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体罰と教育ーー理性なき教育現場

@nifty:NEWS@nifty:「体罰は教育」と戸塚校長=刑期終え出所-ヨットスクール事件(時事通信).

http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060429/K2006042901230.html?fr=rk

http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20060429/20060429a4890.html?C=S

 体罰と言えども、暴行であるかぎり、暴行罪、あるいは傷害罪の構成要件をなす。しかし、現役の教師は体罰を好き好んでやっているのではない。たとえば、授業中に廊下を自転車、あるいはバイクで疾走する生徒にどのような言語で接すればよいのであろうか。体罰なしでは、教育そのものが成立しない現場は多々ある。

 体罰をした教師は、それ以前に同一の生徒から暴行、あるいは脅迫を受けているはずである。しかし、マスコミも教育委員会もその事実を看過して、体罰をした教員のみに処罰を加え、最悪の場合、その教師を懲戒免職にしている。しかし、その教員を脅迫した生徒、暴行を加えた生徒は、未成年であり、子供の権利に守られ、のうのうと生きている。このような生徒に対して、体罰なしに、どのような教育が可能であろうか。

 教育を施す以前に、教師の肉体が破壊されても、自己都合退職を強制されるだけである。

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後期近代と世界観の変容

 

1989年のベルリン革命以後、マルクス主義的世界像が少なくとも公的世界において崩壊して以後、その世界像は宗教的世界像へと転換する。後者は、前者に保持されていた科学的つまり学問的検証可能性を破棄し、神秘的世界像に委ねることになる。後者の世界像は、前者に含まれていた検証可能性を破棄した代償として、神秘化され少数の選民に委ねられることになる。したがって、その世界像は同時期に乱立することになる。もちろん、前者のマルクス主義にも、もちろんその要素はあった。その教義は神秘化され、その解釈をめぐって多くの党派が乱立していた。結果として多くの党派が乱立したとしても、その教義解釈に何らかの資格が必要であったわけではない。しかし、宗教的世界像において、万人に了解されるものではなく、少数者に了解されることが前提である。そこにおいて、宗教的理解に対して様々な段階が前提にされ、その世界像を完全に了解可能な人間は、教祖あるいはその周辺にいる人間だけである。

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後期近代と暴力革命

1960‐70年前後を境界にして、社会変革は、どのような種類の理念を掲げようと、テロリズムとして葬られてしまう。彼らがどのような目的で社会変革運動を為そうとしたのかは、報道されることはない。戦後最大の暴力的な社会変革運動は、新左翼による街頭闘争でもなければ、旧左翼による労働組合運動でもなかった。それは、オウム真理教事件であった。そこでは、サリン等の化学兵器が公然と使用され、首都占領に向けての戦略があったはずである。しかし、様々な変革運動は教祖麻原彰晃の個人的権力欲に還元されてしまい、社会的にはそのように信じられている。ただ、よく考えてみれば、このオウム真理教に対する解釈は、承認できない。サリン事件を起こさなくとも、麻原個人は、現代のどのような大富豪であれ、享受できないような個人的な支配力と金銭を保持していた。彼には、宗教的な盲目的信頼が寄せられていたし、それに基づく金銭も個人では消費できないほど、蓄積されていたからである。にもかかわらず、オウム真理教の社会変革へのプログラムは周知されることなく、彼の個人的欲望に還元されている。

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政治家とキャバクラ労働者ーー千葉7区補選

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/news/20060424ddm041010034000c.html

2006423日における千葉7区の衆議院補欠選挙において、太田和美氏(民主党)が斉藤健氏(自民党)を破り、当選した。この選挙の争点は民主党と自民党の政策の差異にもあったであろうし、武部自民党幹事長の選挙戦術の稚拙性(彼が選択したキャッチフレーズ「最初はグウ、斉藤健」は、「最初はグウ、埼玉県」によって切り返された)にもあったであろう。また、小泉政治の改革路線に対する批判が強まったことも、彼女の勝利に貢献したであろう。

 しかし、近代の原理からすれば、彼女がキャバクラ嬢であり、そのことを自民党が選挙戦術として攻撃材料にしたことがこの選挙の最大の争点であった。私的感情、あるいは自然的感情に基づき、その職業の卑しさを問題にした。近代の理念的世界における原則、職業に貴賎なしという原則を自ら自由を最大の政治綱領にする政党が破壊した。自由民主党の政策によれば、キャバクラ嬢等の風俗産業労働者は卑しい職業であり、斉藤健氏のような官僚は貴い職業になるからである。

 もし、彼女が風俗産業労働者ではなく、近代日本において問題になった特定の職業経験を持ち、そのことが否定的観点から述べられるのであれば、この問題はより鮮明になったであろう。政治的公共性の圏においては、このことは触れてはならない問題であった。にもかかわらず、自由を日ごろ強調している政党が、社会的な職業ヒエラルヒーに基づき、その職業を卑賤なものと公的に承認した。現実的な私的関係において職業に貴賎があることを、ここで非難しているのではない。現実的関係において如何に卑賤なものとして非難の対象になる職業であれ、公的世界においてその卑賤性が問題にはならないということが近代の大原則である。もし、この原則を否定するならば、前近代社会、日本史的に言えば、徳川時代と、近代日本との間には、何ら差異はないことになる。

 もちろん、結果的には、太田候補が勝利し、この問題は表面化しなかった。むしろ、彼女がこの経歴ゆえに敗北したのであれば、この問題は日本政治史の汚点として記憶されたであろう。

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近代における暴力の社会的承認

世界観という概念が現実的世界においても、思想的世界においてもその現実性を喪失して久しい。しかし、諸世界観のうちで最強のものは、身分制社会晩期から初期近代にかけて形成された近代的な自由社会という世界観であろう。この世界観は多くの近代国家、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ、そして本邦においても暴力によって実現化されたもの、あるいはされようとしたものである。

この世界観はその実現のために自己の生命を犠牲に供することも辞さず、かつそのときの公共性と公的規範を破壊することも問題ない。後期近代における用語を用いれば、この世界観を実現するためには、自らをテロリストとみなす。後期近代において、どのような世界観を掲げようとも、烈士、あるいは志士と呼ばれることはない。このような暴力革命への正統性の賦与は、初期近代の終了、つまり後期近代の始まりまで継続する。すなわち、本邦に限定しても、明治維新直後の西南の役から始まり、192030年代における青年将校の反乱は著名である。これらの軍事的手段を用いた世界観の現実化への志向は、最終的に近代国家によって鎮圧される。しかし、社会的には彼らの世界観を現実化しようとする試みは、社会的に承認されていた。この社会的承認は196070年代まで継続する。象徴的に言えば、1968年まで継続する。

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尻拭いとしての「街の活性化」という虚偽

 近代社会は多くの人の生きる基盤そのものを破壊してきた。その基盤を行政、社会が破壊しながら、それを塗布してきた。それを政策という。基盤を破壊しながら、その上部構造のみを行政によって修繕しようとしている。

 たとえば、街づくりという政策が流行している。しかし、街を破壊しながら、その廃墟の上に街づくりを行政が税金を投入して自らの仕事として推進しようとしている。街、とりわけ駅前商店街を破壊してきたのは、郊外の大型店舗である。そのために、郊外に大規模な道路を建設して、その大規模店の繁栄を手助けしてきた。その結果として、駅前商店がシャター通りになった。今度は、そのシャター通りを街づくりの一環として、税金投入によって活性化しようとする。

 これは、マッチポンプである。行政が自らの政策の結果におどろき、その尻拭いをしている。税金の無駄使いである。

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一元化的思考ーー鉄道、郵便局、学校の統廃合

 近代社会は一元的思考に染まっているようである。地方分権という思想は思想の世界では流行しているが、現実は初期近代における一元的思考に基づき、構想されている。本ブログでは、この意味を鉄道、郵政民営化という事例に基づき、考察してきた。もはや、小学校唱歌で唄われた「線路は続くよ、どこまでも、野を越え、山越えて・・・」という世界は、失われて久しい。この20年間の国鉄民営化の歴史は、鉄道の廃止の歴史である。確かに、鉄道の収益性の高い、首都圏、関西圏、中部圏において新線の建設が見られる。しかし、地方においては線路の撤去の話題ばかりである。整備新幹線建設という名の国策のもとで、地方路線の第三セクター化が推進されるであろう。最近も第三セクターによって運営されてきたふるさと銀河線が廃止に追い込まれた。

 昨年は、郵便局が民営化された。その将来は、国鉄と同様な運命をたどるであろう。確かに、東京圏、京阪神圏、札幌圏等の中心的な町における郵便局の利便性は飛躍的に拡充するであろう。しかし、地方において国鉄の廃止と同様な運命を辿ることは、自明であろう。

 そして、今後、10年において小学校、中学校という基礎的教育の現場にも、この近代的合理性の波は、押し寄せるであろう。現在、三位一体という名のもとで推進されている合理化は、地方僻地の破壊を一層推進するであろう。

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郵便局、鉄道の廃止と地方破壊

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060412-00000039-kyodo-bus_all

 地方の特定郵便局の幾つかが廃止されるようである。民営化された株式会社がその経営効率を向上させるためには、効率の悪い営業拠点を廃止することには、問題がない。株式会社は慈善事業を行っているからではないからだ。当然であろう。しかし、民営化に際して、小泉政権はこの点を否定したにもかからず、短期間でこのような結果になってしまった。

 同様なことが、鉄道の廃止によっても生じるであろう。大都市圏を除いて、鉄道問題とは、鉄道廃止問題である。地方では、新線を建設するという話は、整備新幹線以外にほとんど、聞かない。

 しかし、効率重視によって鉄道を廃止することは、同じ理由でもって郵便局を廃止することと同様である。両者の問題の根本において、同一の問題が伏在している。この結果、どのような魑魅魍魎が出現するかは、誰も予想していない。もっとも魑魅魍魎が出現するころには、小泉政権の面々は鬼籍に入っているであろう。その政治責任を問われることはない。むしろ、牛頭馬頭に苛まれるだけであろう。

なお、政治に期待することが不可能であるという点において、我々近代人は、江戸時代の住民とほとんどかわらない。牛頭馬頭に期待するしかないという点では、数百年前と現代との間には、ほとんど差異がない。

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鉄道の廃止と地方破壊ーーふるさと銀河鉄道の廃止

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060411-00000001-mailo-hok

 北見市長選挙が2006年4月9日に実施され、現職が当選した。もちろん、この投票に北見市民でないものは参加不可能である。しかし、もし、居住自治体の選挙権を放棄することを条件に、この選挙に参加することができれば、この選挙に参加するという人もいたであろう。なぜなら、北見市長は、ふるさと銀河鉄道の経営者でもあるからだ。この現職の当選によって、この鉄道は廃止され、鉄路そのものも撤去されることになった。もちろん、対立候補が当選しても、この状況は変わらなかったかもしれないが・・・。

 この問題は、特定自治体の選挙結果が当該自治体以外の住民にとって大きな問題であっても、非該当の住民には、選挙権がないことを今更ながらに、思い知らされた。もし、この市長選挙の争点として、鉄道問題が浮上していれば、参加する人は多かったにちがいない。少なくとも、この鉄道による利益を享受していた陸別町の人々は、陸別町の選挙権を放棄しても、この選挙に参加したにちがいない。北見市長選挙の結果によって、陸別町は鉄道から見放された僻地にすぎないことを、全国的に承認された。少なくとも、この町に子供を抱えた若い夫婦は、移住しようとは思わないであろう。鉄道すらない町は、教育、医療等の基礎的社会資本に恵まれているとは、到底考えられないからだ。

 もちろん、鉄道の廃止という状況に至るまでに、陸別町を中心とした反対運動、乗客増員運動等なすべきことがあったのかもしれない。これは時代の趨勢ではない。むしろ、戦後60年間の近代化政策の結論である。都市へ、中心へと情報、金銭、そして人間を集中させてきた政策の結果である。しかし、地方破壊の果てに、どのような魑魅魍魎があらわれるのかは、未だ明らかになっていない。

 

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高齢者教育学へのはしがき

 以下の所説は、高齢者教育学の展望を述べた部分である。それは、すでに論文として公表されている。

高齢者に対する再教育に関するこの戦略は、高齢者を労働者として市民社会に再参入させるのではなく、労働とは異なる媒介によって市民社会に参入させるようとする。他の戦略が高齢者に対して情報技術的社会に適応する知識を与えようとすることと対照的に、第二の戦略は各人の個性に応じた新しい人格を創造することによって、市民社会に能動的市民として参加させようとする。この戦略は、機能的知識の習得を目的にしている(他のすべての世代にあてはまる)職業教育とは異なる観点から高齢者に独自の教育を施そうとする。それは、高齢者がその人格に適応した本来的自己を確立することを目的にしている。また、それは、「人格性とその環境世界への関係の内にすでに存立している構造の修正ではない。それは意識拡大の意味において、人間的同一性の普遍的意識への脱限界化、死に至るまでの成長可能性としての同一性生成」を追求することである。

生計労働から解放された高齢者が、どのような媒介形式によって市民社会的関係を結ぶのかが問題になる。それは、若い高齢者がどのようにして「収入、家族そして社会的役割によって構造化されていない高齢者段階への移行期において、何かある新しいものが生成するはずの自己同一性を担う活動と関係を展開する」のかである。[2] それ以前の生計労働過程において習熟したものとは異なる能力が、この学習過程において獲得されねばならない。高齢者は数十年にわたる労働生活の体験によって、自己を合理知に順応させ、本来的自己を喪失している。労働世界は、その基礎に商品生産のための大量生産装置を持っている。この大規模装置は、それを操作する工場労働者を産出し、彼らはこの巨大装置を操作する客体へと自己を変容させる。労働はこの巨大装置に従属しており、この装置が環境世界の意味形象になる。この労働世界は、市民、つまり労働者に様々な役割意識を強制していた。大規模機械装置に従属する市民の役割意識が強化されたことによって、本来的自己と自己規制に従う活動は、労働世界において疎外されている。この疎外された自己意識は、長期間の労働生活において市民つまり労働者の肉体に浸透して第二の自然になっている。[3] 若い高齢者に対する再教育は、この第二の自然を解体し、自己に再領有させようとする。高齢者は、労働世界において経験してきた分業に対する役割意識を反省し、自己同一性を反省する能力を獲得しなければならない。これまでの疎外されてきた人間的実存が社会的役割意識の深層構造から救い出され、これまでの自己と環境世界の存立構造が解明され、有機的な社会構成体のうちに再び埋め込まれねばならない。


[1] Ebenda, S.  54.

[2] E. Gösken u. M. Pfaff u. L. Veelken: Curriculumentwicklung, a. a. O, S. 183.

[3] Vgl. W. Klehm u. P. Ziebach: Konzepte zugehender Bildungsarbeit: Das Modell „ Zwischen Arbeit und Ruhestand“.  In: Hrsg. v. S. Kühnert: Qualifizierung und Professionalisierung in der Altenarbeit. Hannover 1995, S. 212.

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石原都知事と政治的感覚ーー彼が支持される理由

リンク: @nifty:NEWS@nifty:小学校の英語、ナンセンス=必修化を批判-石原都知事(時事通信).

 現在の小泉政権が採用している対米従属政策のなかで、保守層、保守的政治思想もまた対米従属派が幅を効かせている。そのなかで、石原都知事は対米協調を主としながらも、それとは異なるスタンスを取っている。文化的対米従属に対しては、断固とした姿勢を示しているからだ。これが、民衆の中の政治的不満をうまく吸収している。もちろん、彼の政治的本質は、自民党的な対米従属を基本としているが、文化面に限定すれば、反米とも取れる政策的スタンスを取っている。

 彼がなぜ民衆の支持を得るのかかが少し理解できた。彼の大学政策、とりわけ都立大学解体と首都大学創設に対して、批判すべき事柄はたくさんある。しかし、彼の独自の風貌とともに、彼が支持される背景がわかる。

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小学校と英語教育ーー米国による再植民地化

リンク: @nifty:NEWS@nifty:小学校の英語、ナンセンス=必修化を批判-石原都知事(時事通信).

リンク: @nifty:NEWS@nifty:名護市と合意の修正案、沖縄知事が反対姿勢崩さず(読売新聞).

リンク: @nifty:NEWS@nifty:米軍再編で新交付金、政府検討…進行状況に応じ3段階(読売新聞).

 小学校における英語の必修化を文部科学省が推進している。この問題は、学力低下の文部省=文科省による推進と同時に、日本文化そのものの基礎の破壊というコンテキストにおいて初めて明瞭になる。日本の政治が米国の「年次報告書」によって遂行されていることは、周知の事柄である。そのような政策を支持する主体を形成することが、小学校における英語必須化の目的であろう。自国語も満足に書けない小学校生徒に対して、英語を強制することは、学力を低下させるという文部科学省の方針に合致している。

 その目的は、批判精神を欠如させた技術的知を操作する主体として、今後社会的に形成することである。最終的には、日本あるいは東洋が持つ文化そのものの基盤を破壊することにつながるであろう。文化は一元化されてはならない。もし、そのことを遂行するものは、はっきりと売国奴としてのレッテルを貼られるであろう。しかし、このような売国的政策を遂行しようとするものが、愛国心を強調することは、滑稽である。愛国心の最大の根拠である母国語を破壊して、愛国心も強調するのは、マッチポンプであろう。

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改革と一芸入試、学生の芸人化

 この20-30年間において、改革という名の「改革ごっこ」が跋扈した。それは、この数年間の小泉改革だけではない。たとえば、教育の場、とりわけ入試の場において顕著であった。帰国子女枠、一芸入試、面接入試等が行われた。それは、筆記学力試験の結果一本槍の弊害を除去するという名目のもとでの改革であった。しかし、このような筆記学力試験の結果だけではない入試方法にも、それ特有の弊害があることが忘れされれていた。帰国子女枠入試によって、日本語、日本史、世界史、数学等に関する基礎知識のない学生が大幅に入学してきた。英語ができるという芸以外の才能を持たない学生が跋扈している。この意味で、帰国子女特別入試も、一芸入試の一範疇に過ぎないであろう。また、面接入試もまた、一芸入試の典型であろう。面接という技術に優れた学生が採用されるからである。そこでは、人格、人間性を試験するという建前であったが、数十分の面接で何が聞けるのであろうか。前もって準備した模範解答を暗記してきて、それを滔滔と述べるだけである。いつから学校は、一芸に秀でた少年を入学させようとするのか。学生の能力は、一芸には還元できない。芸人ではないからである。それは、人間の能力を単純な能力(英語能力、水泳能力等)に還元できるという思想である。そのような単純能力思考こそが、筆記学力試験批判の根拠であたったにもかかわらず、それ以下の単純化が進行した。改革の成果であろう。小さな弊害を除去しようとして、大きな弊害を導入した。

 このような広義の一芸入試(帰国子女優先入試、泳ぎのうまい人優先入試、面接技術に優れている人優先入試)が、なぜ筆記学力試験一辺倒の入試よりも優れているのであろうか。学力低下が議論されているが、学力を問題にしない入試方法が採用されているかぎり、この弊害はいつまでも続くであろう。20-30年前に時計の針を回すことは、不可能であろう。しかし、改革がつねに負の側面を持ち、何からの別の意図によって操作されている現実は、近年の一芸入試の弊害から明らかになろう。

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ふるさと銀河鉄道の廃止ーー存続か?

リンク http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000000603310006

 ふるさと銀河鉄道(社長:北見市長)の存続に一抹の光明がさしている。廃止推進派の現職市長に対抗する市議が、北見市長選に立候補しているからだ。鉄道の廃止は、地方の活性化ではなく、その衰退に拍車をかける。少なくとも、鉄路の無い町に住みたくないと言う人は、多い。東京等に住んでいれば、鉄道に乗車することは、空気のようなものである。しかし、地方では鉄路そのものを廃棄し、道路に転換することが、当然の雰囲気もある。そのなかで、鉄道存続派の人間が、北見市長に立候補したことは、有意義であろう。

 ただ、この第三セクターという存在様式も、また存続にあたって再検討すべきであろう。社長が北見市長の片手間の仕事であれば、また経営も困難になるからである。現職市長は、ともかく多忙であるからだ。経営という労働は、専念すべき労働であろうと考えられる。

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鉄道と公共性ーーふるさと銀河線存廃問題

 鉄道は公共性を涵養してきた。少なくとも、そこでは他者に迷惑をかけるなという点は、乗車している人間全体に共有されていた。その範囲内において、自由を享受してきた。そこでは、野放図な恣意的自由ではなく、限定された自由が享受されていた。個体的自由がほぼ満喫できる自家用車とは、異なる種類の自由が享受されていた。

 しかし、近年、自家用車の普及とともに、鉄道の廃止が愁眉の課題になっている。ツクバエクスプレス等の新線の開業に沸く東京、大阪圏を除いて、地方に鉄道が新たに建設されることはない。むしろ、廃線が多くの地方で問題になっている。ふるさと銀河鉄道もその好例である。しかし、鉄道は公共性の涵養という教育学的観点からも、重要な役割をなお、占めている。

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道路の鉄道線路への転用ーー法律的根拠

「2006年3月30日 (木)、道路特定財源と鉄道建設ーー道路の鉄道への転用」

という記事を執筆した。この点について、補足したい。もちろん、線路へ道路を転用することは、原則的には禁止されている。しかし、その転用は法律的根拠を持っている。その詳細については、国土交通省のホウムペイジを参照すること。なお、この法律に付随する政令、省令もある。根拠無きものではない。
 なお、逆の事例、すなわち鉄道線路の道路への転用は、頻繁に起こっている。地方路線が廃止されているからである。

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