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地方破壊と近視眼的思考

 行政効率を改善するために、今はやりの言葉を用いれば、改革するために県庁所在地、あるいは将来の道州制の州都(札幌、仙台等)への人口、情報、金銭等を集中させている。この目的を実現するという合理性の観点からすれば、この方策は理に適っている。行政効率、あるいは一般に効率そのものを上昇させるために、集中という手段は、少なくとも拡散化よりも優れていることは、小学生でも理解可能であろう。

 優秀であると自他ともに認めている日本の総務省キャリア官僚は、このことを重々に承知している。彼らの理性に従って、この国家を変革することは、彼らにとって快感であろうし、目的合理性の追求という観点から賞賛されこそすれ、非難される謂れはないのかもしれない。しかし、この目的はさらに上位の目的に適っている場合にのみ、妥当する。

 逆に言えば、彼らは事柄のすべてを見通してこの目的を設定したわけではない。突飛にl聞こえるかもしれないが、行政効率の向上という観点と、少子化はどのような関係にあるかという点には、顧慮さえもしていない。せいぜい、地方破壊と道州制州都の繁栄が進展すれば、犯罪が増加することぐらいしか顧慮していない。

 このような近視眼的合理性しか持ちえていない官僚が跋扈することによって、その合目的性そのものが破壊されることは誰も顧慮していないことになる。広大な過疎地を産出することによって、日本という国家が破綻する場合、彼らはどのような責任をとるのであろうか。おそらく、その時には彼らは特殊法人に天下っているか、年金生活者であろう。責任の取り方を法制化してもらいたい。もっとも彼らは自分に不利な法律は立法化しないであろうが・・・。

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