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世界の実体は、色?

まず、ライプニッツのモナドとして世界の実体を述べてみよう。モナドとは(一)という意味であり、不可分である。それは部分がなく、それ以上に分割不能である。それは微分法的な単位であり、本質を失わない最小の単純な単位であると定義されている。それは単一不可分の点的存在であり、拡がり、つまり面積を持たない。モナドは数学的点であり、モナドの本質は力である。それは、他に依拠しない実体の独立性を備えており、排他性を持つ。「どのモナドも異なる。なぜなら、完全に同一であり、内的差別もしくは内的規定に基づく差別を示さないような二つのものは、自然のなかにはない」(『モナド論』第九節)。ライプニッツはデカルト、スピノザと同様に、世界に実体が存在するとしている。

哲学的実体と日常意識的実体との差異

 ここで、ライプニッツ的実体だけではなく、大陸合理論的実体と日常意識としての世界の実体との区別が必要であろう。いままで、実体ということの説明として、日常的用語における実体との同一性において論述してきた。しかし、後者、たとえば、「世界は色と欲だ」とい言説は、それ自体哲学的実体ではない。なぜなら、色という概念は、それ自体として説明不可能であるからだ。色とは何か、に関して他の概念を援用しなければ、説明不可能である。モナドと比較すれば、それ以上に分割不可能なものでない。

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福祉の充実が少子化を推進する

社会国家の実現と少子化の推進

少子化は、先進国特有の現象である。グローバルスタンダード、つまり地球規模で考えれば、人口は爆発的に増大している。求められている社会政策は、少子化対策ではなく、むしろ少子化の推進である。人口の増大ではなく、むしろ人口の抑制である。しかし、ここでは地球規模ではなく、国民国家の水準で考えれば、人口は減少している。合計特殊出生率は、1.3前後であり、いずれ人口が減少することは、明らかである。

この原因として、女性の社会進出、晩婚化等が挙げられている。しかし、ここでは社会国家、つまり福祉国家の完成にその原因を求めてゆこう。巷に言われているように、福祉の貧困ではなく、福祉の充実によって少子化が進展している。そのように考えなければ、社会国家が未成熟であればあるほど、少子化は進展していない。むしろ、福祉が充実すればするほど、少子化は進展している。

ここでは、老人の寿命の拡大から、この問題を考察してみよう。老人の寿命が拡大し、かつその年金制度が充実しているかぎり、多くの若者は子供を育成する必要がない。老人の年金に依存することによって、生活設計がより可能になる。彼らの老後を生まれ来る新しい世代に依存する必要がないことだけではない。パラサイトシングルだけではなく、若者の生活全般において、老人世代からの援助で生活が可能になる。そのような老人世代の精神的、物質的依存において、子供の生産よりも、もっと楽しいこと、たとえば趣味の世界に生きることが可能だからである。

また、後期近代における社会国家の進展は、個人という意識を拡大してきた。もはや共同体という概念が死語と化している。そこでは、個人は自己の老人化を含めた生活設計を講じる。そこでは、個人の快楽を優先させることが可能であり、子供の生産という重い仕事は、趣味の世界と比較して割りのあわないものになる。

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共同的自由と個人的自由ーーフィヒテの場合

共同的自由という設定は、前世紀後半以降の後期近代における哲学史、思想史における個人的自由の観点からすれば、奇妙に思えるかもしれない。しかし、個人的自由は共同的自由を前提にしてのみ、初めて成立する。

 しかし、なぜ外面的世界においてこのような抽象的主体を構成できるのか。内面的領域を超えた外面的領域において自由な主体をなぜ設定できるのか。

解答: 人間には、固有目的が存在する。さらに、この固有目的は、自由の実現である。世界は、人間主体の固有目的へと埋め込まれている。この解答には、多くの証明不可能な前提が孕まれている。「アヤシイ」議論にしかすぎない。しかし、フィヒテのように世界を主体へと還元するためには、必要な前提である。

 フィヒテの場合、人間的自然という存在形式において目的共同体的原理が埋め込まれている。自然的人間は、目的共同体的本質が前もって埋め込まれている。この本質は大陸合理論と同様に本来的に、つまり生得的に獲得されている。社会生活における社会法則は、自然法則と融合する。自然法則は、理性と調和する。

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目端が利くこと?

 関西の日常用語に「先を見る」という言葉がある。自分にとって、不利益であることが予想される場合(たとえば、倒産寸前の会社の社員である場合)、その境遇から離脱することを言う。よく言えば、目端が利くということかもしれない。ただし、そのようなことをする人間は、信頼されないし、目先の損得にとらわれている人間が成長するはずもないでろう。すべての関係において、損得が優先されるのであれば、損を承知でする人間は馬鹿であろう。

 しかし、敢て敗戦覚悟でしなければならないこともあるであろう。誰かがやらねばならず、しかも損得からすれば、明らかに損の確率が高い場合、やはり「先を見ない」ことが、必要かもしれない。

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二元論は克服すべきであろうか。

 

かつてある書物において、「二元論的世界が構成されることになる。・・・はこの二元論を克服しよとする」と、書いた。このように執筆するとき、二元論的世界像は、克服すべき対象である。二元論は統合されねばならいという思想的弱点として構想されている。たとえば、マルクスのヘーゲル国法論批判にもそのような一節がある。市民社会と政治的国家の二元論である。しかし、一般的に言えば、二元論は克服すべき対象であったのであろうか。もちろん、この問題の背後には、弁証法の問題、つまり対立物はより高次の次元において揚棄されねばならないという思想がある。

 また、日本思想史において、ホンネとタテマエという二元論がある(中根千枝参照)。この二元論もまた克服すべき対象であった。しかし、二元論自身は克服すべきであろうか。市民社会の原理と政治的国家の二元論は近代の特有の原理であるが、その二元論そのものを承認すれば、近代の揚棄の問題も解消する。この克服すべき二元論という問題も考え直すべきであろう。

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生まれつきか、生まれた後か、--観念の生成

人間の観念が生来のものであるのか、あるいは生まれた後の社会的行為を通じて発生すrのか、という論争が初期近代にあった。それは、人間の観念が生得的(生まれつき)であるのか、あるいは生まれたときには、人間は白紙であるかのという大陸合理論哲学とイギリス経験論哲学の論争である。この論争は、人間の能力を考えるうえで、興味深い。 

 生得観念が認められていることによって、人間は理性的存在として規定されている。人間は神によって創造された、生来の理性的存在者であり、万人が理性的存在者である。平等かつ同質的人間像が構成され、理性的人間が自己自身に基づいて真理に到達可能である。複雑な世界が単純な原理に還元されることによって、この真理に万人が接近可能である。平等的世界像が成立し、政治的領域における一人一票制が成立する。身分制的原理において、身分が上昇すればするほど、理性をより多く持ち、身分が低いほど、理性をより少なく持つ。支配あるいは政治的なものに従事する身分と、そこから除外された身分が明確に区別されている。後期の身分制社会において、その原理を根本的に否定する近代的論理が現れる。この点はロックのタブラ・ラサの理論と同様な平等主義人間像を描いている。この点では、大陸合理論とイギリス経験論は相対立する議論ではなく、平等主義的な人間像を選ぶという意味において初期近代特有の思想である。

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少子化と自由論、共同的自由と個人的自由 

自由はイギリス経験論のコンテキストにおいて、個人的自由として考察された。しかし、ドイツ観念論において、共同的自由として考察された。共同的自由がなぜ、問題になるのか。逆に言えば、自由を個人的自由と等置することは、無意味ではないのか。個人的自由は、近代を俟つまでもなく、前近代社会を通低する思想として構成可能である。イギリス経験論は、前近代からの自由の形式を踏襲したにすぎない。

 この共同的自由の概念が忘却されることによって、個人の自由が増大してきた。その極限には、共同体から自立した個人という概念が形成される。この個人化された自己意識は、もはや肥大化し、自ら出生基盤そのもの、つまり人類の再生産ということも放棄する。少子化、子供を生産することは、馬鹿の証明という倒錯した議論が現れる。

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少子化とより良い生活の矛盾

自由の具体的事例として、自由概念をより良い生活を目指す自由として考えてみよう。人間の自然的被規定性を捨象して考えれば、個人の生活を向上させるという選択肢も可能であろう。そのためには、当該個人が生活水準の向上を目的にすれば、たとえば結婚を拒否すること、子供を生産しないこともその選択肢として妥当性を有するのであろう。

通常の若い男女が、とりわけ両親と同居している場合には、結婚して独立すればほぼ高い確率で、その生活水準は低下するであろう。両親と同居していれば、マンション、一戸建ての住居に居住し、その一室をあてがわれている場合が多いからだ。しかし、結婚すれば、通勤に不便でかつ木造アパートに居住しなければならない場合もある。そのような場合、結婚を拒否するという事態も想定できる。また、どのような生活をしている場合でも、子供が生まれれば、確実に生活費における自己の消費可能水準は低下する。

このように考えると、結婚せず、子供をうまないほうが、自己の自由をより拡大するであろう。しかし、生活水準の向上の目的とは何かということを問えば、このような考えには限度がないことになる。

たとえば、年に一度海外旅行に行くことを人生の目的にすれば、この目的が達成された場合、年に二度の海外旅行を目指すことになる。しかし、人間が自然的規定性を保持しているかぎり、限度があるからだ。にもかかわらず、若い男女は寄りよい生活を求めようとする。その目的は何か、もういちど考え直す必要があろう。

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少子化と世界連関

 若者が世界の現状、況やその変革に情熱を喪失しているという批判がある。しかし、1980年代以降の後期近代において、世界把握の不可能性が社会的に承認されて以降、そのための理論的基礎が崩壊しているのだ。そのような世界を提示可能な研究者は、知的誠実性を有しているかぎり、少なくとも大学においては存在しない。むしろ、宗教的な小集団指導者がその役割を担っているのであろう。

 同時に、若者はそして中壮年もまた、世界ではなく、自己=私の探求に勤しんでいる。勤しむだけであれば問題はないが、自己の想念の飛躍的増大は他者それ自体の拒絶にまで至っている。否、自己完結的な世界が世界一般と等置されることによって、他者に対する攻撃にまで至っている。

 このような若者が結婚して、子供を生むという行為から遠いことは当然であろう。少子化対策として育児費用の国庫負担、託児所、保育所の拡充等は、厚生労働省の省益を拡大するだけであり、少子化対策にはならない。むしろ、教育機関において、世界観的学問を拡充することが、一見迂遠な作業であるかの外観を呈しているかもしれないが必要であろう。どのような形で私が世界と関連しているのかが、問題にされるべきである。私という存在もまた、世界連関の一つでしかないことが、確認されるべきである。

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世界の改革は可能か

 世界革命という概念が死語になって久しい。世界革命の前提になっていた世界把握がもはや問題にならなくなったからだ。初期近代においては以下のような物語が社会的に承認されていた。

 「哲学者のみが、世界を解釈できる。未来社会に対する近代社会=現存社会における社会的承認が必要とされる。まず、近代社会の理念=自由の総体が、提示されねばならない。近代社会の矛盾(たとえば、資本家と労働者との矛盾)が未来社会において揚棄される根拠が示されねばならない。現存する社会において、未来社会が現存する社会よりも優れていることが提示されねばならない。もし、そうでなければ、未来社会への現存社会における社会的承認は、得られない。この矛盾が社会主義において拡大するのであれば、その社会に承認力は減じるであろう。」

 このような物語が承認力を喪失したことによって、後期近代が始まる。そこで追放された世界把握という概念は、日常的意識あるいは宗教的意識に拡散されてしまった。

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近代と前近代の差異ーーキャバクラ労働者は身分か?

 最近の記事で、キャバクラ労働者を社会的に差別する言説が、政治の世界において横行した。この意味をここで原理的に考察すれば、以下のようになる。

 

近代社会においてもその自然的存在は現存しているが、公共的圏においてそれは存在しないことになっている現存市民社会において、自然的属性は社会的地位の選択に対して公的には何ら影響を与えない。しかし、人間が自然的存在であり、様々な非規定性を持っていることは当然である。にもかかわらず、近代社会はこの規定された存在を理念上排除することによって、自由であるという幻想を原理とする社会である。近代社会は現実態においては規定された存在であるにもかかわらず、その理念においては自由を指向する社会である。近代社会において万人が自由という価値を指向していることが、すべての事柄の前提であり、必然な社会である。少なくとも、差別、すなわち身分制社会の原理を公的領域において採用しない。近代社会と前近代社会との基本的原理の差異は身分制を公共社会的原理として採用するか否かにかかっている。

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