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討論会におけるコメントは1500字以上、2500字以内

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討論会への招待ーーニート論

 ニートは後期近代における社会国家の存在形式と関連している。とりわけ、社会国家が労働の社会的意味づけを変容させた。簡単にいえば、労働と生存条件を分離した。「働かざるもの、食うべからず」という人類がその初期の段階から保持していた原理を無効にした。

 また、貧困あるいは生活の困窮は、個人責任ではなく、社会責任にも比重を移してきた。

 このような観点からの討論を期待する。討論期間は2週間とし、1月24日で締め切る。

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美しい国における異臭と紫煙

 

新自由主義の政治思想が一世を風靡している。この思想に従えば、小さきものは福祉政策の受益者として生きるしかないようである。その福祉政策も、可能な限り減少するであろう。

しかし、後期近代を一つの思想によって考察できると考えるのは、愚かであろう。初期近代から後期近代への転換のメルクマールであるマルクス主義の生成とその没落から、何も学んでいない証左である。世界を一つの原理によって解釈できるという驕りから生じる愚行でしかない。

社会はそのような単細胞から構成されているのではない。単純な原理に社会を還元すれば、その反動から予期しえないことが生じるであろう。人間理性で社会有機体を解釈できないからだ。その反動あるいはその余波は、どのようなものであるか、ここでは言及しない。

 このような自由主義的原理に基づく安倍晋三総理による「美しい国」の建設が論壇の話題になっている。この美しい国は、もちろん安倍総理が始めたのではない。少なくとも、戦後政治の総決算を標榜した1980年代の中曽根政治から始まる政治改革の総仕上げである。

ここでは、支配階層の観点からすれば、生きているのが不思議な存在、戦闘的労働組合、新左翼運動、新右翼運動、任侠団体、路上喫煙者等を少なくとも、公共的領域から排除しようとしている。

 大学という空間に限定しても、大学はまさに「美しく」なった。立て看板はなくなり、喫煙者は追放され、セクハラはなくなった。よいこと尽くめと映るであろう。しかし、事態はより深刻になっている。大学の根幹をなす講義が事実上成立していないのである。煙草を吸わなくなった学生は、のべつ携帯電話で遊んでいる。煙草を吸いながら、本を読み、議論していた学生は、携帯電話で遊び、勉強そのものを放棄している。

人間はそれほど美しい存在ではない。細菌は皮膚を覆い、悪臭を漂わせている。それを隠そうとして、過剰な化粧品でもって自らの汚い顔を覆っている。それは、まさに悪臭でしかない。このような悪臭に満ちた人間を美しい国と言っているにすぎない。このような臭いならば、まだ紫煙のほうが優雅である。

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ヒットラーも考えた禁煙

  健康増進法の目的は、「国民の栄養の改善その他の国民の健康の増進を図るための措置を講じ、もって国民保健の向上を図ることを目的とする」(同法第1条)ことにある。この法律はその手段として、食品衛生の向上等を挙げている。そのなかで突飛に第25条において受動喫煙禁止が規定されている。罰則のない努力規定にもかかわらず、その遵守の方針は公共機関のみならず、飲食店等に拡大している。多くの公共施設、とりわけ教育施設において校地内全面禁煙が導入されている。

そもそも、健康増進法の規定によれば、公共機関において禁煙にすべきということはありえない。せいぜい、分煙にすべきであるし、また少々の副流煙は受忍すべきものであるからだ。自動車の排気ガスを吸引すれば、即死であるが、タバコの煙を吸引してもそれほど健康に悪影響を与えることはない。煙草の煙に敏感な禁煙論者は自家用車の排気ガスを問題にしようとはしない。まさに、大きな悪は小さな悪を生贄にすることによって、栄える。ヒットラーと同様な政治手法を行使している。ちなみに、ヒットラーは禁煙主義者であったことは、ここで想起されてよいであろう。禁煙推進派はヒットラーの理想を後期近代において実現しようとする。ヒットラーでさえ実施しなかった愚策を、ここで推進しようとする。

ここでは、公的教育施設における全面禁煙について考えてみよう。もちろん、この施策には、法的根拠は何も無い。分煙を規定しているだけである。そのことを隠蔽するために、新たな根拠を創設しようとする。その根拠の一つが教育的配慮である。子供が喫煙することを防ぐために、大人も禁煙しようというものである。しかし、ここでは大人と子供は違うということを教えることが放棄されている。教育が放棄されている。子供は教育される人間であり、教師は教育する者である。教師は金銭を受け取るために、教育する。敷地内全面禁煙という施策は、教育労働の義務の一部を放棄している。

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大学共同幻想における紫煙

大学共同幻想における紫煙

 大学における講義内容と形式が社会全体から隔離されたある種の理想論を追求しているという批判はかなり以前からある。その典型として大学共同幻想論がある。つまり、大学の内部においてのみ理想的状態が追求され、そのことが社会全体の非理想的状態の免罪符になっているという批判である。たとえば、大学においてセクシャル・ハラスメントの規定はかなり厳格である。肩をたたくことは言うまでもなく、女性に年齢を聞くことすらもその対象になる。しかし、このような女性の尊厳に関する厳格性は、新宿歌舞伎町における女性の行為様式と好対照をなしている。そこでは、もちろん、肩をたたくということすら、問題になることはない。むしろ、女性蔑視という批判が妥当するような事柄が日々行なわれているであろう。この社会的状況を大学がまさに補完しているという批判である。

このような大学共同幻想論は1970年代からのセクハラ議論においてむしろ強化されている。あるいは、禁煙をめぐる状況を考察すれば、明らかであろう。多くの学校で労働者の権利としての喫煙が禁止されている。大学内は、セクハラも煙草の紫煙もない清潔な空間として設定されている。

大学という社会的透明性を要求される場所において、清潔度が進み、雑菌が駆除されている。しかし、雑菌が駆除されると同時に、耐菌性もまた駆逐される。煙草という害虫が駆除され、覚醒剤というより大きな害を吸引しているようだ。煙草の紫煙という害を駆除し、自家用車の排気ガスを吸引させられる。もちろん、大気中に放出され、希薄化された排気ガスを吸引させられる。しかし、このような限定化された空間の清潔化は地球オゾン層の破壊という結果を意味している。このような限定化された空間を他の空間から切り離すことによって成立する正義はもはやその反対物に転化するであろう。

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新年の挨拶ーー信念に生きることの困難性

 2007年、新年明けましておめでとうございます。

 本ブログも、郵政民営化反対から始まり、安倍内閣の誕生までの政治状況に翻弄されてきました。本年もまた、同様な政治状況が継続するでしょう。あまり、期待してはいません。

 このような困難な状況において、信念を持って生きることはかなり困難になるでしょう。批判ばかりする消耗戦に陥るのは明らかでしょう。政治状況は国際政治、中央政治、地方自治の水準ばかりではなく、自ら属している企業、地域、学校でも同様でしょう。被統治者において些細なことが問題にされ、統治者はそれを笑いながら巨悪(郵政民営化等)に猛進するでしょう。この政治状況はこの30数年間に形成された大衆社会という後期近代に特有の政治的社会的状況に規定されています。それは新自由主義ではなく、より広いコンテキストにおてのみ明らかになるでしょう。この意味の一端を本年中に解明しようと考えています。

 本年も宜しく御指導、御鞭撻のほど、お願いします。

2007年元旦

田村伊知朗

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本年もよろしくお願いします その二

あけましておめでとうございます。昨年は記事を書かずじまいだった管理人ですが、
いろいろな方にお世話になり、感謝申し上げます。
みなさまのご意見を拝見させていただき、勉強になることも数多くありました。
どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

2007年 管理人Marius

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