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大学共同幻想と煙草ーー馬鹿が車でやって来る

 大学における講義内容と形式が社会全体から隔離されたある種の理想論を追求しているという批判はかなり以前からある。その典型として大学共同幻想論がある。つまり、大学の内部においてのみ理想的状態が追求され、そのことが社会全体の非理想的状態の免罪符になっているという批判である。たとえば、大学においてセクシャル・ハラスメントの規定はかなり厳格である。肩をたたくことは言うまでもなく、女性に年齢を聞くことすらもその対象になる。しかし、このような女性の尊厳に関する厳格性は、新宿歌舞伎町における女性の行為様式と好対照をなしている。そこでは、もちろん、肩をたたくということすら、問題になることはない。むしろ、女性蔑視という批判が妥当するような事柄が日々行なわれているであろう。この社会的状況を大学がまさに補完しているという批判である。

 このような大学共同幻想論は1970年代からのセクハラ議論においてむしろ強化されている。あるいは、禁煙をめぐる状況を考察すれば、明らかであろう。多くの学校で労働者の権利としての喫煙が禁止されている。大学内は、セクハラも煙草の紫煙もない清潔な空間として設定されている。

 大学という社会的透明性を要求される場所において、清潔度が進み、雑菌が駆除されている。しかし、雑菌が駆除されると同時に、耐菌性もまた駆逐される。煙草という害虫が駆除され、覚醒剤というより大きな害を吸引しているようだ。煙草の紫煙という害を駆除し、自家用車の排気ガスを吸引させられる。清潔という尺度もまたいかがわしい。

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