« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

細木数子と江原啓之の必然性

 細木数子等の占い師が今、週刊誌、マス・メデイアに頻繁に出現している。もちろん、彼らに対する批判は強い。その占いの結果が明かになるにつれ、その論理的不整合が問題になっている。また、霊という科学的には証明不可能な事柄に依拠していることも問題になっている。

 しかし、決断に対して不確定要素があるかぎり、このような占い師に対する依拠はなくならないであろう。すべての決断は不確定な判断に基づいてなされているからだ。日本の歴代の政治的指導者が、故安岡正篤にその決断を相談したことは周知である。その衣鉢を継承するといわれている細木氏が、テレビ等で持て囃される意味もこの点にある。

|

決断と賭博

 何かを決断するとき、つねに不確定要素が混入してきる。たとえば、転職の誘いを受けた場合とか、仕事の依頼を受けた場合である。あるい、就職、入学等の人生の節目には、必ず不確定要素が入ってくる。どのような事前調査をしようと、将来の仕事の全容を把握することは、不可能に近い。その決断には不確定要素が混入し、決断はすべて賭博的要素を抱え込むことになる。

 このような決断を恒になしている場合、その不確定性に恐れおののくのか、あるいは自分なりに何らかの基準を設定しているのか、人それぞれであろう。自分はかなり流されてゆく行くほうかもしれない。周りで御輿として担がれれば、仕方の無いと考えがちである。どのようにすべきかわからないことが多い。

 

|

ニート論全文の掲載

 ニート論全文を掲載しました。自分でも何を書いたか忘れていたので、備忘録的意味で書きました。

|

ニート論補論ーー大阪女性監禁事件によるニート定義の拡大

 大阪の女性監禁事件の村本容疑者は、ニート論に対して大きな衝撃を与えた。彼は、形式的にはニートではないが、実質的にはニートそのものである。ほぼ毎日、女性監禁者との交渉が彼の日常生活の主になっていたからだ。なぜ、そのようなことが可能になったのであろうか。なぜなら、中小企業経営者は、その子弟を経営に参画させること、あるいは適当な仕事を与えることによって、形式的には無職者ではないことにすることができるからだ。経営者、あるいは非常勤役員は毎日出社する必要がないし、たまに開催される取締役会に出席するだけでその業務を遂行できるから。

 このように考えてくると、ニート、あるいはニート予備軍はかなりの社会層に存在することになる。主として、親族に生計を依存する65歳以下の人間はかなり多いからだ。その問題を看過して、たんに若年失業青年、待業青年に仕事を斡旋するという単純な手段によって、ニート論は何ら解決されることはないであろう。

|

ニート論:補論ーー大阪の女性監禁容疑者

http://newsflash.nifty.com/news/keyword/kankin/tk__yomiuri_20060803i514.htm

 大阪で女性を監禁したという容疑で42歳の男性が逮捕された。報道等では裕福な父親に生活を依存していたという。また、複数のマンションを所持したようである。彼が現在、どのような社会的役割を演じていたかは、明らかではない。可能性として、父親の経営する会社に就職していたか、あるいは経営者の一員であったかもしれない。いずれにしろ、長期間、女性を監禁するためには、すくなくとも通常の労働者のような生活、すなわち朝7時に起き、夜8時以降に帰宅するという生活をしていたとは想像できない。おそらく、監禁生活が主であり、通常の労働が従であったことは確かであろう。

 父親に生計を依存し、40才過ぎても生活できるという観点からすれば、彼もまたニートである。このように労働から解放された人々の一部は、自己の趣味に没頭しがちである。それ自体は反社会的行為ではないが、その土壌を形成していることは確かであろう。もし、彼が競輪、競馬等に依存していれば、もちろん反社会的ではない。それらの行為は賭博に限りなく近いが、国家によって正々堂々と認知されている。JRAは堂々と広告を打っているからである。競輪、競馬に没頭していたならば、少なくとも彼は犯罪者ではなかった。

 しかし、このような労働から解放されている人々は、他者にとってあまり有益とは思われない行為に走る可能性をもっている。小人閑居して、不善をなすからである。日本、そして先進資本主義国家はこのような人間を産出するだけの富を蓄えている。その基盤は確実に社会において存在する。

|

ニート論Ⅸ; 永遠の時間

 ニーとは永遠の今を信じている。今の状態が永遠に継続することを前提にしている。すべての時間は今において止まっている。永遠に司法試験の勉強ができるし、音楽の修行が可能である。ニートをめぐる関係においてのみ時間は止まっている。

 しかし、時間は立ち止まることはしない。ニートの経済的基盤になっている親の収入は、永遠に今のままであろうか。また、年金生活に移行すれば、収入は減少しないのであろうか。それ以上に、自己の肉体は屑鉄化してゆく。勉学の意欲が減少するし、勉学の能力もまた減少するであろう。

 もっとも、ニートも年金生活に入れば、労働したものと同じ社会的地位、すなわち年金生活者という地位を獲得する。その意味でニートをしても、勤勉に労働しても結果は同じである。年金生活者という社会的役割を担う。そして、死を迎える。

|

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »