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パーキンソン病予防と喫煙

 パーキンソン病は、脳細胞におけるドバミンという物質が減少することによって、生じる病である。この疾病に罹患すると、手足の震え、歩行困難、そして最終的には寝たきりになる。この疾病に罹患しない方法は、ほとんどない。但し、現在有効とされていることは、タバコを吸うことである。予防にとって重要なことは、タバコを喫することによって、ドバミンの減少因子が妨害される。このことによって、少なくともパーキンソン病にならない。

 しかし、このことから、「パーキンソン病にならないためには、喫煙をしなければならい」という結論を導出すれば、この命題は正しいであろうか。「・・・」の命題のうちには、何ら錯誤はないと仮定すれば、この命題は正しいのであろうか。逆を考えれば、解答は簡単である。タバコを喫することによって、他の疾病を誘発する危険があるからである。命題の正しさは、その命題自身にはないことになる。

 この逆も同様である。「喫煙は肺がんの誘発因である」という命題も同様である。「・・・」と同様な問題を包含しているからである。命題それ自体における正しさは、命題そのものの正しさを保障しない。命題ーーしかも唯一の正しい命題ということをモットーにしている政党、党派、そして個人もまたこの怪しい論理に撮り付かれている。しかし、命題そのものの正しさは、存在しないのであろうか。その命題の歴史的正当性にしかないのであろう。

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努力しても報われないーー荒川静香

 荒川静香が金メダルを獲得した。このこと自体は、喜ばしいことである。しかし、今後一週間、あるいは本年度中、彼女の幼少期以来のビデオが放映されるにちがいない。彼女は幼少期以来、スケイトに命をかけ、練習に次ぐ、練習を重ねていたと。このような金メダリストであれば、当然のことを強調するマス・メディアには、疑問を感じざるをえない。金メダリストという概念のうちに、そもそも練習を重ねていたという事実は、含まれているのであるから。

 むしろ、彼女以上に努力を重ね、そして日本代表にすらなれなかった人間が多数をしめているはずである。むしろ、努力しても報われない人間の栄光と悲惨のほうに、共感を覚える。努力した人すべてが、金メダルを獲得するのではない。むしろ、努力したけれど、代表になれなかった人間が多いはずである。

 しかし、ここで努力が無駄であると、主張しているのではない。報われなくても、努力する人間が多数いることが、社会的に承認されるべきであると、主張しているにすぎない。その数が多いほど、その社会は健全であろう。

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荒川静香と社会科学

 荒川静香が金メダルを獲得した。そして、彼女はここに至るまで涙ぐまし努力をしてきた。当然である。努力をしなければ、金メダルを獲得することは不可能である。しかし、彼女以上に努力した人間は、かなりいたはずである。また、彼女の栄光が努力だけに基づくのではない。運もある。たとえば、オリンピックと彼女の年齢が3年ほど、ずれていたらどうであろうか。3年後にもまた、金メダルを獲得できるであろうか。おそらく、この年が彼女の肉体と精神の最高の年であったことは、疑いえない。また、4年後、金メダルを獲得できるかと言えば、その可能性はかぎりなく小さいであろう。

 したがって、彼女の金メダルを彼女の努力だけに還元するのは、愚かである。逆に言えば、すべての人間が彼女と同等の努力をしても、金メダルを獲得することは、できないであろう。努力をするための環境が整っていたことは、看過されてはならない。夢を叶えるためには、努力は必要であるが、努力をしたからといって、夢を叶えることはできない。昔の諺に従えば、天地人に適わねばならない。その条件を社会科学は解明することは、できるのであろうか。政治学も哲学も不可能であろう。このごろ、この点に関しては、ほぼ絶望的な結論を抱いている。

 

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辞職するな、永田氏、辞職しろ、竹中氏

リンク: @nifty:NEWS@nifty:永田辞職意向、野田留任で「責任ドミノ」防ぐ(夕刊フジ).

 永田氏の辞職を求める声が、永田町、マス・メディア界では多い。しかし、国会質問で用いた資料に錯誤がある場合、それによって議員辞職していては国会質問は事実上、不可能である。また、ガセネタ、あるいは誤った情報によって答弁している国会議員は、竹中氏をはじめ、数多くいる。その議員の辞職を求めるほうが先決である。この案件によって確かに、武部氏親族は多大な迷惑を蒙っている。その賠償は必要であろう。しかし、郵政民営化によって、過疎地の郵便局が廃止されることはない、と答弁した竹中氏は辞職に値しないのであろうか。彼の虚偽の答弁によって、選挙結果もまた、おおきな差異が生じている。この責任は誰が負うのであろうか。

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永田議員の辞職と竹中大臣の辞職

リンク: @nifty:NEWS@nifty:民主・永田議員がメール問題で辞意(読売新聞).

 民主党永田議員の辞職が報道されている。しかし、彼は、誤った資料、あるいは裏の取れない資料を使用して、議員質問を行っただけである。それによって、法律が改悪されたわけでも、国家予算が浪費されたわけでもない。また、数兆円の価値がある国家財産が水泡にきしたわけでもない。国民の財産が減少したわけでもないし、国民性生活に支障をきたしているわけでもない。まちがった資料に基づいた発言ならば、陳謝すればよいだけである。発言を取り消して、陳謝すればよい。

 それに対して、竹中大臣の発言(過疎地の郵便局の統廃合の推進)は、自らの半年前の発言を取り消すものである。もし、永田議員が発言を取り消すならば、竹中大臣の発言取り消しと、形式上は同じである。

 しかし、竹中大臣の発言は、それに基づいて郵政民営化という国家的政策が発動されている。国民生活の改革=悪化にとって、重大な背信行為を行っている。それに比べて、永田議員の発言は国民の生活にとってなんら支障を与えていない。まさに、永田議員の発言は、永田町の人間にとって迷惑であったにすぎない。小さな迷惑が議員辞職につながり、大きな迷惑は見逃される。馬鹿げたことである。

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美辞麗句と国家大計の破壊

 郵政民営化に際して、地域社会、とりわけ過疎地、僻地の郵便局の存続に関して、その機能が縮小することはないという言明を、現政府の要人が行った。しかし、その言葉の有効性は半年しか保たれなかった。しかし、かつての政治家の言動は、少なくとも数十年、あるいは100年の射程を保持していた。このような重厚な政治家に比べて、現在の政治家はほとんど、数年の将来しか考えていないように思われる。

 しかし、郵政民営化という問題は、少なくとも100年の歴史を変革するものである。その政策の有効性が半年しか保たれないということは、それだけで政治家として辞職に値するであろう。

 

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地域破壊ーー郵便局だけでない

 本ブログで、地域社会、とりわけ過疎地の郵便局の削減に関する問題に触れてきた。そのことは、私が郵便局オタク、あるいは郵便局になんらかの個人的利害関係を有していることとを意味するのではない。

 地域社会のおける公共機関、公共交通網の破壊が、日本全体の利益を損なうという国家全体の観点から、本ブログはこの問題を取り上げてきた。対米従属関係、さらに言えば、アメリカ社会モデルの日本導入が様々な領域で問題になっており、その一つとして地域社会の破壊とそれによる大都市圏への人口流入=集中が、様々な政策によって推進されているからだ。離島、過疎地、僻地という地域社会に対して、様々な観点から、その存立基盤そのものを破壊しようとする政策が実現されようとしている。そして、集中化した大都市にも、極端な階層分化が進展することによって、想定外の事態が生じる危険性に対して警告を与えてきた。過疎地にも、そして人口流入地域にも、「魑魅魍魎」が発生するであろうと述べてきた。

 本ブログは、このような国家社会全体の存立基盤が、国家的政策によって破壊されることに対して、危惧を抱いている。もちろん、様々な政策は、それなりの理由づけが施されている。郵政民営化に際しては、その効率化が挙げられている。しかし、その政策的整合性にもかかわらず、隠された意図を読み取ってしまう。

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地域の破壊ーー過疎地の郵便局削減

リンク: @nifty:NEWS@nifty:郵政公社、集配拠点1000局削減で3700に(読売新聞).

 郵政民営化の際して、本ブログは首尾一貫して反対してきた。その論点の一つが過疎地における郵便局の廃止の問題である。地域の郵便局が廃止されることによって、あるいはその業務が縮小されることによって、地域社会の崩壊が加速されることを懸念してきた。当時、竹中平蔵氏は「過疎地の郵便局を維持する」と言明してきたし、小泉総理もそのように保障してきた。しかし、半年もたてば、この言説は反故にされる。将来的には、さらなる削減も予想されるであろう。効率だけを問題にすれば、過疎地に郵便局を設置する必要はない。

 政府の担当者も未来永劫にわたって、同一人物が担当することはありえない。事情変更の原則にしたがって、政策は転換される。過疎地の郵便局を維持すること、すなわち赤字垂れ流しの元凶を廃棄することは、民間企業であれば必然であるからだ。このような必然性を竹中氏、小泉氏も民営化の際に、了解していたであろう。もし、このようなことすら、洞察できないとすれば、彼らは無能力者であり、そのような無能力者が政府の一員であることが問題である。おそらく、そうではないであろう。このようなことは、昨年来洞察していたであろう。知っていて、虚偽の発言を繰り返していたことが真実であろう。単純化すれば、彼らは無能力者であるか、嘘吐きであっただけである。

 いづれにしろ、政策担当能力はない。彼らが政府の代表であることが、不思議である。

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政府と社会による少子化の促進

 現在少子化問題は、深刻な事態を迎えていると言われている。女が生涯に子供を生産する数は、1,2人にまで下落している。しかし、その少子化を嘲笑すうように、人工妊娠中絶という形で、子供の数を減らしている。とりわけ、憲法において16歳の女性が婚姻可能であるにもかかわらず、16歳の女性が子供を生産することは、社会的に承認されていない。むしろ、それは犯罪にすらなる。16歳の女性と合意の上であれ、淫らな行為をすることは、児童福祉法、青少年育成条例等の違反となる。もちろん、婚姻という行為は、この淫らに関係を前提にしているにもかかららず、淫らな行為をすることは、犯罪である。子供を生産するためには、淫らな行為を経過することが必然である。にもかかわらず、16歳での婚姻は、社会的、政治的観点からほぼ排除されている。

 子供の生産を抑制しながら、他方ではその生産量の減少=少子化を嘆いている。自分で自分の首を絞めている。法的意味での少子化の促進が行われている現状を変革しなければ、少子化という現象は必然であろう。もちろん、青少年による出産は、社会的に問題のある行為かもしれない。しかし、少子化の阻止という観点からは、有害である。

 

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画一化社会と禁煙の蔓延

 現在、社会では、個性の尊重ということが叫ばれている。その背後には、個性の破壊という事態が進行しているからである。リクルートスーツという名の紺色の背広を着た学生でキャンパスはあふれている。そこでは、グレーの背広を着ることすら、憚られる。自己規制と学校就職課の指導の賜物である。リクルート活動から規制されたいる以上、個性を発揮することなど、不可能である。もちろん、労働者には、個性など必要としないのかもしれない。

 このような画一化された社会において、禁煙という表示が跋扈している。自動車の排気ガスにされされている場所で、禁煙という表示が堂々となされている。排気ガスを否応なく呼吸せざるえない場所で、煙草の副流煙をすうことが気になるらしい。そこでは、ご丁寧に健康増進法の施行のためと表示されている。この法律は食物における化学添加物が、主たるものであるにもかかわらずである。大きな悪は、見逃され、より小さな悪が社会的リンチの対象になる。そこでは、環境破壊の元凶を救済するために、小さな悪が生贄にされている。

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喫煙の自由と個性の尊重

 現在、様々な公共的場所から喫煙者を追放しようとしている。まさに、公共的空間から喫煙いう概念を追放し、禁煙という概念一色に染めようとしている。しかし、過日のブログでも書いたように、喫煙が地球環境を破壊することはないし、煙草を吸って殺人事件を起こしたという話は聞いたことがない。酒を飲み、興奮して殺人事件を起こすことはままあるし、飲酒運転と前方不注意により、自動車事故を起こすことは、ニュースにもならないほど、頻発している。

 喫煙がそれほど、悪いことのようにも思えない(良いことであると主張しているのではない)。ただ、近くに人がいた場合、その人が不快に思うならば、喫煙を停止すればよいだけである。

 一般的に言えば、不快に思ってもどうしようもない場合は、多々ある。横断歩道を歩くときには、自動車の排気ガスを吸引しなければならないことは、多くの人が経験している。にもかかわらず、すべての公共の道路から自動車を追放すべきである、という主張をしてもほとんど賛意を得られないであろう。にもかかわらず、煙草の煙だけが批判の対象になり、排気ガスは問題にすらない。直接数分だけでも排気ガスを吸引すれば、死に至ることはあるが、煙草を数本吸引しても死に至ることはない。

 このような煙草に対する極端な不寛容と、排気ガスに対する極端な寛容は、なぜ両立するのであろうか。明日以降も考えてみたい。その解答への導きの糸の一つが、個性の尊重である。

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地方破壊と鉄道の廃止

 東京やベルリン等の大都市に居住していると、鉄道が廃止されるということに対する不安はない。常に、海外から、そして国内の他の地域から人口流入があり、また観光客、商業目的の一時滞在者が多数一時的ではあれ、滞留しているからである。このような大都市にとって、鉄道は不可欠である。観光客、ビジネスマンは鉄道を利用するであろうし、また地価が他の地域と比較して相対的に高くなるので、大都市郊外に居住する労働者も増えるからである。

 しかし、大都市という範疇から外れた都市、あるいは「市」に昇格できなかった「町村」を中心とする地域において、鉄道はほとんど省みられない。高速道路、高規格道路が縦横に走っているかぎり、鉄道需要は、高校生と高齢者に限定されがちであり、廃線という不安に常に悩まされている。ここ近年に限定しても、ふるさと銀河鉄道(北見・池田間)という北海道東部の鉄道が廃止されることが決定されている。

 しかし、鉄道を廃止して、高速道路等による移動に限定してしまうことは、非常に危険である。ガソリンがリッター・300円を超えれば、現在の物価と収入が固定された場合、現在のように自由に自家用車を使用可能であろうか。また、二酸化炭素の排出量を減少させる場合、自家用車の使用制限も課題になるであろう。京都議定書を批准した日本政府であるが、その遵守を真剣に考えた場合、ガソリン使用制限も視野に入るであろう。

 しかし、自家用車の使用が何らかの理由によって制限された場合、その代替移動手段が問題になる。しかし、電車網を寸断した場合、その再敷設には膨大な資源と時間がかかるはずである。その可能性を考慮にいれない地方自治体、政府はその代替手段をどのようにするのであろうか。その代替手段ーー自家用車の使用制限、環境保護の拡大ーーには、禁煙を推奨しても無意味なことは小学生でもわかるはずである。煙草の煙がオゾン層を破壊することはないし、煙草を吸わなくなり健康になった人間が毎日10キロ以上徒歩通勤するのであろうか。このような馬鹿げた想定が無意味であることは明らかである。

 しかし、政府、自治体は禁煙地域を拡大することには熱心であるが、鉄道を地方都市に敷設することには、不熱心である。なぜであろうか。その思考に根源的欠陥があるのであろうか。ないのであろうか。

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行政主導による地域破壊

  北海道は都道府県制のなかで、現在最大の面積を有している。したがって、すべての事柄を県都に相当する道都札幌に統合することは、不可能である。北海道を幾つかの地方に分割し、その地方に北海道庁の支庁が設置されている。北海道南部に限定すれば、江差町を中心とする桧山支庁、函館市を中心とする渡島支庁等が設置されている。

 しかし、北海道庁は財政難を持ち出し、桧山支庁等を函館支庁に統合しようとしている。もちろん、江差町等は地方破壊につながるとして反対運動を展開している。桧山支庁が廃止されれば、人口流出に拍車がかかるからだ。江差町はかってニシン漁を中心として発展してきたが、現在その面影はない。江差町から鉄道が撤去されることは、ほぼ確実である(江差線の廃止)。このように、江差町を中心とする桧山地方は、北海道庁、JR北海道から見捨てられようとしている。

 さらに、この江差町の活力を削ぐ試みは、一地方の衰退にとどまるだけではない。本ブログでも問題にしてきた行政主導による地域破壊の一環である。おそらく、全国どこにでも見られる光景であろう。ここでは、その事例の一つとして、考えてみただけである。 

 ただ、このような北海道庁の試みに対して、函館市がほとんど抵抗していないことは、奇妙である。桧山支庁を統合した渡島支庁がより強大になると思っているのであろうか。近い将来、函館市が同様な憂き目にあったとき、江差町は同情するのであろうか。否であろう。

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子供の否定--自己の否定

 子供を意図的に作らないという人生哲学を持っている人が増えているという。作らない理由は様々であろうが、その理由を単純化すれば、生活水準を保つためであろう。子供を作れば、自分の時間も減るであろうし、金銭もかかることは、容易に想像できる。また、生活水準を落とさないために、結婚しない男女もこの範疇に入るであろう。

 しかし、子供を生産しないという意思は、自己の存在を否定していることと同様である。なぜなら、自分という意識を持つ人間の背後には、2のn乗の世代にわたる子供の生産という人間的行為が横たわっているからである。数十億という人間の生産過程を経て、現在の自分が存在している。その生命連鎖を自ら破壊することは、自らの否定である。

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暴力の肯定と歴史的発展

 前近代社会は暴力的革命(成功したか否かを問わず)をその出自において暴力的革命を経験している。世界史的には17世紀後半のイングランド革命、18世紀後半のフランス革命、19世紀中葉のドイツ革命、日本革命としての明治維新、これらの革命は暴力的手段を用いて絶対主義君主制、身分制社会を破壊しようとした。また、これらの革命は社会的に承認されていた。近代社会は、その根底に暴力革命を伏在させている。
 初期近代は暴力革命への社会的承認があったが、後期近代において如何なる正当があろうともその社会的承認力は喪失する。逆にいえば、その社会的承認力が喪失することによって、後期近代が始まる。

 しかし、後期近代において、地理的世界におけるすべての国家がこの暴力を放棄できない。国民国家への途上にある国家、初期近代の段階にある国家は、この暴力を否定しない。このことが、国内的にも国際的にも、衝突を繰り返す理由になる。

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目的外の目的設定ーー大学教員

 大学教員にとって、1月末から2月末の時期は、研究業務ではなく、大学行政業務に追われることになる。定期試験、卒業判定等の学務関係の仕事だけではなく、新年度の学部長人事、あるいはそれに付随する人事等の学内行政の季節でもある。4月に向けて、これらの人事が一斉に動き出す。もちろん、水面下では秋から動いているのであろうが、大学構成員にとって明示的になるのも、この季節である。大半の教員にとって、これらの人事は人事(ヒトゴト)であるが、その影響を蒙るのもその大半の一般教員である。

 また、年度末にかけて、成績を確定する作業にも追われる。それ自体は非常勤講師も関与する事柄である。しかし、専任教員が苦労する点は、成績判定等における微妙な事柄が、他の教員との関係に関わっていることにある。個人ではなく、他の教員との共同作業という側面がある。

 たとえば、学士論文の判定は教員個人の判断に依存しているが、修士論文の判定は通常、複数教員が関わる。大半の教員はそれほど熱心ではないが、中には熱心な教員もいる。但し、審査にだけ熱心な教員に対して、指導教員は気をつかわねばならない。

 このような他の教員との共同作業を通じて、大学行政は進んでゆく。しかし、多くの教員はこの作業を円滑に進行させるために、大学教員になったのであろうか。疑問である。

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