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働いたら、負けであるーーニートと労働

 最近のあるテレビ番組で、ニート問題が取り上げられた。そのなかで、ニート君の言った言葉が忘れられない。「働いたら、負けである」と。この言葉は、あざとい冗談として、笑い飛ばされたが、一面の真実を突いていないわけではない。ここでその意味を考察してみよう。

 かつて前世紀初頭、貧困は社会の責任か、個人の責任かという論争があった。その当時は階級対立が激化していたこともあり、貧困は資本主義という社会問題に還元され、現在の福祉という用語の前身である「社会事業」が社会的に認知された。それは、初期資本主義国家が後期資本主義国家、つまり社会国家へと変態する契機になった。

 同様なことが、ニートという社会的存在にもあてはまる。彼らは仕事もせず、専門学校、大学、大学院等への就学もしない2030歳代の若者である。この若者は、生計全般を両親に依存し、労働という社会参加の形式を放擲している。その多くは、ボランティア活動等の社会参加の形式も拒否し、通常自分の部屋に一日中引きこもっているようである。

 彼らの問題は、通常その個人責任に帰せられているが、その総体的観点から考察すれば、社会的責任の問題と関連している。ここでは、その個人的責任に関することではなく、その社会的責任について関説してみたい。

 彼ら問題が社会的問題となる第一の理由は、後期近代において労働に対する社会的承認力が低下していることにある。労働することは、社会的に尊敬されるものではなく、必要に迫られて行う苦役の一つにしかすぎない。とりわけ、大学院等の就業年限が延長されたことにより、20代で労働に従事することは、誇りではなく、屈辱の一つになった。親に資金的余裕がある場合、その子弟は労働から解放されている。ニートであることは、屈辱ではなく、むしろ彼らの誇りの一部ですらある。

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