必要としたのではないだろうか。具体性を捨象してしまったならばそもそも何のために近代において抽象性を必要としてきたのかがわからない。具体性も抽象性の両方がなければ社会は成立しないのではないだろうか。

投稿: 出世魚 | 2007年6月27日 (水) 13時21分

我々が住むこの地球に存在する人間を大きく二つに分けると具体的人間と抽象的人間に区別することができる。この二種類の人間の間には大きな相違が存在する。まず具体的人間というのは、あらゆる性質・観点からして、全くの同一の人物が存在しない。つまり、人間というのは一人一人全く違った個性や素質を持っている以上はそのようなことは決して有り得ないことなのである。それに対して抽象的人間というのは、近代社会で成立した概念であり、そこに自由という概念が成立したときに初めて生まれてくる概念のことなのである。よく田村先生は講義において、「自由という概念を超えるものは他にない」というようなことを述べられておりますが、その自由が存在する社会が形成される以前はどのような社会が成り立っていたのだろうか?具体的人間のみが存在する世界とはいかなるものだったのか?ただ、一つだけ言えるのは、そこには間違いなく差別が存在しており、そして困惑した世界であったということである。
自由という概念がこの世に誕生したことにより、自然的に生まれた抽象的人間。現代を生きる我々に少しか当てはまる概念であるので、少し興味深いものを感じました。

投稿: 潮見中 | 2007年6月27日 (水) 07時16分

 我々は普段人を見るとき、具体的属性とくに性別や年齢、能力や家柄などで相手を判断する。だが自由、平等、連帯がうたわれている近代社会にとってそれらの属性にとらわれず誰もが自由を享受できる存在として人間を画一的に見る視点が必要になってくる。そこで抽象的人間が重要視されるようになってきたのだろう。人は一人で生きることができない。現代社会は切っても切れない人間関係でつながっている。円滑な社会生活を営むため、また公助、共助が必要とされる福祉社会において市民の相互的な働きかけをするために抽象的人間の原理の必要性がますます大きくなるに違い

投稿: 黒騎士 | 2007年6月27日 (水) 05時56分

抽象的な人間の反意語としての、具体的な人間があるがこの双方の違いがなんなのかが理解しがたい。抽象が物事の要素・側面・性質を抜き出して把握すること、具体的全体から一般的性質を持つ部分把握することとあるが、その物事を構成する一般的要素自体が物事を指し示す具体的なものになるのではないかと思ってしい、この違いが理解しがたいがために何故、抽象的人間が設定されることにより自由という概念が設定されるのかが考えにくい。
個人名をあげた時はその人物を具体的に表していることになるが、離れてみてみるとそれは名前を持った唯の人間である。と考えることが人間の抽象化なのだろうか。それならば抽象化というのは、個人と他人とが持つ情報を照らし合わせて見て同上のものや類似性のあるものをカテゴライズしていくことだろう。
そうすれば、抽象化が定義する要素の
組み合わせは無限に存在することとなり、この抽象化による要素の組み合わせと少量の、例えば名前などの個人が混ざり合ったものが具体的な人間と定義することができるのだろう。
裏を返せば抽象的人間は具体的な人間であり、具体的な人間は抽象的な人間であると考えられる。教授がおっしゃたように、抽象的人間であることで与えられる自由というのあるのなばそれはおのおのがその自由を行使できるような要素を持っていることが前提である。だから自由には様々な制限が付いているといっても過言ではなく、その用に考えると本当の自由などこの世には存在しないと改めて思い知らされる。

投稿: 琴丘町 | 2007年6月27日 (水) 04時00分

抽象的人間というのは私自身ここで初めて聞いた言葉であるが、抽象という言葉を聞いて連想するものが美術やそれの物である。抽象美術というものはとてもわかりづらい。だからこそそこからわれわれ個人が感じるものを自分なりに解釈するものであると思う。
 抽象的人間もそれに近いものがあると思う。具体的人間は見たり話したりしているだけですべてが分かる人間でとても実際的である。それに対し抽象的人間は人間の固定の解釈にとらわれることなく、様々に形を変えていく人間である。それはとても興味深いことでそれが人間の本質の部分であるとも思う。やはり抽象的人間という概念があるからこそ、人々は十人十色であり、全く一緒の人間はいないのである。

投稿: 目玉焼 | 2007年6月27日 (水) 02時21分

具体的人間とは性、収入、年齢、遺伝子等に違いが見られ、一人ひとりを確かに区別することができる概念である。それぞれが様々な差異を持ち、それらは決して同一ではない。
それに対して抽象的人間という概念はその差異を持った具体的人間を同一のものとして取り扱うことである。
隣人が困窮していたとしても、全ての隣人がその困窮している人間に対して、連帯の精神を発揮しようとは考えないが、その具体性を捨象し抽象的人間として考えるなら、事実上なんらかの形で連帯の精神を発揮していることになる。そしてそれは社会が理想としているであろう「平等」に近づくことになる。
つまり、抽象的人間は人との繋がりが弱い現代において、具体的人間よりも必要な概念であると私は思う。

投稿: 爽求部 | 2007年6月27日 (水) 01時20分

 具体的人間というのは、必ず性別や収入など何かしらのジャンルに属している人間のことである。そう考えると抽象的人間というのは具体的人間の逆の意味であるから、どんなジャンルにも属さない人間のことをいうのだろうと思う。
 近代はなぜ抽象的人間という概念を設定したのかなどの専門的なことはまったくわからないが、やはり教授が言うように、この概念があるおかげで自由や平等という概念が生まれてきたのだと思う。
 現代では抽象的人間に対する活動が多いと思う。紛争地区への支援はまさに抽象的人間に対する活動の最たるものである。私たちが抽象的な人たちに対して今以上に関心を持ち、手を差し伸べることにより、自由な諸主体、平等な諸主体が多くなっていくはずである。

投稿: 法隆寺 | 2007年6月27日 (水) 00時47分

具体的人間と抽象的人間だがまず具体的人間について考える。具体的人間とは、先生の言葉を借りると、性、収入、年齢、遺伝子等すべての観点から、同一の人間は存在しない。逆に抽象的人間とはこれらの具体的制約を排除したあるがままの存在と捉えている。私たちは自分自身を一人の具体的人間と考えられるが、同時に人間という一つのくくりで言い表すこともできる。現代の社会では、具体的制約で区別されることが主である。確かに自分自身の個性をいかさなければ社会を生きていけない。しかしこの具体的人間としての立場だけでは、この社会は成り立たない。例えば、隣の具体的人間が困窮していたとしても、すべての人間が助けることはないと思う。しかし具体性を捨象した抽象的立場なら生活保護という制度を媒介として連帯の精神を発揮することができる。また、募金や年金制度なども抽象的人間の連帯といえる。このように抽象的立場があることで、いろんな形で人々の助けになることができる。自分はこの具体的人間の立場と抽象的人間の立場の二つが存在することによって社会は成り立つことができると思う。

投稿: 髭剃剃 | 2007年6月27日 (水) 00時45分

具体的人間とは名前を持つ、性質を持ったある人間のことであり、抽象的人間とは個別に特定されない「人間」という概念自体をあらわすのだと思う。近代では、社会構造の複雑化、多様化、規模の拡大などに伴い、人を具体的人間として捉えるのではなく、抽象的人間という概念として捉えることによってさまざまなサービスや仕組みが機能をはたすことができるようになっているのではないかと考える。遠くに住んでいるとか貧富の差、年齢、性別などの具体的な事柄を取り去った、抽象的人間という概念にすることで自由・平等・連帯を達成できるのである。

投稿: 風間浦 | 2007年6月27日 (水) 00時39分

 人間は、皆違いがありいろいろな特徴をもっている。これは当たり前の話だ。同じ人間がいるなんてありえない。クローンが作られない限りは。だが、自分とおなじ人間を見たいと思うだろうか。いや思わないであろう。
 近代になり、抽象的人間の概念が設定され、自由、平等、連帯という思想が形成された。これらが形成されたことにより現代の私たちがあるのではないのだろうか。私は現代と近代は時代は違っても考え方が非常に似ているのではないのかと思う。特に、自由という概念において抽象的人間が設定されたことに一番の意義があるのではないのだろうか。
 そして、私は現代の人間は、どちらかというと抽象的人間に近いのではないかと考える。理由は先ほども述べたが近代において自由、平等、連帯の思想が形成されたことと、神を前提にしていないからだ。
 これは私の考えだが、日本を例にして用いると、明治時代や大正時代、戦争が終わるまでは日本人は抽象的人間ではないような気がする。なぜなら、明治憲法にはたしか神が存在すると書かれていたような気がしたからだ。また、アメリカや欧州の人々はこの考えを否定している。これはあくまでも私の考えなので間違っているかもしれない。
 このように、抽象的人間の概念が近代より設定されたことにより自由などの思想が形成され現代につながっている。なので私は自由という概念が設定され抽象的人間が設定され良かったのではないのかと考える。

投稿: 三沢市 | 2007年6月27日 (水) 00時35分

我々が住むこの地球に存在する人間を大きく二つに分けると「具体的人間」と「抽象的人間」に区別することができる。この二種類の人間の間には大きな相違が存在する。まず具体的人間というのは、あらゆる性質・観点からして、全くの同一の人間が存在しない、つまり人間というのは一人一人全く違った個性や素質を持っている以上はそのようなことは決して有り得ないことなのである。それに対して抽象的人間というのは、近代社会で成立した概念であり、そこに自由という概念が成立したときに初めて生まれてくる概念のことなのである。よく田村先生は講義において、「自由という概念を超えるものは他にない」ということを述べられておりますが、その自由が存在する社会が形成される以前はどのような社会が成り立っていたのだろうか?具体的人間のみが存在する世界とはいかなるものだったのか?ただ、一つだけ言えるのは、そこには間違いなく差別が存在しており、そして困惑した世界であったということである。
自由という概念がこの世に誕生したことにより、自然的に生まれた抽象的人間。現代を生きる我々にも少しか当てはまるこの概念であるので、少し興味深いものを感じました。

投稿: 潮見中 | 2007年6月27日 (水) 00時00分

具体的人間と抽象的人間とは全く逆の意味を持つ言葉なのであろうか。具体的人間は人間を「性、収入、性格」など個性を持ったものと認識するものである。この概念は実際的で理解することは困難ではない。では抽象的人間とはどういうものか。ブログを引用すると「生活保護」の出所、また年金についても同じことだと思う。一般化された、感情を含まない人間という集団のことだ。具体的人間と対比する、平均的という言葉はなんかしっくりこない気がする。どちらかというと匿名的。仮面を被った集団というイメージだ。

投稿: 走攻守 | 2007年6月26日 (火) 23時23分

抽象的人間とはすべての個々の性質を排除してすべての人を「人間」というくくりでまとめた概念である。
それに対し具体的人間とは、そのまとまりのなかで、それぞれが確かに持っている性別、年齢、出生、遺伝子などの性質を持ち、同一は存在しないという概念のことである。
この二つはどちらも今必要とされていると思う。具体的人間の立場で考え、それぞれの個性をいかさなければ不可能なこともこの社会生活には存在しているし、現代社会では具体的属性で区別する構造であふれているため、具体的人間の立場なしでは現代は成り立たなくなる。しかし、それぞれの能力や身分などは人によって様々であるため、そこから能力差や身分差が生じ、いつのまにか「区別」が「差別」に変わってしまっているのも事実である。
ここで抽象的人間の立場で考えてみる。ひとつの「人間」としてのくくりで考えたならば、国民年金や税金などのさまざまな形で、個人である具体的人間の立場では到底できなかった大きな助けとなることができる。また、具体的人間の立場ではどうしても生じてしまう「差別」も、抽象的人間の立場なら全員が平等として扱われ、いっさいの差別を超えた「人間」となれるため、差別の螺旋から抜け出すことができる。
だから具体的人間の立場があふれている現代では、抽象的人間の立場が現れているし、これからも必要とされていくのだとわたしは思う。

投稿: 朝寝坊 | 2007年6月26日 (火) 17時59分

僕らは、まったく同じ人間を見たことがない。それは、外見や性格、様々なところがあるが、とにかくクローンのような存在には出会ったことがない。これは、個人個人違って当たり前だ。本当に同じ人間がいたら逆に気持ち悪いと思う。
抽象的と考えたときに、僕らはただの入れ物の中に入っていると考えればよいのではないだろうか。外を包んでいる人間という入れ物。そう考えることで、人間というものは、ただの器として、ひとまとめにできるのではないだろうか。自由・平等を言うのは人間を器と考えればごくごく簡単のことであろう。何を入れるのも自由で、どうするかも自由ということになる。形は皆同じで、機能もみな同じであろう。人間の中身を取り出した入れ物としての価値を、これによって設定することができるのではないだろうか。

投稿: 大腸菌 | 2007年6月26日 (火) 17時13分

抽象的人間とは、個性を排除し、人の全てを最も一般化された概念で見ることではないかと思う。お金も、地位も、性格も、全てを平坦に見た場合、それは抽象的人間になり得ると思う。
現実問題、容姿や性格を均一化することは容易ではない。しかし、脳内では性格などの平均を取ることができないわけでもない。例えば、何に対しても積極的な人と、何に対しても消極的な人が2人いたら、それは間をとって平均値と言うことができると思う。
私たちは一人一人具体的な要素を持ち、具体的人間と言うことができる。だから、一人一人が抽象的人間になることはできない。しかし、私たちが群をなし、あれらは何かと問われたとき、それは一般化された概念を指し示しているため、全体で抽象的な人間と成りうる。
つまり、抽象的人間とは、一般化された人間の集団を指し示し、平均し、そのことによって生まれる形式上の人間だと言うことができる。

投稿: 全日空 | 2007年6月26日 (火) 16時36分

具体的人間と抽象的人間の違いだが、具体的人間とは、先生のお言葉を借りて、性、収入、年齢、遺伝子等すべての観点から、様々な差異を持っている。つまり同一の人間は存在しない。はっきりと区別できる概念のことである。
それに対して一方の抽象的人間は、個人がそれぞれ持つ人間の性質を取り除き、あるがままの存在として捉えたものである。このように考えると、具体的人間よりも人間らしく感じられる。近代において人間共同体における抽象的人間は、神ということを前提にしない。自然的存在、自然的衝動を持った人間との対比において抽象的人間という概念が設定される。このように、抽象的人間を設定することにより、自由・平等も形成されていく。

投稿: 枝幸町 | 2007年6月26日 (火) 15時54分

 他人と意思・認識を共通させるために、概念は必要なものだと思います。
 「具体的」ならばいくらでも例を提示できます。「抽象」は逆に大まかに区切っていく事で、意識の共通部分を生み出しているものだと思います。
 近代の自由としての「個性」を排除するということは、個人という枠組みではなく、社会の一部分としての認識に変えるということになります。具体的人間では「差別」に当たる可能性のある部分も、抽象的人間としての「区別」により、相互理解を深める事ができるようになると思います。
 その考え方では代議制度として、多くの人々の意見をまとめる事が可能になり、社会の発展に繋がっていきます。
 前近代の政治で行われていた「全会一致」方式だと、個人個人を尊重することができますが、物事を決めるまでに多くの時間を費やします。国家が小規模だった場合には可能だと思いますが、効率を考えた場合、近代の政治体系が自然に「代表民主制」になっていった事も頷けます。
 つまり、社会を形成する人数が多くなった為に「抽象的」に物事を考える必要が出てきたということです。個人の自由、個性を平等にする為には、具体性よりも抽象性が必要になったのだと思います。

投稿: 池田屋 | 2007年6月26日 (火) 15時45分

まず、具体的人間とは、性別、年齢、出生、遺伝子等の具体的属性によって制約されるものである。このような具体的人間がなぜ発生してくるのかというと、人間を具体的属性によって制約することが社会生活を営む上で利便性を持っているからである。
それと比較して、抽象的人間とは具体的属性による制約を加えず、個々の人間の持つ性質を排除し、あるがままの存在として捉えたものである。このような抽象的人間がなぜ発生してくるのかというと、現代社会において、具体的属性による区別や制限を「差別」と捉える見方が存在するからである。
現代における社会生活は具体的属性に支配されており、人間は具体的属性によって区別され、制限が加えられる。具体的属性とは主に性別、年齢、出生、遺伝子等の生まれ持って、個人が有する性質のことである。それらを用いて社会生活に必要な便宜上の区別をすることは、理にかなっていると言える。しかし、現代社会においては、先に述べたような属性から派生して発生する容姿、能力、収入、身分等の性質によって「差別」が生じることがある。このような「差別」をなくすためには、人間という存在からその具体的属性を捨象し、抽象的人間として捉える考え方も必要となってくるのではないだろうか。人間を具体的属性によってだけ捉えるのではなく、具体的属性によって制約される以前に同じ人間という存在であるということを理解しておかなければならないと考える。

投稿: 愛媛県 | 2007年6月26日 (火) 00時15分

私が考える抽象的人間とは、教授の言葉を借りると性、収入、年齢、遺伝子というものを一切無視した人間ということになり、言い換えるとすべての人間を単純に人間としてとらえたものだということができます。そしてまた言い換えると、地位や名誉などにもこだわらないすべての人間が平等であることを示す言葉なのではないかと思いました。近代で抽象的人間という概念を設定することが自由を生み出すことになるといえるのも、この平等さにあるのではないかと思います。現代に生きる私たちが自由とはなにかと尋ねられたとき、一番に思いうかべるのは差別のない世界ということでしょう。性差別や人種差別、部落差別などさまざまな差別が存在し、多くの人が苦しんできた中で、それに反抗する意味をもって出現してきたのがこの抽象的人間の概念なのではないかと思います。また、抽象的人間の概念が国、または世界に大きな連帯を作り出したことで私たちは平等に守られ援助されることが保障されたということができますが、だからといって現在、すべての人が等しく保護されているとは到底いえません。今後も、一人ひとりが平等な扱いを望んでいく限り、ますます抽象的人間の概念は強くなっていき、自由の概念もよりはっきりとしたものになっていくのではないかと思います。

投稿: 苫小牧 | 2007年6月25日 (月) 23時59分

人間の範疇として、具体的人間と抽象的人間の2つの分け方がある。具体的人間とはつまり、収入、年齢、遺伝子などの違いがあり他の人間と同じではない、はっきりと区別できる概念のことである。対して抽象的人間とは、具体性を捨象する傾向にある近代を象徴する概念である。田村先生の記事にもあるように、隣の具体的人間、つまり対象がはっきりしている人間に直接金銭的なサポートを行う人は少ないだろう。しかし、実際は具体性を捨象したことを前提に成り立つ生活保護という制度を媒介にして、誰もが連帯の精神を発揮しているのである。また、ユニセフなどの各募金制度も抽象的人間をサポートする代表的な仕組みと言えるだろう。この抽象的人間の概念は近代では神の存在を必要としない。近代の人権尊重の思想や自由平等の概念が広まったことに加え、隣人とのつながりが希薄になった最近の世相も反映しているのかもしれない。

投稿: 滝川市 | 2007年6月25日 (月) 19時14分

具体的人間と抽象的人間は、どこが違うのかというよ、考え方が違うと思う。「具体的」と「抽象的」とは意味が逆である。抽象的人間は前近代においても神の前の平等な主体として設定されていた、とあるが、近代においては神ということを前提としていないようだ。神は近代では人間と別のものとしてみなされているからではないか。抽象的人間は近代では近代において具体的な人間より人間らしいのではないか。何かを目標としてそれに向かい一つのことを把握して物事を考える、このようなことをしている人間こそが今の時代に必要なのではないか。具体的な人間は目標がはっきりしない、おおざっぱすぎる、ということがいえる。そういうことから抽象的人間は何か困っている人がいれば、力になれる限りのことをしてあげられる。自由、平等、連帯、まさに今の時代にふさわしい言葉を抽象的人間がとり備えている。そして、近代において不可欠な三要素となっているのである。

投稿: 海岸町 | 2007年6月25日 (月) 16時56分

私は、抽象的人間は、あらゆる困窮した人々を救うために設定されたものだと考えます。ブログにも書かれていたように、隣の具体的人間が困窮していたとしても、すべての人間が連帯してその人を助けることはないでしょうし、できません。しかし具体性を排除してしまえばあらゆる形で困窮した人を救うことができます。また同様に考えれば、日本の国民年金のシステムも具体性を排除した抽象的人間の連帯といえるでしょう。加えて、私たちの払う税金も国を媒介に違う形で道路などの公共物や保険などのサービスとして全国民に供給されます。例えば、我々には道路などがほしいとしても自分で道路を作ろうという意思は当然ありません。しかし、税金を払いそれにより、具体性を捨象した抽象的人間の連帯で道路が作られるのです。これらのように私たちは、自分が具体的に行動を起こさなくても、国家などを媒介にした抽象的人間の連帯により、助け合ったりしているのです。人間という生き物は抽象的人間という概念がなければ生きてはいけないでしょう。だからすべての人間が困窮から救われ、自由に生きていけるようにこの概念は設定されたのだと思います。

投稿: 七飯町 | 2007年6月25日 (月) 16時51分

具体的人間は実際的であり、様々な違いを有する人間である。それは個々にはっきりとした形をあらわしており同じものはない。それに対し、抽象的人間とは何か。「抽象」という言葉は、簡単に言えば「グループに分けること」である。人間は自分達の考え方や立場等、様々なものを一括りにまとめる傾向がある。私たちは普段、数え切れないほどある考え方や物事を「グループに分ける」場合、普通はその各々の事物から、その範囲の共通する要素を抜き出し、頭で考えまとめあげてグループ分けをする。このように共通の要素を抜き出し、つまり「属性」を抽出することを行う人間を抽象的人間と考えられる。近代においては、この抽象的人間を設定することが出来て初めて、「平等」「自由」といったものを設定することが出来るのである。

投稿: 南大門 | 2007年6月24日 (日) 14時40分

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