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分をわきまえること

 分をわきまえるということは、前近代社会的な思考として近代においてタブーになっている。この思想が生来の身分的秩序に由来しているからだ。もちろん、家柄という思想は近代思想とは相容れない。しかし、遺伝子情報も含めて生来的制限性はより強調されるべきだろう。

 しかし、ここでは生来的制限性について述べようとするのではない。むしろ、人間的自由の成果として、年齢が加わるとともに積み上げられた業績について述べておきたい。人間が生きているかぎり、負の業績も含めて様々業績を積み上げている。生きている限り、なんらかの行為をしているからだ。その行為から、ほぼ未来の可能性は制限されている。

 たとえば、過去50年間、ほとんど政治的に意味のある行為をしなかった大学教員が、政治的人間になることが可能であろうか。知事選に立候補したりすることが可能であろうか。思想的にも自民党や民主党とは相容れない政治思想を持ちながら、安倍政権における民間出身大臣になることが可能であろうか。 

 あるいは、60歳まで女性にもてたことない男性が、突如として20歳の麗しき女性と結婚することが可能であろうか。そのような事例はもちろん皆無ではない。しかし、そのような幸運を当てにして、生きることは果たして成果のあるものであろうか。

 この意味において分をわきまえることが必要ではないであろうか。

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