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いしいひさいち戦争論と政治学ーー小林よしのり『戦争論』との対比

 戦争論と言えば、クラウゼヴィッツの戦争論まで遡及しなければならないであろう。しかし、兵士の存在様式という観点からすれば、ここでは小林よしのり戦争論との対比において、いしいひさいち戦争論の本質を考察してみることにも意義があろう。小林よしのり戦争論における共同性は初期近代における村落共同性を前提にしている。兵士になることはこの村落共同体の義務であると同時に、権利でもある。兵士になることによって、この村落共同体の一員、あるいはその英雄となる(小林よしのり『戦争論』幻冬社、1998年、288頁)。このでの共同体は明白に初期近代における日本に限定されている。まさに、郷土がクニである。国家的共同性と村落共同性が二重化している。

 それに対して、いしいひさいちの戦争論において、平等主義的原理は近代一般の理念として導入されている。平等主義的原理において、英雄性とは無縁である。徴兵された兵士であろうと、職業軍人であろうと、志願して死地に向かうことはほとんどない。あくまでも、自分の生命の安全確保が第一義的である。そこには戦争における栄光はない。まさに、小林よしのり的英雄性から対極において戦争論が語られている。

 むろん、いしいひさいちと小林よしのりのどちらが優れているのかということに拘っているのではない。むしろ、両者ともに戦争の本質を捉えている。導入された共同性の時代的本質が異なっているからだ。しかし、いしいひさいち戦争論は、悲壮感がないだけ、娯楽としての漫画の本質に近いとも思える。

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いしいひさいち戦争論と政治学ーー平等原理

 いしいひさいちの漫画において平等原理が大きな役割を占めている。それは初期の漫画『Oh、バイト君』においても確認できる。そこでは、東淀川貧民共和国と命名された平等主義的原理に基づく共同体が確認されている。この共和国の住人は貧困に基づく共同性をかなり楽しんでいる。わけもなく集い、そしてどうでもよいことに拘っている。このような共同性は現在、都市最下層の人間において見出すことは困難になっている。初期近代から後期近代への移行期において、その移行を免れた、あるいはその移行への潮流に乗り遅れた住民たちの共同性である。

 それは昨今流行した『三丁目の夕日』と同一の位相にある。初期近代における都市共同性へのノスタルジーに基づいている。現在、このような共同性の位相は、現在もその建物が残存しているという仲野荘にもないであろう。そのような共同性の原理を、戦争漫画にも導入している。

 徴兵された兵隊における共同性である。この平等主義的共同性が彼の戦争漫画を支えている。

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いしいひさいち戦争論と政治学ーー市民社会の理念

 いしいひさいち戦争論は数々ある。本ブログで紹介した本だけではなく、『戦場にかける恥』等の有名な本がある。また、忍者物も戦争論に加えると、その数は膨大なものになるであろう。

 そして、そのどれもが面白いのである。この面白さの源泉は、いしいの描くような軍隊組織が現実態において存在しないことにある。その一つは、本ブログでも紹介したように、士官と兵が隔絶しており、兵隊の間に序列がないことである。現実の軍隊において、平等な兵隊という設定は存在しない。徴兵された兵士はここでもまた、ヒエラルヒー化されている。その軍隊歴によって、差別化されている。軍曹、少尉等は軍歴の長さに比例して設定されるはずだ。ちょうど、市民社会における平等な市民ということがフィクションであると同様だ。

 しかし、本ブログで取り上げた漫画の設定においては、平等な諸兵が同盟罷業のようなことをしている。実際には、この同盟罷業、ならびその基礎にある兵員同士の平等性は存在しない。にもかからず、市民社会の理念、つまり理想である平等性を持ち込むことによって、この漫画の面白さが成立している。

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いしいひさいち戦争論と政治学ーー命令組織

 Photo_2 いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁。

   (C)いしいひさいち(2006.9.15)

 軍事組織における文民統制という問題が欠けているという批判を受けた。どのような官僚組織であれ、その命令機構に対する制御装置はある。労働組合であれば、命令の人間性、あるいは法治性を制御するための機能を備えている。

 しかし、どのような命令組織であれ、その本質は命令性にある。ここで、軍隊における命令性について述べてみよう。文民統制がある軍事組織とない組織を比較してみよう。文民統制ということは、その組織の最高司令官が文民であることでしかない。そのピラミッド組織の頂点に文民がいることでしかない。日本の自衛隊を例にとれば、最高司令官が内閣総理大臣であることを意味している。この司令官は国会議員であり、選挙という洗礼を受けている。しかし、この組織成員にとって、その命令が絶対であり、その命令に従うことが組織的な理性を表現している。もし、彼が文民でなくとも同じことである。軍隊組織は上官の命令に従うことが義務になる。多数意見など、問題ではない。それが上官の命令であるという単純な事実しかない。この意味で軍人にとって、文民統制があるかないかなど、ほとんど問題ではない。最高司令官の命令に従うだけである。これが、軍事組織に代表される官僚組織の本質である。

 いしいひさいちはこの本質をこの漫画において見事に描き出している。

 

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教員は教員らしくーーー社会的役割の転換不能性

 先の記事において、「分をわきまえろ」というかなり制限的生き方を述べた。しかし、同一の事柄をより積極的に言えば、以下のようになる。つまり、職業選択を例にとれば、一旦選択した社会的役割は転換困難であることである。若い時に選択した職業を後になって転換することは、困難であるのだ。通常の現代社会学の理論によれば、社会的役割、つまり機能は代替可能である。しかし、それは社会をマクロ的に見た場合でしかない。

 しかし、個人的水準に限っていえば、60歳近くまで教員をやって、先生と呼ばれることに慣れていた人間が、別の全くことなる職業、たとえばスナックの店長になることが可能であろうか。如何に現代社会において、転職が一般的であったとしても、それは同一の、あるいは周辺の職業に転換しているにすぎない。あるいは、ヘッドハンティングの例が示しているのように、ほとんど同業他社への移籍でしかない。

 この記事で主張していることは、その職業、たとえば教員であれば、その職業に邁進することでしかない。それ以外の方途はないことである。もちろん、例外はある。しかし、その例外には伏線があるはずである。外食をしたことがほとんどない、元教師が、水商売で成功するであろうか。教員組織という官僚機構の末端を担ってきた小学校教員が、退職後すぐさま、客商売が可能であろうか。

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分をわきまえること

 分をわきまえるということは、前近代社会的な思考として近代においてタブーになっている。この思想が生来の身分的秩序に由来しているからだ。もちろん、家柄という思想は近代思想とは相容れない。しかし、遺伝子情報も含めて生来的制限性はより強調されるべきだろう。

 しかし、ここでは生来的制限性について述べようとするのではない。むしろ、人間的自由の成果として、年齢が加わるとともに積み上げられた業績について述べておきたい。人間が生きているかぎり、負の業績も含めて様々業績を積み上げている。生きている限り、なんらかの行為をしているからだ。その行為から、ほぼ未来の可能性は制限されている。

 たとえば、過去50年間、ほとんど政治的に意味のある行為をしなかった大学教員が、政治的人間になることが可能であろうか。知事選に立候補したりすることが可能であろうか。思想的にも自民党や民主党とは相容れない政治思想を持ちながら、安倍政権における民間出身大臣になることが可能であろうか。 

 あるいは、60歳まで女性にもてたことない男性が、突如として20歳の麗しき女性と結婚することが可能であろうか。そのような事例はもちろん皆無ではない。しかし、そのような幸運を当てにして、生きることは果たして成果のあるものであろうか。

 この意味において分をわきまえることが必要ではないであろうか。

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人生の転進と細木数子

 過日の記事において、過去数十年かけて構築した人生を転換しなければならないときがある、ということを書いた。その決断はその業績が偉大であればあるほど、困難である。その業績にとらわれることが多々あるからだ。もちろん、その業績を捨て去るべきであると主張しているのではない。むしろ、そこに付け加えるべきであるのだ、何かを。ただし、この決断は非常に困難であろう。しかも、本人自身がその必然性を自覚しているがゆえに、それが問題であるのだ。

 このときこそ、細木数子のような占い師にお伺いしてみるべきであろう。その際、多くの知識人は、占い師という人に対して懐疑的である場合が多い。科学者はすべてを科学に還元しがちだからである。しかし、個人の人生を科学的に証明することは不可能であろう。このときこそ、大手を振って、占い師に預けるべきである。

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大学教員への途と転進の困難性

 多くの人間にとって、就職ということが人生の転換点になることが多い。もちろん、就職しないという選択肢、つまり広義のニートになることや、就職した企業等から離職することも含めてである。しかし、人間にとって、その選択は必ずしも自己の適性を選んでなすわけではない。もちろん、自己の適性という観点もかなりいい加減である。

 たとえば、新聞社に就職しようとする。しかし、新聞社は巨大企業であり、新聞記者だけで運営されているのではない。広告代理店のような仕事や経理専門の仕事もあるし、拡販、配送業務も重要な役割を担っている。このどれに適性があるのか、必ずしも明瞭ではない。

 大学教員という職業においてもその役割は多様である。生徒集めという観点から、退職高校教員、教育委員会出身者が必要であろうし、広告塔という意味で芸能人が大学教授になることも必要かもしれない。大学教員がすべて研究者ではない。しかし、20数年前までは、大学教員とは研究者であるべきであるという確固とした前提があった。この前提が今崩壊している。これから大学教員になろうとする者は、このようなことも考慮しているのであろう。しかし、今まで大学教員とは研究者である信念のもとに研究を継続してきた博士号取得者は、このような状況下において何をなすべきであろうか。研究者を止めて、別の道に転進可能であろうか。40歳、50歳を越えて研究以外の業績を積むことはほとんど不可能であろう。

 必要以上に媚を売ってもしようがないし、ペコペコしてもしようがない。研究方向を自らの信念に従って設定するしかない。

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細木数子と近代合理性

 「細木数子への過信ーー『おさる』と『次長課長』」の記事に対して、田舎の神主氏から興味深いコメントをいただいた。本記事はそれに触発されている。しかし、独立した記事である。

 細木数子等の占い師がマスメディアにおいて跋扈している。ここでそれを根拠のないことして、葬りさろうとすることはしない。彼らが出現する根拠はあるからだ。それに対する論拠づけは引用記事の前の記事において述べたので、ここでは再論しない。一言で言えば、人間の理性は人間それ自身を把握していないことにある。人間理性によって把握できない「大いなる力」によって、我々人間が存在することが、彼らが出現する理由である。

しかし、彼らはこの大いなる力を近代合理性の領域へと結びつけようとすることに問題がある。端的に言えば、金銭の領域へと結合させようとする。確かに、占い師等は、この大いなる力の一端を我々通常市民よりも熟知しているのであろう。しかし、彼らもまた大いなる力そのものではないし、またそれを把握できる者ではない。占い師等も近代社会の一員として生きている以上、自らの知識を金銭することは必然であろう。それ自身を咎めることは無意味であろう。しかし、彼らもまたその近代合理性にとらわれるならば、滑稽であろう。彼らも人間であり、この大いなる力の前に謙虚であるべきであろう。

聞くところによれば、一部の占い師等は、飲み屋で数百万円の金銭を蕩尽したこともあると言う。しかし、労働者の平均年収を一晩で浪費することを自慢しても始まらない。泡銭を持った中小企業の社長であれば、誰でもできることであるからだ。近代合理性を越えたと自称する占い師が、近代合理性=金銭化を自慢することにこそ、その胡散臭さがあろう。

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大学教員の不幸と幸福

 大学教員への道における社会思想史専攻者と看護学専攻者の幸福と不幸について述べた。しかし、社会思想史専攻者はどのように逆立ちしても、看護学へと転向できないではないか、という批判を受けた。しかし、この趣旨は社会思想史専攻者でも、より売れ線の隣接学問分野への転向が可能だということである。経済思想史専攻者であれば、国際経済への専攻替えは可能であろう。隣接するより社会的需要の高い分野への変更である。

 かつて、戦前において、経済数学は数学原論よりもかなり水準の低い時代があったそうだ。食えない数学者が経済数学に大挙して、侵入してきた事例は著名である。このような学問水準の違いは現実にかなりある。市役所でもらってきたパンフをそのまま印刷してきたような研究論文は多々ある。そのような論文が研究論文として扱われている分野はある。

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人事と天命ーー大学教員の幸運と不運

 先ほどのブログで、占い師へのかなり甘い評価を述べてきた。人事を尽くしてもどうしようもないことは、世間に一般的であるからだ。しかし、「おさる」の例で述べたように、人事を尽くさず、天命にばかり依存することは、天命自身を侮辱することになる。

 ここで、大学教員資格と現実の大学教員になることも、この事例を考察する論拠につながるであろう。たとえば、社会思想と看護学を取り上げてみよう。社会思想に関する大学教員資格を持つものはかなり多い。しかし、その教員募集は年間を通して1件あるかないかである。社会思想だけを専攻するものを対象にした公募はほとんどないと言っても過言ではないであろう。経済思想、あるいは社会学との抱き合わせ公募である。その多くは、大学院修了後、10年から30年、浪人生活を余儀なくされる。その間、非常勤講師等でしのぐしかない。

 それに対して、看護学を研究対象にする公募は、その100倍にものぼるであろう。少なくとも年間を通して、公募はある。そこでは、社会思想を専攻する者に比較して、かなり容易な途であると考えられる。単純に比較することはできないが、後者においてその審査は社会思想にくらべれば、かなり柔軟であろう。少なくとも、博士論文を要求するような公募条件はほとんどない。学術図書を数冊要求されることは稀であろう。

 ここで、社会思想専攻者は、その不運を嘆くことが適当であろうか。果たして、大学教員になるというための人事を尽くしていることになるのであろうか。

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細木数子への過信ーー「おさる」と「次長課長」

 先のブログで、占い師へと依存する必然性を述べた。しかし、占い師への全面的投企はもちろん、馬鹿げたことである。この事例として、細木数子によって、それまでそこそこ売れていた「おさる」が有名である。芸人にとって、芸名は芸のうちである。手に確固した芸を持つ職人とは、その点において全く異なっている。にもかかわらず、「おさる」は、「モンキッキー」へと改名した。もちろん、その後その改名が機縁となり、売れることもあるかもしれない。しかし、芸人は芸を自ら開拓するしかないのだ。その芸自身を占い師に委託した点において、芸人では無くなってしまう。この点において「次長課長」は、芸名の変更を拒否したという。当然であろう。占い師は芸の内容にまで踏み込むことはできないからだ。

 もちろん、おさるがその芸名を「モンキッキー」へと自ら変更しようとするとき、その変更の妥当性を占い師に委託する場合はこのかぎりではない。その決断にいたる前には、躊躇いがあったであろうし、改名への必然性も自覚していたであろうから。突然、占い師に改名を提案され、それを受託することは、無謀であるとの謗りを免れない。自らの人生を切り開こうとする前提が欠けている。そこまで、占い師は面倒を見切れないはずである。占い師もまた、この領域への能動的参加をすべきではない。

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細木数子と伝統的宗教

 細木数子等の占い師がテレビを跋扈している。この占い師に心霊研究家、透視家等を参入すると、この数は膨大になるであろう。この数の増大は、伝統宗教の衰退と関連している。近所にある神社に参詣する人はほとんどみかけない。数10年前までは宮司がいた神社も、現在では無人化されている場合がほとんどである。その意味で、総体的には広義の神仏信仰は変化していないのかもしれない。数十年前までは、近所の神社仏閣に参拝していた人間が有名な心霊術師、占い師等に熱狂しているのかもしれない。

 このテレビ雑誌等において有名になった占い師に熱狂することは、他面において必ずしも悪いことばかりではないと考えている。個人存在の何か大いなるものへの連関を感じているからである。自己の存在の矮小性を自覚しており、努力だけではできないことがあるということを無意識的に感じているからである。少なくとも、自分の努力だけで入学できたと考えている大学生、あるいはその地位に優越しか感じていない社会的エリートよりもましである。

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