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ニート論Ⅱ後編: 歴史的考察

 

22.2

労働の意味を前近代に遡れば、古典古代と比較すれば、以下のようになる。古典古代において、自由は労働しない市民に限定されていた。市民は労働から解放されることによって、市民的自由を享受していた。この都市国家における市民は、内面的にも外面的にも自由であった。市民はポリスという共同体において、この共同体が信仰する神を信仰し、政治的にも社会的にも自由な存在であった。それに対して、労働する人間は奴隷であり、人間以下の動物的存在であった。奴隷は労働することによって、市民の生活に必要なものを供給していた。市民の自由は、奴隷の労働によって維持されていた。ここでは、労働と自由は別物であり、対極的存在であった。人間的自由を享受することは、労働することと矛盾していた。

中世社会において、身分制社会が出現する。このでは、自由と労働は対極的存在ではなかった。ここでは、労働と自由は古典古代ほど、厳格に分離されていたのではない。身分の上昇によって、自由が上昇する。それに応じて、労働から解放される。身分が下降すればするほど、自由が消滅した。下降すればするほど、労働がより多く分配されていた。

近代社会において市民は労働する市民として現象する。その理念において、自由は市民間において平等に配分されており、労働することも自由と矛盾しない。労働しないことは、反社会的事柄になった。自由は労働を通じて獲得される対象になった。ここでは、労働は少なくとも侮蔑の対象ではない。しかし、近代において獲得された富の集積の自由、労働の結果としての富を用いて、労働から解放されるという事態が生じる。また、近代社会において労働時間は首尾一貫して、減少してきた。修学年限の延長と老齢年金の拡大によって、労働しない市民が拡大する。労働が自由とは結びつかない事態も、近代における労働の質の変化によって生じた。労働することは、能力の低い人間に当て嵌まるという社会的意識が醸し出される。

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