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美しい国における異臭と紫煙

 

新自由主義の政治思想が一世を風靡している。この思想に従えば、小さきものは福祉政策の受益者として生きるしかないようである。その福祉政策も、可能な限り減少するであろう。

しかし、後期近代を一つの思想によって考察できると考えるのは、愚かであろう。初期近代から後期近代への転換のメルクマールであるマルクス主義の生成とその没落から、何も学んでいない証左である。世界を一つの原理によって解釈できるという驕りから生じる愚行でしかない。

社会はそのような単細胞から構成されているのではない。単純な原理に社会を還元すれば、その反動から予期しえないことが生じるであろう。人間理性で社会有機体を解釈できないからだ。その反動あるいはその余波は、どのようなものであるか、ここでは言及しない。

 このような自由主義的原理に基づく安倍晋三総理による「美しい国」の建設が論壇の話題になっている。この美しい国は、もちろん安倍総理が始めたのではない。少なくとも、戦後政治の総決算を標榜した1980年代の中曽根政治から始まる政治改革の総仕上げである。

ここでは、支配階層の観点からすれば、生きているのが不思議な存在、戦闘的労働組合、新左翼運動、新右翼運動、任侠団体、路上喫煙者等を少なくとも、公共的領域から排除しようとしている。

 大学という空間に限定しても、大学はまさに「美しく」なった。立て看板はなくなり、喫煙者は追放され、セクハラはなくなった。よいこと尽くめと映るであろう。しかし、事態はより深刻になっている。大学の根幹をなす講義が事実上成立していないのである。煙草を吸わなくなった学生は、のべつ携帯電話で遊んでいる。煙草を吸いながら、本を読み、議論していた学生は、携帯電話で遊び、勉強そのものを放棄している。

人間はそれほど美しい存在ではない。細菌は皮膚を覆い、悪臭を漂わせている。それを隠そうとして、過剰な化粧品でもって自らの汚い顔を覆っている。それは、まさに悪臭でしかない。このような悪臭に満ちた人間を美しい国と言っているにすぎない。このような臭いならば、まだ紫煙のほうが優雅である。

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