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共同的自由と個人的自由ーーフィヒテの場合

共同的自由という設定は、前世紀後半以降の後期近代における哲学史、思想史における個人的自由の観点からすれば、奇妙に思えるかもしれない。しかし、個人的自由は共同的自由を前提にしてのみ、初めて成立する。

 しかし、なぜ外面的世界においてこのような抽象的主体を構成できるのか。内面的領域を超えた外面的領域において自由な主体をなぜ設定できるのか。

解答: 人間には、固有目的が存在する。さらに、この固有目的は、自由の実現である。世界は、人間主体の固有目的へと埋め込まれている。この解答には、多くの証明不可能な前提が孕まれている。「アヤシイ」議論にしかすぎない。しかし、フィヒテのように世界を主体へと還元するためには、必要な前提である。

 フィヒテの場合、人間的自然という存在形式において目的共同体的原理が埋め込まれている。自然的人間は、目的共同体的本質が前もって埋め込まれている。この本質は大陸合理論と同様に本来的に、つまり生得的に獲得されている。社会生活における社会法則は、自然法則と融合する。自然法則は、理性と調和する。

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