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討論会の成果ーープロレタリアート的存在

 本記事に投稿ありがとうございます。プロレタリアートが初期近代において一部の階層であるのに対して、後期近代において社会全体をほぼ覆うようになりました。しかし、社会全体を覆うことによって本来、福祉の対象ではないはずの人間をその対象にしたり、あるいは過剰な福祉をもたらしています。たとえば、老齢年金を例にとれば、月額27万円という数字は珍しいものではありません。この数字は、かなり異常でしょう。若者の階層で月に手取り27万円という人が何人いるでしょうか。介護福祉士であれば、額面15万円、手取り10万円程度でしょう。月給15万円の介護福祉士が、月額27万円の高齢者を介護するという現象は、珍しくありません。

 このような過剰を引き起こす福祉の実態は、このまま推移するとは思えません。労働市場は需給関係が主たる役割を果たしています。福祉の実態は政策的判断と旧来の社会的意識によって決定されます。どのように推移するのか、今後の検討課題です。

 

 

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討論会の成果ーー公共的利益と私的利益

 本記事に投稿ありがとうございます。結論として、どのような場所に公共的利益を設定するのか、ということです。公共的利益が私的利益の集合体ではないとするならば、別の箇所にそれを設定しなければならないでしょう。通常問題になるのは、生命と財産の保護の問題です。それ以外に設定されるのは、公共交通網、公共教育等の限定された分野です。ただし、この概念は絶対的ではありません。なぜなら、私的交通、私的教育が容易に対置されるからです。ただし、公共的分野はあるという点は、考察されるべきでしょう。どの点が公共的分野であるのか、を確定する作業が必要でしょう。

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討論会へのお誘いーープロレタリアート的存在

 初期近代においてプロレタリアートは確実に存在した。このプロレタリアートの社会内統合か、あるいはその社会変革能力による社会外化が論争になった。プロレタリアートという社会的階層は、はたして近代社会総体を変革しようとしたのであろうか。

 後期近代に生きる我々にとって、このような問題すらが嘲笑の対象になる。しかし、プロレタリアートという社会存在が消滅したのではない。社会を微視的に考察すれば、初期近代のプロレタリアートという社会存在と相似している人々が確かに存在する。しかし、彼らの存在が現代の中核的社会問題として認識されていないだけである。

 今、格差社会が問題になっている。ドイツでも、「下層」という言葉が一般化しつつある。もちろん、侮蔑をこめて。この下層者ははたして社会変革能力を有しているのであろうか。この問題は論争的である。忌憚のない論争が生じれば興味深いものになろう。

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討論会へのお誘いーー公共的利益と私的利益

 公共的利益が私的利益と別に設定可能か否かという問題がある。公共的利益が万人の利益であるとするならば、それは存在しないであろう。また、公共的利益が私的利益と別であるとするのが、近代の二元論である。公共的利益が私的利益の集合体であるとするならば、公共性とは私的利益の調整にしかすぎない。この問題を考える場所として、本記事を設定する。

 コメントによる討論の場所として、この記事がある。討論という場所は、現代社会においては設定し難い。理性的討論を希望する。

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福本伸行漫画と政治学ーー社会的役割の交換可能性

 福本伸行は労働者の生態を正確に描いている。そこでは、労働者は交換可能性の恐怖に曝されている。つまり、自分の労働は誰にでもできるのであり、年をとればとるほど、若年労働者との差異がなくなり、失業の恐怖に怯えている。近年、業績原理が社会的役割を決定するという議論があった。しかし、黒沢のような労働者にとって、業績をあげるということはほとんど不可能である。単純労働に従事しているかぎり、業績を上げる機会そのものがないのだ。そのような労働者が社会的に報われる機会が少ない社会とは、なにか。業績主義という幻影は、ほとんど高級労働者にしかあてはまらない。多くの労働者はこの原理から疎外されている。

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冴えない40歳近い独身労働者ーー黒沢の死(福本伸行「最強伝説、黒沢」)

 『ビックコミックオリジナル』第18巻、小学館 2006年において、福本伸行「最強伝説、黒沢」が終了した。2006年9月5日の出来事であった。もちろん、黒沢の死によって。この漫画が連載された当初から、黒沢の死で終わることが予感されていた。伝説はその死後生じるからである。

 この人物は30歳代後半の冴えないおじさんである。結婚もできず、職場でもあまり相手にされていなかった。ところが、突如として、自己の人生の意義について考え、世間と闘争することになった。その結果の死である。この死はもちろん、幸福な形で迎える。多くの信奉者に看取られながら、その死を迎える。伝説になった英雄として。

 しかし、多くの30歳代の独身労働者がそのような幸福な死を迎えるのではない。伝説になるのは、少数者でしかない。同世代の平均的年収以下の労働者は、そのまま社会の片隅で一定の享楽にふけりながら、定年を迎えるであろう。

 福本がこのような労働者の生態を描いたことは着目すべきである。ただし、英雄になるのではなく、むしろ生涯「セコイ」生き方をしながら、生きてゆく労働者の生態を描いたほうがより面白かった。この漫画においても、印象に残っているのは、職場で相手にされず、町のなかでも相手にされない前半部分であった。そのような悲惨な生活のうちにも、小さな喜びはあった。そのセコイ喜びと冴えない人生との矛盾こそが、漫画の醍醐味であろう。もちろん、そのような設定が万人にとって面白いとはかぎらないが。いつの間にか、こうなり、なぜそのようになったのか、を反芻する英雄ではない冴えない黒沢に興味はつきない。

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いしいひさいちと小林よしのりーー共同性の位相

 先の記事において、いしいひさいち漫画における共同性と小林よしのり漫画における共同性の差異を論じた。その際、どちらも漫画における共同性も優劣がないと書いた。その意味をさらに詳細に論じてみよう。

 いしいひさいち漫画における共同性は、下層貧民における共同性を前提にしている。そこでは、あくまでも平等な主体として形成されている。この点は、後期近代における共同性との相似形をなしている。もちろん、実体として、この共同性は存在しない。しかし、理念上は大衆民主主義における基本構造、つまりどのような経済的差異、社会的地位の差異にもかかわらず、国民が平等であるはずだという市民社会の理念との関連性を保持している。

 それに対して、小林よしのり漫画における共同性は初期近代における共同性を前提にしている。もちろん、後期近代においてもこの共同性に対する憧憬はある。しかし、それは完全に過ぎ去った時代に対する憧憬でしかない。まさに、自民党政治の40年の支配はまさにこの共同性を破壊することにその目的があった。郵政民営化による地方破壊はその総決算にしかすぎない。地方、つまり郷土を破壊し、それに対する愛着をほぼ完璧に破壊してきた。この破壊された共同性に依拠する理論は、その実現性に問題があろう。もちろん、文学、あるいは漫画において、この共同性に依拠して、作品を形成することは可能である。しかし、もはや我々は愛すべき郷土を喪失している。

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