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大学内全面禁煙という愚行――小さな悪を槍玉にあげ、巨悪を放置する愚行

大学内全面禁煙という愚行――小さな悪を槍玉にあげ、巨悪を放置する愚行

              

 最近、一部の大学において、校地内全面禁煙化という愚行を行おうとしている。禁煙という思想を持つことは、個人の思想信条の自由として承認されている。それは、禁酒あるいは禁性交を生活信条とすることが社会的に承認されているのと同様である。その思想自体をここで批判しようとするのではない。

 しかし、問題はその個人的思想を他者に強制して恥じない倫理性の欠如である。自らの生活信条を他者に強制して恥じない他者性の欠如である。どのように優れた生活信条であれ、それを他者に強制することは、内面の自由を侵害することになる。近代国家はどのような思想であれ、それを他者に強制することを禁じている。もちろん、日本国家も近代国家の範疇に入ることは当然であり、憲法等でこのことは明記されている。

 ところで、学内において禁煙を信仰する集団は、学生に禁煙教育を実施し、喫煙そのものを悪であると認識させようとしている。近視眼的な教育である。喫煙が善であると主張しているのではない。もちろん、それも悪である。より大きな悪があるのではなかろうか。小さな悪を糾弾し、巨悪を放置する愚行をここで問題にしている。巨悪は自家用車等の使用による二酸化炭素の排出等のほうがより強大である。

また、煙草そのものが、財務大臣を大株主とする日本たばこ産業株式会社によって販売されている商品である。その商品を買うことを規制することは、どのような法律に基づいて禁止されているのであろうか。言わば、政府によって販売されている商品に対する不買運動は、どのような名分であろうか。石油排気ガスを吸引させながら、喫煙による悪を弾劾する思想的根拠はどこにあるのであろうか。

 さらに、一部の集団は、学生の健康のためという名分に基づいて、禁煙教育を実施しようとしている。しかし、今日の健康問題、ひいては環境問題にとって重要なことは、二酸化炭素の排出量に対する抑制である。喫煙によってオゾン層が破壊されるのであろうか。石油を燃焼させて環境を悪化させている自家用車の使用抑制こそを健康問題の第一義におくべきである。もし、学内において健康問題を重要視するのであれば、学内における自家用車の使用を原則禁止にすべきである。公共交通網を利用し、通勤・通学に利用すべきである。自家用車の使用は、障害者のみに限定すべきであろう。二酸化炭素の排出をそのままにしておいて、喫煙という行為のみを規制しようとするのは、愚かであろう。もちろん、喫煙によって二酸化炭素も排出される。しかし、自家用車の使用による二酸化炭素排出量と比べれば、微々たるものであろう。

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真宗大谷派と一元的思想

 真宗大谷派によって経営される大谷幼稚園の教諭から聞いたいい話をここで紹介しよう。大谷幼稚園では、節分の豆まきに際して、「鬼は外」と言って、鬼の背中に豆をぶつけることはない、と言っていた。それは、人間の内部にある鬼、つまり悪を正面から認識し、それを排除するのではなく、それと共存することを目指しているのであろう、と思われる。

 ここからは、推定である。今日、人間社会を一元的原理で統制しようとする思想が跋扈している。市場原理の貫徹、煙草を公共的圏から追放すること等、枚挙に暇がない。本ブログにおいても、原理としての市場原理を一定程度認めながら、その一元化については否定的見解を述べてきた。郵政民営化反対、小さな町村の大きな都市への合併反対、禁煙ではなく少しの副流煙を前提にする分煙等を主張してきた。

 この政治的見解と、親鸞を教祖とする真宗大谷派の宗教的見解は、ほぼ同一の思想的基盤に立っているように思われる。人間を一元的原理、「鬼は外、福は内」で解釈しないことである。鬼は人間の内にあり、それを排除することは滑稽であるという思想である。

 このような真宗大谷派の幼稚園が知的障害児を受け入れていることは、この節分の思想からも当然であろう。知的障害児を排除することは、鬼を排除することにつながるからだ。 人間を一元的原理で解釈しないこと、これこそが今日の短絡的思想、養老孟司によって提唱された『馬鹿の壁』を乗り越える途であろう。

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JR東日本の馬鹿ーー新幹線全面禁煙

 3月18日JR東が新幹線を全面禁煙にすると宣言している。これは愚かな愚策ーーこれ以上ない愚策である。

 そもそも、新幹線は分煙という思想を健康増進法以前から実現していた。喫煙車両と禁煙車両を別々にしていたからだ。おそらく、禁煙推進派の横槍、あるいは喫煙車両の通り抜けの際の受動喫煙、あるいは喫煙車両のデッキ部分のわずかな臭い等を理由として、喫煙車両を廃止したのであろう。しかし、それは分煙という健康増進法の立法趣旨を破壊し、近代における一元的思想を厳格に適用しようとする。それは、後期近代における多様性を破壊し、さらなる環境破壊につながるであろう。

 人間はそもそも厳格な一元的思想に対応できない。自家用車の排気ガスを吸引して暮らしている。健康増進法自身が一元的ではない。そこでは、すべての発色剤を否定しているわけではない。少しくらいはその適用を認めている。煙草は自家用自動車の排気ガスと異なり、地球オゾン層を破壊しない。しかし、自動車排気ガスは規制しようとしているが、廃棄しようとしていない。

 鉄道は自家用車や飛行機に比較して、環境破壊が少ないがゆえに、利用促進すべき存在である。しかし、環境破壊がゼロではない。より、少ないという思想を体現している。適当であるという曖昧な基準で、採用されているだけである。にもかかわらず、一元論的思考を実現し、多様性を破壊している。天に唾する行為である。旧国有財産を破壊している。多様な公共性を破壊する天下の愚策である。

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落城寸前の御前会議における漢字変換ミスの指摘

 日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことに反応しないことであろう。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことの過剰反応して多くの時間を費やす。1時間の会議で、文章の間違いを30分以上話し合った会議があった。「阻害」という漢字をしようするのか、「疎外」を用いるのか、ということが論点であった。馬鹿ではないかと多くの参加者は考えていたが、うんざりしながら、聞いていた。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 それに対して、重要なことにはほとんど反応しない。たとえば、多くの大学で「教員任期制」を導入するにあたって、すくなくとも私が参加した大学の会議では議論の対象になったことはない。任期制とは、簡単に言えば首切りである。そのような重大な問題に対しては議論せず、漢字の変換ミスには過剰に反応する。「木を見て森を見ず」、あるいはかつてのブログに書いたような「落城寸前の御前会議における文書日付」のような事態が進行している。このような馬鹿が多く存在する会社、あるいは組織はつぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員は、それでも落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の構成員から次のように言われるに違いない。「勝手にやって。会議では承認されていない」と。

 漢字の変換ミス、あるいは改行の是非しか議論できない組織には、見切りをつけるべきであろうか。思案している。

 

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