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極端な二つの解釈ーースピノザとライプニッツ

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 スピノザとライプニッツと実体概念とその世界像における差異は、近代社会一般においてどのように反映しているのであろうか。そのどちらが近代社会に適合的な理論であろうか。ここでは、両者ともに、近代の二つの側面を反映していると解釈している。厳格に決定されるスピノザの世界像は、抽象化された人間が行為する領域においてのみ妥当するとすれば、それは理想化された公的世界において妥当するであろう。ライプニッツの理論は、個体主義的に行為する私的な市民社会の人間像を反映しているのであろう。もちろん、ここでの公的領域と私的領域は単純に政治的国家と市民社会の二つの領域と等置されることはないであろう。しかし、公的領域が私的領域からそのように映現しているのであろう。

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スピノザと実体

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すべての存在者の属性が実体の属性であり、実体の理性的部分である。これは、スピノザの実体に関する記述である。もしそうであると、この解釈は、通常のように汎神論と読めるだけではない。すべての存在者が実体であるとするならば、実体はすべての存在者である。実体と存在者との区別がなくなり、伝統的な実体概念から逸脱する。もはや、実体を喪失した理論ではなかろうか。

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少子化の原因ーー無限に彼女を取り替えること

 少子化対策として、児童手当の拡充、保育所の拡充等があげられている。しかし、それは、結婚し、子供を生もうと決意した女性に対する援助でしかない。この問題は、小手先の社会政策として解決できるものではない。

 そもそも、結婚しない女性と男性に対する政策が皆無であるからだ。国営見合いなどは、論外である。民間の結婚紹介所は溢れているからである。むしろ、結婚しないのは、なぜかという問題そのものが議論されねばならない。もちろん、婚姻外の子供の産出、事実婚、あるいは非嫡出子が差別されている現状は、ここでの考察とはしない。

 この問題は、現在の男女関係(彼女、彼、以下では彼女に統一する)に対して、双方ともに満足していないことにある。近い将来、現在の彼女以上の女性が出現する可能性がある以上、現在の彼女に子供を生ませることは、その可能性を自ら放棄することに等しい。しかし、現在の彼女以上の水準の彼女を見出すことは、なぜ可能jであるのか。それは、近代が自由という原理をその理念として採用していることと関連している。現実態において個人が自由であるということは幻想でしかない。にもかかわらず、理念としての自由を多くの若者が信仰している以上、次の彼女を追求することになる。この矛盾を教示しないかぎり、このような幻想を信じている人間に対して、子供を生産しろと命令しても無意味であろう。

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働いたら、負けであるーーニートと労働

 最近のあるテレビ番組で、ニート問題が取り上げられた。そのなかで、ニート君の言った言葉が忘れられない。「働いたら、負けである」と。この言葉は、あざとい冗談として、笑い飛ばされたが、一面の真実を突いていないわけではない。ここでその意味を考察してみよう。

 かつて前世紀初頭、貧困は社会の責任か、個人の責任かという論争があった。その当時は階級対立が激化していたこともあり、貧困は資本主義という社会問題に還元され、現在の福祉という用語の前身である「社会事業」が社会的に認知された。それは、初期資本主義国家が後期資本主義国家、つまり社会国家へと変態する契機になった。

 同様なことが、ニートという社会的存在にもあてはまる。彼らは仕事もせず、専門学校、大学、大学院等への就学もしない2030歳代の若者である。この若者は、生計全般を両親に依存し、労働という社会参加の形式を放擲している。その多くは、ボランティア活動等の社会参加の形式も拒否し、通常自分の部屋に一日中引きこもっているようである。

 彼らの問題は、通常その個人責任に帰せられているが、その総体的観点から考察すれば、社会的責任の問題と関連している。ここでは、その個人的責任に関することではなく、その社会的責任について関説してみたい。

 彼ら問題が社会的問題となる第一の理由は、後期近代において労働に対する社会的承認力が低下していることにある。労働することは、社会的に尊敬されるものではなく、必要に迫られて行う苦役の一つにしかすぎない。とりわけ、大学院等の就業年限が延長されたことにより、20代で労働に従事することは、誇りではなく、屈辱の一つになった。親に資金的余裕がある場合、その子弟は労働から解放されている。ニートであることは、屈辱ではなく、むしろ彼らの誇りの一部ですらある。

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職業の外観とニートの労働観

 

ニートと本来的労働、あるいは天職の探求

 ニートの多くは自己に対する誇りを持っている。彼らの多くは、自己にとっての適職、つまり天職を探求している。ここでは、この意義を思想史的観点から考察してみよう。

 ます、ある職業は前以って理解できないことを彼らは理解していない。ある職業、より一般化すればある物を先験的に理解することは不可能であるにもかからず、その彼らの浅薄な知識に従って、ある職業を了解している。たとえば、経営者は創造的な職業であり、単純な労働はニートにとって適職ではない、と考えている。しかし、経営者にとって労働時間という範疇はないことは、彼らの視野に入ってこない。経営者の家では、苦情の電話は、深夜早朝にかかわらず鳴ることもあるし、金策に駈けづりまわり、睡眠の時間もないこともある。金策のため、最終的には自己の生命を犠牲にして、借金を支払うことが視野に入ることも稀ではない。このような経営者の心労は彼らの適職観には入ってこない。ある職業の外観しか、彼らの視野に入ってこない。

 彼らは、その職業の外見しか判断基準にならない。彼らにとって創造的な職業である弁護士を例に取ろう。もちろん、弁護士になるためには、通常法学部に入学し、卒業後もいつ合格するとも確証のない時間のなかで、睡眠を犠牲にしても法律体系を学習しなければならない。5年後とも、あるいは30年後とも時間の限定のない浪人期間を経ている。筆者の同期生には、まだ受験勉強に勤しんでいる者の噂を聞くこともある。そのような過酷な時期を経た後、晴れて一人前の弁護士として働くことが社会的に許される。このような修行期間は彼らの視野に入らない。

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5年後の人生は決定されている

 

41 この原理の個人的生活への適用

 世界における万物が世界内存在の実体から流出した様態であるとするならば、世界における万物は必然的連関の内にある。この意味を個人的水準で考察すると、恐ろしい結論を導くことになる。すなわち、個人的水準においても自由意志あるいは裁量的行為ということが、無意味になるからである。

 たとえば、ある個人(20歳女性)を想定してみよう。この女性が18歳のとき、もう少し勉強していれば、もっと偏差値の高い大学に合格していたであろうと夢想することは、しばしばある。しかし、18歳のときには、そのような認識に到達することは不可能であったし、勉強できる環境にもなかったはずである。現に、今、そこにそのようある存在、現存在としての20歳の特定の女性は、それにいたる必然的連関の内にあるからだ。この思想をさらに敷衍すれば、5年後の25歳の現存在もまた、20歳から必然的連関のうちにある。もちろん、人間が有限であるかぎりその必然的連関を予想することは、不可能であろうが。

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 世界の構造的認識の可能性ーー実体

 

41 世界の究極性と実体

 世界の究極的存在があるという見解は、珍しいものではない。このあるものは、前近代においては、神と総称されていた。また、近代においても神を信じるということは、世界の主要宗教において継続している。しかし、この神は世界内存在ではなく、世界外存在として構成されている。神が世界を創造したという言葉に象徴されるように、世界超越的存在であった。神は自由意志あるいは裁量的行為として世界を創造し、創造できた。それに対して、スピノザは世界内存在としての神を実体と考えた。世界内の現存在は、この実体から流出した様態である。

 世界内存在としての実体は神であると同時に、世界内の現存在でもある。世界の万物は、実体の内にあり、実体は万物そのものである。世界の万物が世界内存在としての実体と必然的連関のうちにあるかぎり、世界において偶然性は存在せず、すべては必然的連関のうちにある。

 人間的理性はこの必然的連関の構造を洞察するだけである。もちろん、実体ではない有限な人間が、この連関構造すべてを洞察することは不可能であろう。しかし、世界が必然的連関の内にあることによって、世界それ自体の構造に関する認識が可能になる。万物を包摂する世界内存在があること、このことこそが世界認識の基礎になる。

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禁煙と一元的世界、困ったJR東日本

 http://newsflash.nifty.com/search?action=1&func=2&article_id=ts__kyodo_20060606ts020&csvname=785353276

 JR北海道に続いて、JR東日本が新幹線、特急電車の全面禁煙を公表した。JR北海道という関連のある会社が、禁煙を公表したときに、嫌な予感がしていた。まず、JR北海道がアドバルーンを揚げて、その様子を見ているのが明らかであった。まさに、悪い予感が的中したようである。

 そもそも、健康増進法の規定によれば、公共機関において禁煙にすべきということはありえない。せいぜい、分煙にすべきであるし、また少々の副流煙は受忍すべきものであるからだ。自動車の排気ガスを吸引すれば、即死であるが、タバコの煙を吸引してもそれほど健康に悪影響を与えることはない。煙草の煙に敏感な禁煙論者は自家用車の排気ガスを問題にしようとはしない。まさに、大きな悪は小さな悪を生贄にすることによって、栄える。ヒットラーと同様な政治手法を行使している。ちなみに、ヒットラーは禁煙主義者であったことは、ここで想起されてよいであろう。

 さらに、このような喫煙者を馬鹿にした規定を作成したことによって、JR北海道、JR東日本は、鉄道利用客が高速道路を使用した移動手段、航空機等に流れることを甘受すべきである。そのことによって、もし経営が悪化しても、自業自得であろうし、まさに今風の言葉を使用すれば自己責任であろう。

 ただし、本ブログはここでタバコを吸引することを主張しているのではない。むしろ、愛煙家も生きてゆける環境を整備すべきであると、主張しているにすぎない。少数者を抑圧し、一元的世界を構成することが、ヒットラーの主張と近似していることを指摘しているにすぎない。共生という原理がここでも適用されるべきである。少々の不快なことを追求するあまり、大きな原理を侵犯していることに、JR北海道、JR東日本は気づくべきであろう。

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世界の法則性ーー初期近代の事例

「本質とその現存在との一致」

実体以外のものは、本質とその現存在は分離している。現存在は自身とは異なる本質からその属性が説明される。しかし、実体において本質とその現存在は一致している。このような実体は前近代において神であった。この実体としての神は、世界超越的存在、世界外存在としてあった。しかし、スピノザは実体を世界外存在ではなく、世界内存在として把握する。世界内存在としての実体は、世界内におけるすべての現存在者をその属性にする。世界内存在者の属性はすべて実体の属性である。実体の属性であるかぎり、その存在は必然的である。前近代にように、世界は神によって創造されたのではない。世界は実体の属性である。神そのものである。実体それ自体である。

 すべて現存在が必然性によって構成されるかぎり、偶然性はない。すべての社会的事象、政治的事象は必然性の賜である。世界は法則性によって構成されている。

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