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細木数子と近代合理性

 「細木数子への過信ーー『おさる』と『次長課長』」の記事に対して、田舎の神主氏から興味深いコメントをいただいた。本記事はそれに触発されている。しかし、独立した記事である。

 細木数子等の占い師がマスメディアにおいて跋扈している。ここでそれを根拠のないことして、葬りさろうとすることはしない。彼らが出現する根拠はあるからだ。それに対する論拠づけは引用記事の前の記事において述べたので、ここでは再論しない。一言で言えば、人間の理性は人間それ自身を把握していないことにある。人間理性によって把握できない「大いなる力」によって、我々人間が存在することが、彼らが出現する理由である。

しかし、彼らはこの大いなる力を近代合理性の領域へと結びつけようとすることに問題がある。端的に言えば、金銭の領域へと結合させようとする。確かに、占い師等は、この大いなる力の一端を我々通常市民よりも熟知しているのであろう。しかし、彼らもまた大いなる力そのものではないし、またそれを把握できる者ではない。占い師等も近代社会の一員として生きている以上、自らの知識を金銭することは必然であろう。それ自身を咎めることは無意味であろう。しかし、彼らもまたその近代合理性にとらわれるならば、滑稽であろう。彼らも人間であり、この大いなる力の前に謙虚であるべきであろう。

聞くところによれば、一部の占い師等は、飲み屋で数百万円の金銭を蕩尽したこともあると言う。しかし、労働者の平均年収を一晩で浪費することを自慢しても始まらない。泡銭を持った中小企業の社長であれば、誰でもできることであるからだ。近代合理性を越えたと自称する占い師が、近代合理性=金銭化を自慢することにこそ、その胡散臭さがあろう。

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