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政策概念と現実の政策立案者ーー馬鹿が箱物行政でやって来る

このように政策という概念は、現時点から考察すれば万人には理解困難である。しかし、その政策の必要性がある課題は、数多い。交通政策、環境政策等においてその実現のためには数十年の月日を要する事柄は数多い。たとえば、新幹線網あるいは巨大ダム等を建設するためには、数十年の歳月を要するからだ。その政策立案を決定するためには、幅広い知識と認識が要求される。しかし、現実の政策立案者は必ずしも、このような観点からある事柄を構想していない場合も多い。

その視野は短期的ですらある。たとえば、自治体首長は常に数年後には確実にある次の選挙を意識している。そこでは、十年先の政策よりも、住民に可視的な対策を施すことが重要になる。箱物行政が跋扈する理由もそこにある。10数年先の抽象的な政策よりも、現前の問題を即座に解決する対策のほうが住民に理解されやすい。住民は大衆的存在であり、理性的存在ではないからだ。ここにおいて、問題は大衆民主主義における大衆の存在様式という問題と関与する。

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政策概念ーー馬鹿が対策でやって来る

  政策という言葉は、この20数年に中央政治だけではなく、地方政治においても一般化してきた。それ以前は対策という言葉が一般的であった。今日では、ほぼ同一の対象を表わす言葉として用いられているが、それにはかなりの差異があるように思われる。ここでは、その差異を媒介にしながら、政策という概念の本質を討究してみよう。

まず、対策という言葉は、何らかの現実的問題が現前あるいは過去に存在していたことを前提にしている。それは、過去あるいは現在の問題に対症療法的に関与するという色彩が強い。それに対して、政策は未来の問題に関与している。現在はそれほど問題になっていないが、将来ほぼ確実に問題になる事柄を取り扱っている。端的に言えば、それは未来志向である。

また、対策が短期的視野に立っているのに対して、政策は長期的視野に立っている。対策は現前にある問題に対処しなければならない。そこでの問題は万人にとって緊急を要するものである。たとえば、水害対策、交通事故対策等の解決がそれに相当する。それに対して、政策は必ずしも現前していない問題に関与する。現在はその問題性が万人には認識されていないが、将来において確実に問題になるような事柄に関与する。したがって、政策は対策と異なり、その問題の所在そのものから立証しなければならない。

したがって、政策はその問題関与を社会全体から考察しなければならない。対策は問題が緊急のものであり、その意味づけをする必要がないことに対して、政策は問題そのものを社会全体という抽象的概念のうちにせっていしなければならない。さらに、この問題設定には時間概念が挿入される。10年後あるいは20年後の問題を取り扱うことによって、時間軸を設定しなければならない。このような政策は、つねにその問題設定の危うさの上に立っている。社会全体の利益ということが有限な人間には認識不可能であるということは、社会思想史上の常識に属しているからだ。にもかかわらず、その完全な解答は不可能であるにもかかわらず、それを設定しなければならない。まして、数十年後のことを一定程度、認識しなければならない。

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『美しい国』と煙草ーー馬鹿が厚化粧でやって来る

 安倍総理による『美しい国』の建設が論壇の話題になっている。この美しい国は、もちろん安倍総理が始めたのではない。少なくとも、戦後政治の総決算を標榜した1980年代の中曽根政治から始まる政治改革の総仕上げである。

 ここでは、支配階層の観点からすれば、生きているのが不思議な存在、戦闘的労働組合、新左翼運動、新右翼運動、任侠団体、路上喫煙者等を少なくとも、公共的領域から排除しようとしている。

 大学という空間に限定しても、大学はまさに「美しく」なった。立て看板はなくなり、喫煙者は追放され、セクハラはなくなった。よいこと尽くめと映るであろう。しかし、事態はより深刻になっている。大学の根幹をなす講義が事実上成立していないのである。煙草を吸わなくなった学生は、のべつ携帯電話で遊んでいる。煙草を吸いながら、本を読み、議論していた学生は、携帯電話で遊び、勉強そのものを放棄している。

 人間はそれほど美しい存在ではない。細菌は皮膚を覆い、悪臭を漂わせている。それを隠そうとして、過剰な化粧品でもって自らの汚い顔を覆っている。それは、まさに悪臭でしかない。このような悪臭に満ちた人間を美しい国と言っているにすぎない。このような臭いならば、まだ紫煙のほうが優雅である。

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大学共同幻想と大学講義ーー馬鹿が理想論でやって来る

 

大学共同幻想と講義

それは大学内の講義室以外の場所だけではなく、講義で話す内容もまた、理想論でしかない。理想的人間が発話する状況のみが講義の対象になる。地方自治論もまた、その例外ではない。「自覚した市民として政治に参加する」と言う命題を考えてみよう。市民の多くは政治的自覚に乏しい。選挙という数年に一回の法的に制度化された政治参加の権利すら、行使しない市民は数多い。自己利益にある場合、たとえば公共事業の入札に参加する企業の構成員、関与者等の場合を除き、普遍的利益の貫徹を目的にした市民による政治参加の機会は少ない。そもそも、自己の利益以外の公共的利益にすべての市民が関心をもつという前提に問題が多い。

しかし、このような理想的人間が関与するという設定を大学での講義の前提にすることは間違っているのか。そうではあるまい。理想的人間という設定が一定の関係において出現するからだ。もちろん、すべての人間がすべての局面においてそのように振舞うのではない。

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大学共同幻想と煙草ーー馬鹿が車でやって来る

 大学における講義内容と形式が社会全体から隔離されたある種の理想論を追求しているという批判はかなり以前からある。その典型として大学共同幻想論がある。つまり、大学の内部においてのみ理想的状態が追求され、そのことが社会全体の非理想的状態の免罪符になっているという批判である。たとえば、大学においてセクシャル・ハラスメントの規定はかなり厳格である。肩をたたくことは言うまでもなく、女性に年齢を聞くことすらもその対象になる。しかし、このような女性の尊厳に関する厳格性は、新宿歌舞伎町における女性の行為様式と好対照をなしている。そこでは、もちろん、肩をたたくということすら、問題になることはない。むしろ、女性蔑視という批判が妥当するような事柄が日々行なわれているであろう。この社会的状況を大学がまさに補完しているという批判である。

 このような大学共同幻想論は1970年代からのセクハラ議論においてむしろ強化されている。あるいは、禁煙をめぐる状況を考察すれば、明らかであろう。多くの学校で労働者の権利としての喫煙が禁止されている。大学内は、セクハラも煙草の紫煙もない清潔な空間として設定されている。

 大学という社会的透明性を要求される場所において、清潔度が進み、雑菌が駆除されている。しかし、雑菌が駆除されると同時に、耐菌性もまた駆逐される。煙草という害虫が駆除され、覚醒剤というより大きな害を吸引しているようだ。煙草の紫煙という害を駆除し、自家用車の排気ガスを吸引させられる。清潔という尺度もまたいかがわしい。

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