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ニート論Ⅶ: 共同性の崩壊

 

Ⅶ 共同性の崩壊

初期近代において国民国家という擬制が生成する。この国民国家において、国家市民としての共同性が生じる。それは我々という意識である。その意識は様々な水準において構成される。同一の法規範に従うこと、最低限度の生活と何かについて、共同的意識を所有すること等様々である。たとえば、同じ法規範を共有することは、必ずしもその規範に従うことを意味するのではない。しかし、その規範に従わない場合でも、その規範が存在し、その規範から逸脱しているという意識を有していることである。たとえば、売春をしてはならないとか、大麻を吸引してはならないという規範を持っていることである。これは、現代日本の法規範に従うかぎり、悪であるが、別の国家、たとえばオランダの法規範に従うかぎり、問題はない。

ところが、後期近代においてその擬制はかなり衰退してくる。近代における同一性が衰退してくるからである。その要因は多数あるが、近代における個人主義の展開もその一つである。個人が我々という意識を解体しようとする。我々という意識ではなく、個人という意識が肥大化し、前者を凌駕しようとする。初期近代において、個人ではなく、その共同意識が先行していた。この共同意識は様々な水準において設定されていた。家族、親族、地域共同体、そして国家という水準において構成されていた。

 しかし、後期近代においてこの共同性意識が衰退することによって、個人は我々という意識も衰退する。初期近代において、20歳、あるいは30歳において、経済的に両親に依存することは、この共同意識に制約されることによって、不可能であった。親族共同体、あるいは地域共同体によって糾弾されたからである。しかし、この規制がほぼ消滅したことによって、ニートも出現してくる。30歳、あるいは50歳になっても両親の賃金、あるいは年金に依存することによって、生活可能な若者(50歳、60歳の若者?)が出現してくる。ニートは、おそらく70歳になっても年金生活者としてニート的生活を送ることになる。

 

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