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清掃と強制収容所ーー極限状況における人間

 ナチズムにおける強制収容所は多くの政治犯、ユダヤ系ドイツ人、ジプシー等を強制的に一箇所に集中管理したことで有名である。そこでは、かなり大きな部屋に蚕棚のようなベッドが並んでいた。この強制収容所としてアウシュビッツが有名であるが、それ以外にも小さな収容所はドイツ各地に残存している。もちろん、歴史的意味において保存されている。

 この収容所において掲げられた標語として興味を引く言葉があった。それは、清掃を意味するSaubermachen(綺麗にする)という単語である。どのような状況であれ、多くの人間が生活をしていれば、埃は出てくる。一つの空間において多くの人間が生活していれば、当然であろう。ほとんど絶望的状況であろうとも、清掃は必要である。彼らもまた、死を目前にしながら、清掃をしていた。

 翻って現在、大晦日である。多くの日本人は大掃除をしているか、終えているであろう。現在の日本人は60数年前のドイツ人と同様に清掃をしている。新年という希望を持ちながら。60数年前のドイツ人はどのような希望を持って強制収容所において新年のための清掃労働を為したのであろうか。

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聖職活動としての福祉労働ーー後期近代におけるその変容

 このように福祉活動は社会的有用性という観点から高い地位を占めている。この理由の一つは、初期近代において、福祉が公的領域として認定されていたからだ。まさに、福祉国家は福祉的領域に介入することによって成立した。国民の福祉における中核的領域して社会福祉が設定されていた。この領域において労働することは、福祉国家の中核における活動として認定された。とりわけ、初期近代においてこの福祉国家が形成途上にあるときには、この使命感は特別であった。それは初期近代における高級官僚の使命感に似ていた。

 しかし、後期近代になるとこの使命感は希薄になり、その公務労働に相似した非効率性のみが目立つようになった。後期近代における課題の一つがこの分野における市場原理の導入であった。

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奉仕活動を独占する福祉活動

 

 しかし、後期近代においても特定の分野の労働者は聖職者意識を他の分野の労働者に対して格段に持っている場合がある。その分野の一つが社会福祉の領域である。社会福祉に従事することは、社会的有用性が他の領域とは格段に異なっているという意識である。その証拠として、今でも奉仕活動は福祉労働に限定されている。所謂ボランティア活動は広義の福祉活動に限定されて解釈されている。教員養成課程においてこのボランティア活動は必修化されている。この活動は単位として認定され、この単位を取得しないかぎり、教員免許は賦与されない。また、この単位を取得しないかぎり、卒業も不可能である。この活動は教員養成課程において福祉活動に限定され、通常の営業活動、たとえば銀行の窓口に立つことにこの単位を履修したことにはならない。況や、コンビニエンスストアーでレジを打っても単位習得になるはずはない。ボランティア活動、つまり奉仕活動は福祉に限定されている。

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聖職者意識と後期近代

 福祉の業界において、教師とならんで聖職者意識が強いと言われる。もちろん、福祉従事者と教員が初期近代あるいは前近代において宗教者によって担われていたという事情は勘案されねばならない。後期近代において宗教的意識が社会意識として減少するに従い、両者はこの宗教的意識が個人的意識において残存していた。社会の支配的意識として宗教意識が承認力を喪失した程度に、一部の個人にその意識が集中化したのであろう。

 後期近代において多くの労働者が様々な領域に活動している。しかし、その労働の目的は、主として労働の対価、つまり金銭獲得である。もちろん、多くの労働者もその労働目的として金銭だけではなく、社会的有用性を目的にしている。たとえば、鉄鋼会社に勤務する労働者は、鉄の生産を通じて社会に貢献している。それに対する自負心はある。しかし、鉄の生産と食肉の生産を比較して、食肉生産労働者に対してその社会的貢献性の優位を誇ることはない。あるとすれば、賃金の多寡を他の領域の労働者と比較して、優越観あるいは劣等観を感じるだけである。それは、労働者における労働の目的が金銭獲得にある以上、必然であろう。

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教育基本法改正ーー馬鹿が一元的思考でやって来る

 教育基本法が過日、参議院本会議で可決された。もちろん、国会議員という政治的貴族における多数意見がこの改正に賛成したからである。もちろん、この貴族はかっては一代かぎりの殿上人であったが、最近は世襲される傾向にある。今、マス・メディアに登場している国会議員、たとえば小泉純一郎元総理大臣(二代目)、鳩山由紀夫(四代目)、小沢一郎(二代目)、安倍晋三(三代目)等が有名である。

 かつて政治的エリートと表現されていた政治的貴族だけではなく、国民一般においてもこの改正に賛意を表している者も多い。表層的に読めば、必ずしも悪いことばかりではないように思えるからだ。この法改正の理論的問題点に関しては、多くの教育学者が指摘しているのでここでは取上げない。ここで問題にしようとすることは、支配的社会意識、あるいは文部科学省の通達の支配力が学校現場で強制されることである。

 たとえば、30数年前、いまだ中華人民共和国の威光が隆盛であった時代、多くの教員はこの国家の呼称として、中国、あるいは中共を採用していた。しかし、ある初老の美術教師はそれに反対して、支那と呼んでいた。おそらく、多くの教員からこの問題を指摘されたいたはずである。彼は中国と呼ぶ教師からも、中共という教師からも疎外されていたはずである。しかし、彼はやはり支那と呼ぶことをやめなかった。単なる戦争中の慣習から抜け出ない無知蒙昧の教師として。ここで、この初老美術教師の正義を再顕彰しようとすることを目的にしているのでもなければ、その誤りを再度指摘しようとするのでもない。30数年前の教育現場では、このような少数意見もまた、生徒の前で披露されていた事実である。

 当時の児童が学んだことは、ある地域の呼称すら、政治的立場が異なれば、異なるということである。中国、中共、支那等のどれが正しいと主張しているのではない。その呼称すら、異なるという事実をその当時の少年が学んだことが重要である。しかし、今後、このような混沌の状態はより減少してゆくだろう。画一化された言語が大衆的多数意見として、そして文部科学省通達として徹底されてゆくことは間違いないであろう。

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改革、また改革、またまた改革、そして先祖帰り

 現在、改革ばやりである。政治改革から始まり、経済改革、大学改革、地方自治改革結構なことのようである。しかし、改革の名のもとで、別の思惑が見え隠れしている。政治改革の名の下で「小選挙区制」が導入された。それは、民意の反映のためにではなく、民意の集約のためであった。結果、保守二大政党が結成された。政権交代の名の下で、自民党と似た政党が結成された。基本政策にはほとんど差異が感じられないし、民主党には自民党から出馬したほうがよいと思われる人をたくさん抱え込んでいる。

 このように、改革は別の要素が入り込んでくる。その別の要素とは何か、が問われている。

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討論会の成果ーー企画部長と全体的真理

 まず、企画部長は自治体の全体像を把握しなければならない。そこでは、細かな問題は問題にしてはならない。大局的見地が要請されている。つまり、帝王の立場が要請されている。上に立つものが細かなことを言うのが通例ではある。「てにをは」を間違えている、あるいは用語使用が不適切である、という批判ばかりをする上司がいるとすれば、このような上司はほぼ大局観を喪失しているであろう。はっきり言えば、馬鹿である。

 上司が馬鹿であり、そして勤勉であれば、間違いなく馬鹿が決定したような馬鹿な社会が計画どおり創造されるからだ。多くの馬鹿は勤勉であることが問題である。

 今回の討論会でも商業施設の問題が多く取上げられた。しかし、自治体は商業施設を自ら経営してはならない。商業施設が集まるような環境を整備すべきである。たとえば、アーケイドを整備する、また歩道を整備するという環境つくりこそが課題である。自ら、あるいあ第三セクターを媒介にして、商業施設を経営することは馬鹿である。

 また、巨大商業施設の誘致を主張していた者が多かった。しかし、巨大施設の建設は、たとえば駅前商店街の衰退をより促進することを考慮すべきだ。それ自体の真理(買い物が便利な巨大商業施設)は、全体の真理を保障しない。商店街を破壊するからだ。それは、旧市街そのものを破壊することにつながる。全体の真理を追求することが課題である。

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討論会参加への謝辞と、「討論会」記事コメントへの移行

 「なり」様と「ポン太」様のコメントを「討論会へのお誘い」の記事コメント欄に移行しました。内容的に討論会への記事へのコメントとみなしました。御了承のほど、お願いします。

 討論会は成功裡に終了しました。今後の本欄への投稿を締め切ります。約70名が本欄に投稿しました。感謝します。

 しかし、幾つかの問題は残されています。この問題は次の記事において報告します。

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討論会へのお誘いーー市役所の企画部長になったら

 ある市役所の企画部長になったとすれば、どのような企画を提案しますか。本ブログでそれに関する討論会を企画します。実現性よりも、夢のある企画を募集しています。なお、この地方自治体は自分の住んでいる町に限定されていません。日本中、あるいは世界中のどの都市でも結構です。字数は2000字前後でお願いします。来週の水曜日までに討論会を開催しています。本ブログのコメント欄に投稿してください。

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企画部と全体知

 

 地方自治体における企画部、企画調整部

 著名な映画『生きる』(黒澤明監督、志村喬主演)においても、公園にブランコを作るという市民のささやか願いと自治体における部局の独立性の矛盾が描かれている。市民がその願いを持って市役所を訪れたとき、それぞれの部局の窓口はその願いを他の部局に回し、自分の部局では取上げようとしない。所謂、「盥回し」である。志村喬もまた、その部局における定年間近の末端の管理職であった。彼は自分に命令された事柄以外のことを進んでやろうとはしない。新たな仕事は別の部局に回す。他の部局も同様である。ところが、自己が末期癌に侵されていることを自覚したとき、この老管理職は、それぞれの部局を調整しながら歩く。公園にブランコを作るために。映画では公園に作られたブランコに乗りながら、生命の最期を迎える。「命短し、恋せ、乙女よ」という歌を口ずさみながら。

 このような老管理職の役割、部局の独立性を打破して、総合的観点からある政策を実行するための機関として、地方自治体において企画部、あるいは企画調整部という部局が、前世紀後半から出現してきた。それは、中央政府における内閣府の存立意義と相似している。それが形成された理由は、中央政府だけではなく、自治体においても各部局が独立してその利益を主張することにある。省益に対応する部局の利害が貫徹している。この独立性を廃して、重要な政策を実現するための機関として、企画部が創設された。

 ここでの問題点は、何がその自治体における最重要事項なのかを判断することが可能か否かである。近代社会思想史において、否定された全体知が要請されている。果たして、そのことは可能であろうか。この問題が企画部の存在様式において問われているのであろう。

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教育の放棄ーー馬鹿が禁煙でやって来る

 

健康増進法の目的は、「国民の栄養の改善その他の国民の健康の増進を図るための措置を講じ、もって国民保健の向上を図ることを目的とする」(同法第1条)ことにある。この法律はその手段として、食品衛生の向上等を挙げている。そのなかで突飛に第25条において受動喫煙禁止が規定されている。罰則のない努力規定にもかかわらず、その遵守の方針は公共機関のみならず、飲食店等に拡大している。多くの公共施設、とりわけ教育施設において校地内全面禁煙が導入されている。

ここでは、公的教育施設における全面禁煙について考えてみよう。もちろん、この施策には、法的根拠は何も無い。分煙を規定しているだけである。そのことを隠蔽するために、新たな根拠を創設しようとする。その根拠の一つが教育的配慮である。子供が喫煙することを防ぐために、大人も禁煙しようというものである。しかし、ここでは大人と子供は違うということを教えることが放棄されている。教育が放棄されている。子供は教育される人間であり、教師は教育する者である。教師は金銭を受け取るために、教育する。敷地内全面禁煙という施策は、教育労働の義務の一部を放棄している。

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