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官僚制に対する統制

  官僚制に対する統制が社会的に問題になっている。古典的には、官僚制に対する統制は政治家が行うものとして想定されていた。たとえば、ヴェーバーは、『職業としての政治』において、官僚機構に対する職業的政治家がそれを行うべきであると主張している。政治家は、国民から選択された人間であり、官僚が持つ視野狭窄から逃れているからだ。
 しかし、初期近代において官僚制を統御するのは、政治家ではなく、国民自身であると主張されていた。官僚という専門的知識に対して、国民の理性を対置している。国民が理性を持つことが、少なくとも国王に忠誠を誓う官僚よりも、より理性的であると考えられていたからだ。この具体的形式として、官僚の中の官僚、軍隊に対する国民統制を考えてみよう。カール・ナウヴェルクは、この方策として、職業的軍人に対して国民武装を主張していた。もちろん、自治体によって統御された国民自身が武装することである。
 このような主張は、変形されながら後期近代において現実化している。徴兵制である。しかし、徴兵制は官僚に対する統御ではなく、その肥大化にすぎない。軍隊の上層部、あるいは士官は官僚であり、捨て駒でしかない兵隊として国民が武装するにすぎないからだ。ただ、この変形された国民武装は、初期近代における理想とされた国民武装に先祖帰りすることの可能性がまったく否定されてはない。その具体的形式は未だ見えない。ただ、政治日程に徴兵制が上がっている現在、初期近代への逆転も考慮に入れねばならないであろう。

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理念としての単一民族国家

 国民国家が形成途上にあるときに、自由、平等、連帯という理念が実現されるかのような幻想を撒き散らしたことは否定しようがない。現実態において、このような理念が完全に実現されることは、不可能であるにもかかわらず、それは制度化された。この問題は、理念的圏と現実態との二元論として周知の事柄である。近代を構成するこの二元論は、多くの思想家によって糾弾の対象になったが、その二元論を克服すると称した思想はこの二元論をより深刻にしただけであった。

 同じ事柄が、初期近代において形成された民族国家という擬制にもあてはまる。この擬制がなければ、近代国家は成立しなかっただろうし、地域国家(日本史の事例を用いれば、藩意識)という制限も打破できなかったであろう。もちろん、この擬制が擬制であるかぎり、その内部に国民国家=民族国家とは相容れない要素があったことも事実である。少数民族をその深部に抱えていたからである。ドイツ帝国には、ユダヤ人、スラブ民族が居住していたし、日本にも朝鮮民族、アイヌ民族、オセチア民族が居住していた。しかし、この少数の民族の存在ゆえに、単一民族国家という擬制が誤りであるという主張は、根拠がない。この擬制は自由という理念の場合と同様に、二元論として処理されるべきである。

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地域破壊と禁煙ファシズム

 地域破壊と禁煙ファシズムという二つの概念は、関連がなさそうである。しかし、両者には同一の思考様式が隠されている。たとえば、本ブログにおいて、地域破壊と札幌オリンピック誘致の問題を検討した。その際、札幌オリンピック誘致の理由の一つは、過疎化が著しい北海道の地域活性化であった。しかし、この誘致によって、札幌圏以外の北海道の過疎化はより進展するであろう。地域活性化という目的は、地域破壊という結果をもたらす。

 禁煙ファシズムも同様である。ここでの問題点は、人間の健康である。しかし、健康問題がタバコという対象に矮小化されることによって、より大きな問題、たとえば自動車の排気ガスによる地球温暖化という点は無視される。地球のオゾン層破壊の元凶である自動車排気ガスは健康問題から排除され、より小さな問題である煙草が非難対象になる。煙草を燃焼させても、地球環境を破壊するまでには至らない。しかし、自動車排気ガスの排出によって地球環境は破壊され、健康も当然破壊される。健康増進という目的は、排気ガスによる健康破壊という結果につながる。

 このような近視眼的な思考こそが、『馬鹿の壁』を生む。

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ニートと、不変という酩酊

 ニートは、自己の領域を可能な限り狭くしようとする。自己の環境の変化を極端なほど嫌う。職場で嫌いな音楽、たとえば演歌、軍歌が流れてくると、それだけでその職場を放棄する原因になる。また、今までと少し異なる仕事、たとえば事務職に代えてレジを担当することになっただけで、職場を辞める理由づけになる。もちろん、この背景には、職場を辞めても生活に困窮することはないという事情がある。自分の部屋は家賃なしで両親によって提供されているし、三度の食事もほぼ満足した形でとることができる。労働しようが、労働しまいがニート君の生活は不変である。ニート君は、周りの環境の変化することによって自己が変化することを恐れているようである。

 しかし、精神、肉体を含めて自己は変化している。確実に言えることは、自己の肉体と精神も変化、そして老化している。変化している自己を認識することができない。いつまでも、家族の庇護のもとで、永遠の子供という役割を演じることができると信じている。30,40歳になれば、もはや世間は子供としてみなすことはないにもかかわらず、衣食住を両親に依存できると考えている。永遠の子供であると夢想しているし、両親もまたその幻想に酔っている。この酩酊状態がいつまで続くのであろうか。

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福祉と戦争ーー近視眼的思考

 現在、様々な分野で福祉の充実が叫ばれている。高齢者福祉、児童福祉等の分野で多くの改革が進行している。たとえば、児童手当は、小学生にも拡充される。収入制限も大幅に緩和されるようである。この福祉の充実という観点からすれば、如何なる政策であれ、それ自体を否定することはできない社会的雰囲気がある。少なくとも、社会国家において、福祉の廃止を綱領に掲げる政党は、存在しない。現在の福祉国家の受益者からの票を喪失することは、明らかだからである。

 しかし、社会国家という枠組を外して考察すれば、福祉を拡大しようとした、実際に拡大した人々は、社会的責任を負わねばならない可能性もある。現在から70年ほど前には、戦争を遂行した人間が、戦後「侵略戦争加担者」として断罪されたように。少なくとも、彼らは、80年前には、犯罪者でもなく、むしろ社会的英雄であった。国土防衛を遂行することは、少なくとも社会的に承認された行為であった。否、拍手喝采された事柄である。

 現在の福祉拡大主義者は、このような意識を持っているのであろうか。ある事柄には、つねに複数の側面を持っている。ちょうど、60年前の戦争が、国土防衛戦争であると同時に、侵略戦争であり、帝国主義戦争でもあったように。その一面だけを抽出して、その成否を論じるという愚考から解放されてもよい時期ではなかろうか。

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地域破壊と魑魅魍魎

リンク: @nifty:NEWS@nifty:下関駅に放火、74歳男逮捕(共同通信).

 この事件はかなり重大であろう。下関駅という山陽本線の著名な駅がほぼ壊滅したからである。もちろん、この事件の直接的責任は74歳の老人にある。それ以外の何者でもない。
 しかし、地域社会という伝統的社会が崩壊しつつあることも、この事件の遠因であろう。このような大事件を起こせば、地域社会によって本人のみならずその親族も生き難くなることを想像する共同体的な規制がほとんど存在しないこともその遠因であろう。世間、そして地域という規制はなくなりつつある。また、政府、地方自治体によって、地域社会の破壊が進展している。その結果が、このようなまさに想定外の事件を産出している。そして、またこのような事件は発生するであろう。かつて本ブログにおいて、郵政民営化、新幹線建設、そしてさまざま行政施策、国家行政によって、地域社会が破壊されていることに対して警鐘をならしてきた。ある記事で、「魑魅魍魎しか地域社会で住めないであろう」という結論を導いた。まさにこの魑魅魍魎が74歳の高齢者である。

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地域破壊と新幹線建設

 昨日の記事に対して、貴重な助言を賜った。この助言はまさに、非難ではなく、(原義に忠実な)批判であり、コメント欄ではなく、本文において回答する価値があると考えている。その批判の要旨は、交通網の整備は、一極集中ではなく、多極化を推進するという点にある。この批判は、正当である、と考えている。但し、この批判が正当性を持つのは、交通網、とりわけ新幹線の整備が、全国の中核都市を結ぶという点をふまえているかぎりである。

 しかし、北海道新幹線の場合は、この交通網整備の基本的原理から逸脱している。現在の計画に従えば、札幌を基点とする北海道新幹線において、北海道内において停車する駅は、札幌の衛星都市の小樽を除けば、如何なる都市にも停車しない。停車する駅は、すべて町村にしかすぎない。行政上の中核都市、函館市ですら迂回して建設されようとしている。名称は新函館駅という停車駅が建設されるが、実際の建設予定地は大野町である。現在の函館駅からすれば、空港よりもはるかに遠い場所に新幹線新函館駅が建設される。札幌と仙台、東京をより迅速に結合するためでしかない。

 たとえば、ベルリンを例にとれば、空港所在地シェ-ネフェルトよりも、はるかに遠い地域(もちろん田園地域である)にベルリン中央駅が建設されようとしている。そして、現在の中央駅(ツォー駅)から、アクセスはほとんど無いという仮定をすれば、ベルリンの住民はどのような対応をするのであろうか。バスで数10キロ離れた新駅を利用するのであろうか。

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地域破壊とオリンピック誘致

 札幌でオリンピックを開催することが、北海道でかなり話題になっているようである。もちろん、福岡、東京等も立候補しており、札幌で開催されることが決定されたわけではない。しかし、札幌で今世紀にオリンピックを開催することによって、他の地域の衰退に拍車がかかるであろう。緊縮財政の道政にもかかわらず、金銭が札幌とその周辺に集中することは自明の理であるからである。逆に、札幌圏以外の地域には、必要な資金は投入されない。一極集中を加速するためのオリンピック開催であれば、他の地域は冷ややかに見守るしかないであろう。

 国土の均衡的発展を考えるならば、基盤整備にほとんど金がかならない東京での開催が、もっとも適当であろう。宿泊施設、交通基盤等のために、オリンピック開催のために公的資金が大量に投入されることは、ないからである。

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地域破壊と行政責任

 過日の記事において、札幌圏への人口集中の問題を指摘した。より正確にいえば、この札幌圏の人口は約330万人である。北海道の人口が約560万人であるので、その6割が札幌圏に居住している。しかし、札幌圏の面積は約12%しかすぎない。

 もちろん、この人口集積の理由は産業構造の変化(漁業、農業、石炭業の衰退等)と密接に関連している。しかし、この札幌圏への人口集積とその他の地域の過疎化は、産業構造の変化、あるいは住民の自発的意思だけに拠るものではない。むしろ、行政、とりわけ北海道庁、ならびに中央省庁の意思が関連している。行政が札幌圏へと人口、情報、金等を集積している。

 その事例は、北海道新幹線の建設問題からも容易に推定可能である。たとえば、この新幹線は札幌と仙台、東京等を結びつけるために、北海道最古の都市、函館を迂回して建設されようとしている。このルート作成には、北海道庁だけではなく、中央官庁も関与しているはずである。このような事例は、北海道では容易に見出される。また、この事例は、北海道だけではなく、日本全国で見出されるはずである。過疎化が進行したから、行政がそれを追認したのか、逆に行政がそれを推進したのかは、わからない。卵と鶏の関係にあるからだ。しかし、行政がそれを推進した責任は大きいであろう。

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地域破壊と鉄道

 かつて、70数年前、日中問の最大の懸案は、南満州鉄道の平行線を中国の支援を受けた米国が建設しようとしたことにあった。南満州鉄道は日本の生命線であり、この鉄道経営を圧迫することは、日本という国家そのものの存立基盤を危うくするものであった。満鉄平行線を建設しようとしたことが、ある意味で、満州事変、そして太平洋戦争の原因の一つであった。多くの日本人、そして中国人の血が流れた。

 現在、JR各社の在来線、あるいは新幹線に対抗して、線路を敷設しようとする資本家は国内においては存在しない。しかし、国家資本は、これまで平行線を鉄道ではなく、高規格道路、高速道路という形で建設したし、これからも建設しようとしている。それは、鉄道事業を衰退に導くであろう。

 そして、鉄道事業を衰退させ、自家用車による長距離移動を促進することは、環境保護、そして公共性の維持という観点から、問題がある。自動車による長距離移動は、二酸化炭素をより、排出し、石油という資源を浪費することにつながる。また、自家用車による移動を促進することによって、客車という限られた空間において多数の人間が共存するという体験そのものが破壊される。これ以上の在来線、新幹線の平行道路を建設することは、愚かなことであろう。況や、鉄道事業者が在来平行線の建設を行政機関にお願いするという愚行は、嘲笑の対象でしかない。

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謹賀新年ーーネットと専門論文

 新年明けまして、おめでとうございます。旧年中は、多数のトラックバック、コメント等をいただき、ありがとうございます。本年も宜しくお願いします。

 今後は論文の一部、あるいは新聞記事の一部も掲載するつもりです。ホウムペイジに掲載するよりも、効果的と考えています。

 堀衛門=ホリエモンではありませんが、ネットと活字文化の融合をどのように考えるかも課題の一つです。活字で公表する論文は、主として専門家を読者層とみなしています。不特定多数が閲覧するネットの世界における専門論文をどのように位置づけるかについては、今だ定説がありません。もっとも、私のブログは、それほど多数の読者を想定していませんが・・・・。

 どのようにブログという新文化を発展させるかについて、今だ試行錯誤です。ブログの内容だけではなく、その形式についても考えてみます。ご教示の程、お願いします。

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