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2006年の展望--楽観と悲観を超えて

 2006年の展望が新聞各社、テレビ各社等によって公表されている。そのほとんどが明るい日本を展望している。しかし、来年が明るいか暗いかは、ほとんどわからないという言うのが実情であろう。自らが所有している限られた情報に基づいて判断しているにすぎない。

 たとえば、政府が公表している債務は800兆円ほどある。しかし、家計で言えば、預金に相当する金融資産、つまり外貨準備金、内外投融資等は、500兆円ほどあり、粗債務から金融資産を差し引いた純債務は300兆円ほどである。800兆円の債務に基づき、財政破綻を危惧しても致し方ないであろう。政府の公表する数字が正鵠であるかぎり、未来を悲観しても致し方ないであろう。むろん、純債務の300兆円が多いか少ないかは、また別の議論が必要であろう。財務省の公表する数字は正確であるが、その意味するところは、別のコンテキストにおいて議論されるべきであろう。

 超悲観論から、超楽観論まで千差万別である。一寸先が闇であるかぎり、別の指標が必要であろう。歴史観、とりわけこの数百年の歴史が何を為し、何を目的にしたかを再度検証する必要があろう。自らが依拠する歴史観、宇宙観が問われている。

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地方破壊と近視眼的思考

 行政効率を改善するために、今はやりの言葉を用いれば、改革するために県庁所在地、あるいは将来の道州制の州都(札幌、仙台等)への人口、情報、金銭等を集中させている。この目的を実現するという合理性の観点からすれば、この方策は理に適っている。行政効率、あるいは一般に効率そのものを上昇させるために、集中という手段は、少なくとも拡散化よりも優れていることは、小学生でも理解可能であろう。

 優秀であると自他ともに認めている日本の総務省キャリア官僚は、このことを重々に承知している。彼らの理性に従って、この国家を変革することは、彼らにとって快感であろうし、目的合理性の追求という観点から賞賛されこそすれ、非難される謂れはないのかもしれない。しかし、この目的はさらに上位の目的に適っている場合にのみ、妥当する。

 逆に言えば、彼らは事柄のすべてを見通してこの目的を設定したわけではない。突飛にl聞こえるかもしれないが、行政効率の向上という観点と、少子化はどのような関係にあるかという点には、顧慮さえもしていない。せいぜい、地方破壊と道州制州都の繁栄が進展すれば、犯罪が増加することぐらいしか顧慮していない。

 このような近視眼的合理性しか持ちえていない官僚が跋扈することによって、その合目的性そのものが破壊されることは誰も顧慮していないことになる。広大な過疎地を産出することによって、日本という国家が破綻する場合、彼らはどのような責任をとるのであろうか。おそらく、その時には彼らは特殊法人に天下っているか、年金生活者であろう。責任の取り方を法制化してもらいたい。もっとも彼らは自分に不利な法律は立法化しないであろうが・・・。

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地域破壊と地方分権

 現在、日本の様々な問題点を解決するために、様々な方策が検討されている。この10年を例にとれば、景気回復と称して様々な減税が実施された。しかし、現在の時点から考察すれば、それは、景気回復のために減税ではなく、ただたんに直接税を減らし、間接税、とりわけ消費税を値上げするための方策でしかなかった。ほぼ万人が承認する政策を掲げながら、それとは別の意思を実現するための方策でしかなかった。景気回復はお題目であり、直間比率の見直し、つまり間接税の増税でしかなかった。

 同様に地方権限を増大させるという政策、たとえば地方分権が叫ばれている。しかし、その本質は、地方の破壊である。地方分権によって、栄えるのは特定の地方でしかない。北海道、東北地方を例にとれば、札幌と仙台でしかない。もちろん、ここでは札幌と仙台という行政区分ではなく、より広義の札幌圏と仙台圏を意味しているが、この圏域から逸脱した地方は、札幌と仙台に人口、情報等を吸収される地域でしかない。地方分権によって、これらの地方の過疎化と衰退はより進行するであろう。

 ただ、理解できなのは、このような地方の衰退によって、国家は何を目的にしているのか。この意味を了解できるのは、ほぼ10年の歳月がかかるであろう。そのときになれば、もはや手遅れであり、地方には魑魅魍魎しか住めなくなるであろう。日本の伝統を破壊して日本を外国資本、外国政府に売り渡そうとしているのであろうか。

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サークルと大衆

 近代日本において、前近代的な身分制に代わる中間団体として、会社共同体が少なくとも1970年代まで機能していた。後期近代日本においてこのようなことを主張すれば、アナクロニズムとして嘲笑されるであろう。しかし、なんらかの中間団体は必要である。欧州では、サークルがその機能の一部を担っていた。

 そのサークルはアソツィアティオンと呼ばれていた。中世社会の解体により、個人は中間的身分を喪失し、直接国家と対峙することになった。もちろん、国家の側からもその再組織化が試みられたが、塊、大衆としての国民もその再組織化を試みた。それが、アソツィアティオンである。この組織は、自由で自立的な国民を前提にしている。この国民が自らの自由意志に基づいてこの組織に参加することによって、その塊としての自己を揚棄しようとする。

 この組織は、最近の研究によれば、単なる労働問題を解決するための組織ではなかった。それは、読書サークルであり、歌声サークルであり、談話サークルであった。たとえば、読書サークルを例に取れば、当時は本の出版数も少なく、個人が気軽に本を購読するという習慣はなかった。書物は高価であり、読書は必ずしも個人的行為ではなかった。新聞すら個人的に読むものではなかた。書物、新聞、雑誌等の活字印刷物は集団的に音読されるものであった。

 また、音楽もまた、個人で楽しむ娯楽ではなかった。況や、カラオケという密室で歌われるものでもなかった。それは、音楽サークルとして、集団的に行使される娯楽であった。集合に何かを形成する場所があった。その場所として、地域単位にある種の集団が形成されていた。

 このアソツィアティオンの潮流は、後期近代における欧州においても部分化、専門化された形で厳然として残存している。体育(サッカー)、あるいは地域におけるパブ等として地域住民が常に集合する機能として残存している。また、労働組合も現在では労働条件の改善のための機能集団として専門化されている。しかし、19世紀、あるいは初期近代においては、後期近代において専門家された機能が渾然一体となっていた。その時代の理論家が、この集団性に着目して、新たな身分に代わる中間団体として理論化しようとした。

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『毎日新聞』記事ーー地域破壊と新幹線

 昨日の『毎日新聞』の記事は、直接的には新幹線新駅問題と関連している。執筆している内容は、新幹線の新駅建設に対してある種の危惧を表明していることである。おそらく、同じ紙面に掲載された「北海道新幹線予算増額」との関連で掲載されたのであろう。

 しかし、この記事の本質は、地方の衰退に対する批判である。、『毎日新聞』は私の記事の本質を見抜いていたのかもしれない。なぜなら、その記事の下には、「北海道における支庁の統合問題」が掲載されているからである。周知のように、広大な北海道には、道庁(札幌市)の他に、幾つかの支庁が設置されている。北海道南部に限定しても、渡島支庁(函館市)、桧山支庁(江差町)、胆振支庁(室蘭市)等が設置されている。しかし、今回道庁はこれらの支庁を函館支庁に統合しようとしている。支庁が消滅する江差町、室蘭市等は、今後の衰退に拍車をかけるとして反対運動を展開しているが、道庁(札幌市)の意向は強行である。道庁主導によって、江差町等の衰退が推進されている。このように地方は、道庁によって破壊される。本来、地方の活性化を推進すべき道庁は、その本旨から逸脱している。

 このように新聞紙面は、一つの宇宙を形成しているのであり、注意深く読むらば、その紙面構成から、当該記事の本質が照射されている。このような紙面構成ができるのは、伝統ある新聞のなせる技であろう。

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『毎日新聞』記事公表ーー地方破壊と新幹線

 本日、20051223日に『毎日新聞』において「北海道新幹線:ホーム増設、在来線複線化――新函館駅の「通過駅」回避への提言」を発表しました。御笑覧いただければ、幸いです。以下のアドレスに掲載されています。

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/hokkaido/news/20051223ddlk01020043000c.html

  この問題は単なる鉄道問題に限定されることなく、地方自治の根幹に関することと関連しています。地方都市を衰退させる政策が、現在進行しています。将来の道州制における州都(札幌、仙台等)へ人口、資源、情報等を集約しようとしています。それは行政効率の上昇という観点からは有効ですが、それ以外の地方都市を衰退させます。その潮流に対する一定の歯止めを意図しています。

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ニートと負け犬ーー完全性の追求

 昨日の記事で、ニートと負け犬(結婚しない男性と女性)が相似していることを指摘した。さらに、完全性を追求するという観点からも、両者は相似している。ニートは職につかない若者であるが、職業が社会からまったく喪失しているわけではない。低賃金労働、あるいは3K(キツイ、キタナイ、キケン)な労働は、慢性的な人手不足の状態にある。このような職に就くことは、彼らの誇りに反することである。理想とする職業、たとえばクリエイティブで高賃金な職だけが彼らにとって職業である。それ以外の労働は、彼らにとって労働ではない。しかし、どのような職業でも準備期間があり、そこでは彼らの理想に反することが常態化している。たとえば、画家のような芸術家は、期間の定めのない修行時代をほぼ例外なく、すごしている。そこでは、低賃金ですらなく、報酬はゼロである。いな、持ち出しのほうが多いであろう。そのような準備期間のことは彼らの思念にはなく、彼らの理想とする労働形式のみを想定している。

 また、負け犬もまた、完全な配偶者像を持っている。容姿、収入、社会的承認、家柄、性格等の観点から、そのすべてを満たす異性を求めている。確かに、広い世の中には、このような異性も存在しているかもしれない。しかし、このような完全な異性は、負け犬を選択することはない。このような完全性を追求することは無駄である。自分自身もまた、このような完全な人間ではないからである。世の中において完全性を見出すことは馬鹿げたことであろう。

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ニートと負け犬ーー時間の有限性

 昨日の記事で、永遠のニート、あるいは永遠の受験生が発生していることを指摘した。その原因は、時間の有限性を認識していないことにある。大学受験であれば、10年浪人生活を送ることはほとんど考えられていない。その多くは、2年間の浪人生活を経験すれば、自分の能力の限界を知るからである。そして、その能力に応じた大学を受験することになり、10年間、浪人生活を送ることはない。しかし、司法試験、あるいはコンピューターソフト開発に人生を賭けるニートは、自らの能力に絶大な信頼を置いており、能力が減少していくことに気がつかない。肉体、そして精神もまた摩滅していく。人間が老化し、屑鉄化してくる。

 にもかかわらず、永遠に勉学、研究を続けることによって、目標が達成されると信じている。それは、負け犬も同様である。負け犬は言い寄ってくる異性が若いときには多くいたはずである。にもかかわらず、現に言い寄ってくる異性よりも、将来においてよりよい異性が言い寄ってくるという心情を保持している。今年は合格しなかった、あるいは目標が達成されなかった、あるいは言い寄ってくる異性は冴えなかったが、来年は良い結果が生じるであろうと自分自身に言い聞かせている。将来がなぜ、今よりもよくなると仮定できるのであろうか。10年立てば、容姿も衰え、記憶力も衰退してゆく。時間は限定されている。

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ニートと賭博、あるいは司法試験

 ニートになる人は、一攫千金を目指していると過日の記事において指摘した。さらに、この一攫千金は、賭博者の心情と相似している。今は敗北しているが、明日には、勝つということを前提にしている。この賭博者の心理は、司法試験受験者の心情と似ている。司法試験は最難関の国家試験の一つとされている。その合格のためには、多くの受験者が20歳代の人生を賭けている。もちろん、在学中に合格する学生もいるが、その多くは大学卒業後、数年間、ほぼニートと同様な生活をしている場合もよく見聞きする。

 しかし、30歳、あるいは40歳を超えると問題は、複雑になる。その多くは、所得税免除という低収入に満足しなければならないからである。これらの受験生の多くは、名門大学の出身者であり、気位も高い。同窓会に行けば、年収数千万円の同級生もいるし、その多くは家族を養い、子供の話題に花が咲いている。にもかかわらず、高校生のバイトとほとんど変わらない収入しかないニート君は、その輪の中にはいることはない。

 しかも、40歳を超えると、就職もままならない。このような受験者は、いつかその途を断念しなければならないはずであるが、おそらく生涯受験するしか選択の幅はない。もちろん、50歳を超えて合格する場合もある。ちょうど、高校卒業後、10年以上予備校に通い、東大に入学するケイスに似ている。合格は喜ばしいが、大学に入学して何を学ぶつもりであろうか、という疑問が生じてくるからである。

 しかし、どこかにこの円環から抜け出る途もあったはずである。その選択をしなかった原因はどこにあったのであろうか。

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ニートと永遠性

 ニートとは、現在否定的評価が多いようである。しかし、ニートを広義のモラトリアム(青年期特有の職業等を決定しない期間)の一種と考えれば、人生の一時期にニートになることも必要かもしれない。また、中年以降になってもニート的な時間も必要になることもあろう。家業が倒産したり、突然退職金もなく、解雇されることもあるからである。

 しかし、問題はその期限が明確になっていないことにある。ニートとして存在している若者はいつまでニートを継続するのであろうか。その期限を自分、あるいは両親と明確にしておく必要があろう。そのかぎり、ニート的な生活をしながら、夢を追うということも許されるのも知れない。しかし、この時間を限定するという行為は、自分あるいは両親との約束であるかぎり、守られない可能性もある。ニート的生活が永遠になり、死ぬまで(本人、あるいは両親)までニートという途も残されている。それは本人もまた幻想のなかで生活することになる。永遠のニートが誕生する。

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移民と思考様式

 昨日、移民政策を考察する上で、美辞麗句を並べる単純思考を批判した。単なる経済意的観点、企業利潤の拡大という観点からこの問題を考察すれば、他の観点からの問題、たとえば文化的観点、社会福祉的観点からの問題が不可視になる危険性を指摘した。

 一般的に言えば、問題を考察する際には、可能な限り想定しうる論点、観点を顧慮しなければならない。現実の政策を考察する場合には、経済的観点、あるいは金銭的観点から考察されてはならない。近年、経済的観点からのみ、物事が考察された。本ブログでも今年の夏考察したような郵政民営化問題もその一つである。過疎化は現在ほとんど、取り返しのつかないほど進展しているが、郵政民営化によってこの問題は破滅的に進行する。それはたんに人口が減少することだけにとどまらず、環境問題にも多大な影響を与えることににもなるからである。過疎地の水田が耕作放棄され、その保水機能が壊滅する。このような論点はほとんど、顧慮されることはなかった。学問があまりに専門化されたため、このような問題まで言及されることがなかったからである。

 移民の問題を考察する際、経済学者だけではなく、社会福祉学者、環境政策学者等が動員されねばならない。現実はハリウッド映画のように単純ではないからである。

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移民と文化的思考

 現在、単純労働力が不足している。少子化の影響もあり、この数十年の間にこの問題は深刻化することが予想されている。財界の一部は、この不足を補うために移民を導入しようとしている。

 しかし、単純労働力であれ、あるいは複雑労働力であれ、移民を日本社会へと大量に受け入れることは、単なる経済学的観点からのみ考察されてはならない。確かに、経済学的観点からすれば、この移民政策は、企業の利潤を増大させるであろう。低賃金労働力が大量に労働力市場に導入されれば、それだけ企業の選択肢は明らかに増えるであろう。しかし、この問題は経済学的観点からのみ考察されてはならない。なぜなら、30歳前後の移民は、数十年たてば、高齢者になる。高齢者になれば、この移民を母国に召還することは不可能である。彼らを福祉政策の対象にしなければならない。また、この移民の子弟は、母国の文化的環境を保持したままで、母国語使用能力を喪失する。彼らの教育はどのようにすべきかも未だ、明確ではない。

 また、彼らの文化が日本の文化とどのように共存するのであろうか。共生という単純、かつ耳障りの良い概念でこの問題をかたづけてはならない。たとえば、彼らがイスラム教徒であり、一夫多妻制を保持したままである場合、日本の一夫一妻制と共存できるのであろうか。それとも、彼らに一夫一妻制を強制するのであろうか。ここでは、共生は強制へと変容している。

 このような文化的観点、社会福祉的観点から、この問題を考察しないかぎり、日本社会は大きな困難を抱えることになるであろう。ドイツ、フランス等の西欧での経験を参照しないかぎり、問題は残るであろう。短期的視野から、問題を考察してはならない。

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ニートと就職、あるいは大学教員への途

 これまでのニートに関する論説は、ニートを否定的に考察していた。しかし、ニートが就ける職業が限られていたからである。しかし、ニートが簡単に、しかも一定の社会的承認を受ける道は、あるように思われる。その一つが大学教員への途である。

 一般に大学教員になるためには、大学だけでなく、大学院修士課程を修了しなければならない。さらに、この修士課程における競争を突破し、大学院博士課程を優秀な成績で終えなければならない。また、博士号を取得するためには、一般的学術書の水準を超えた博士論文を執筆することが要件と考えられている。そのためには、50歳前後まで、修行中という博士号取得者(所謂、オーバードクトル)がいる。彼らの生活様式は、ほとんどニートと変わらないか、あるいは生活の手段が両親から配偶者に移行している場合も多い。

 このような大学教員養成過程は、たとえば哲学、思想史、神学等の分野では珍しくない。これらの学会に行けば、40才代の研究者は小僧扱いである。英語、ドイツ語、フランス語だけではなく、ラテン語文献を読んで当然という学問分野もある。このような言語を習得するだけでも、少なくとも一朝一夕にできるものではない。

 しかし、大学教員のすべてが博士課程修了者ではない。おそらく、学問分野だけはなく、社会的分野においても、このような穴場はいくつもあるはずである。大学教員の世界ですら、このような途もあるから、社会にはこのような途は多々あるのであろう。

 ニート君、望みは捨てないでおこう。ただし、大学教員になるためであれば、最も困難な分野を選択する必要もない。安易な途を探索してはどうかという提案である。しかし、この安易な途をニート君が選択しないような気もする。あくまでも、狭き門を目指すのも人生の選択の一つであろうから。

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ニートと大衆的存在様式

 プロレタリアートとは、近代において大量に発生した労働者の一形式である。通説として、プロレタリアートは工場労働者として訳されている。しかし、その雇用形式は現在の社会国家における一般的な工場労働者、あるいは労働者とは、異なる。それは山谷(東京)、釜ヶ崎(大阪)等に住む日雇労働者にかぎりなく近接している。この国民的共同体の周辺にいるプロレタリアートをいかに社会統合の対象にしてゆくかが、ドイツ三月前期の課題であった。この課題は19世紀から20世紀初頭に至る初期近代における政治的、社会的課題であった。このプロレタリアートという社会的存在形式は、古代社会における奴隷に近い状態であった(初期近代日本を例にとれば、この事態は『ああ、野麦峠』等によって描写されている)。この労働者を社会内統合の対象にするのか、あるいはその外部化を目的にし、社会変革の主体にすべきであるか否かが、問われていた。もちろん、ナウヴェルクは前者を志向しており、その途は社会国家への途であった。

 後期近代において社会国家が制度化されることに、この論争に終止符が打たれる。プロレタリアートを社会内統合することによって、プロレタリアートを社会変革の主体にしようとする運動の基盤が破壊されることである。これを社会変革の主体、つまり個別化された大衆としての塊を階級に形成するためには、初期近代特有の精神的基盤が前提にされていた。それは、このプロレタリアートが個別的な利益を追求する主体でなく、共同的な利益を追求する主体として構成されていなければならなかった。

 個々人の利益ではなく、共同的利益のために闘争することが前提にされていた。しかし、社会国家はこの基盤そのものを破壊する。社会国家がその存立目的としたことは、国民の生命と財産の保護という極めて個人主義的な思想的基盤を拡大することである。社会国家の目的は、個々人の生活の向上であった。個々人の生活が向上することによって、この共同性への指向が破壊される。社会国家が制度化されたことにより、個々人は初期近代における大衆へと逆転する。

 ニートはこの個人主義化された大衆の上に咲いたあだ花である。もちろん、社会国家がこれを推し進めた。

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ニートと共同性ーー50歳のニート?

 ニートの出現は、現代社会の様々な側面と連関している。ここでは、国民共同性との関連において考察していみよう。

  初期近代において国民国家という擬制が生成する。この国民国家において、国家市民としての共同性が生じる。それは我々という意識である。その意識は様々な水準において構成される。同一の法規範に従うこと、最低限度の生活と何かについて、共同的意識を所有すること等様々である。たとえば、同じ法規範を共有することは、必ずしもその規範に従うことを意味するのではない。しかし、その規範に従わない場合でも、その規範が存在し、その規範から逸脱しているという意識を有していることである。たとえば、売春をしてはならないとか、大麻を吸引してはならないという規範を持っていることである。これは、現代日本の法規範に従うかぎり、悪であるが、別の国家、たとえばオランダの法規範に従うかぎり、問題はない。

 ところが、後期近代においてその擬制はかなり衰退してくる。近代における同一性が衰退してくるからである。その要因は多数あるが、近代における個人主義の展開もその一つである。個人が我々という意識を解体しようとする。我々という意識ではなく、個人という意識が肥大化し、前者を凌駕しようとする。初期近代において、個人ではなく、その共同意識が先行していた。この共同意識は様々な水準において設定されていた。家族、親族、地域共同体、そして国家という水準において構成されていた。

 しかし、後期近代においてこの共同性意識が衰退することによって、個人は我々という意識も衰退する。初期近代において、20歳、あるいは30歳において、経済的に両親に依存することは、この共同意識に制約されることによって、不可能であった。親族共同体、あるいは地域共同体によって糾弾されたからである。しかし、この規制がほぼ消滅したことによって、ニートも出現してくる。30歳、あるいは50歳になっても両親の賃金、あるいは年金に依存することによって、生活可能な若者(50歳、60歳の若者?)が出現してくる。ニートは、おそらく70歳になってもニート的生活を送ることになる。

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ニート論に関する中間総括

 しばらく、パソコンが使用不能な状況にありました。新規の記事は書いていませんが、ニート論にかなりのコメントがありましたので、ここで総括しておきます。

 ニートと社会国家、あるいは労働に関する記事ですが、そこには、義務教育、高等学校教育、大学教育論が欠けていました。学校は社会の鏡と言われていますが、おそらく多くの学校では、労働に関する講義、授業が欠けています。また、労働に関する専門高等学校、たとえば、商業高校、工業高校、農業高校は普通高校に比較して、偏差値がより低くなります。江戸時代における士農工商に倣い、「普商工農」と言われて数十年の月日がたっています。現在実業高校は減少し、普通高校に転換するか、あるいは廃校の憂き目にあっています。ドイツのように、職人教育が普通教育と同等の価値をもっているような社会のほうが、ニートを産出しないように思います。

 とりわけ、農業という原初的労働形式が、より低い社会的評価対象になっているように思います。なぜでしょうか。この点にもニート論の問題が伏在しているかもしれません。

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急告

 本文にまったく関係の無いコメントがいくつかきました。このようなコメントは、すぐさま削除させていただきます。本文を読了したことが前提であり、本文とは関係のない日常的感想は、無意味です。ご了解のほど、お願いします。

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ニート予備軍としての学生

ニートは、労働から解放されているという観点からすれば、国家的に生存権を保障される非自発的失業者と同一水準にある。また、形式上、ニートではないが、実質的には、それと同じような社会層が形成される。それは、学生層という社会階層である。もちろん、彼らの多くは勉学に勤しんでいるはずであるが、その一部はニートとほとんど変わらない生活を送ることになる。とりわけ、後期近代において就学期間が延長される。たとえば、初期近代日本において、尋常小学校を卒業して労働に従事することは平均的な人生設計であった。旧制中学を卒業することは、少なくともエリートの入り口に立っていた。大正になっても、同世代のうち5%しか、大学を卒業することはなかった。この80年間で、平均的な労働を開始する時期は、10年以上も延長された。

 さらに、大学進学率だけではなく、大学院進学率もこの20年間で飛躍的に上昇した。30年前には、ほとんど聞いたことのない大学も、大学院を新設している。大学教員の数の上昇は上回っている。彼らは大学院で学ぶことになるが、大学教員への道はほとんど閉ざされている。大学教員のリクルート先は、大学院から産業界、官界へと移動したからである。大学院修了者が大学教員になるという初期近代の前提が崩壊している。ニート予備軍が文部科学行政によって産出される。

 もちろん、国家行政はニートを拡大するために大学、大学院を拡充したのではない。後期近代において、社会が複雑になり、知識、技術を習得するための時間が必要になったからである。初期近代において、読み書き、算盤ができれば、それだけで働く場所はあったが、今日ではおそらく無理であろう。

 このような就学期間の延長がニート予備軍を産出している。20代で労働に従事しない人々が増大したことにより、20代でニートをすることも半ば社会的に承認されてしまった。

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ニートと社会国家

ニートと社会国家

 ニートは後期近代に成立した社会国家と関連している。この社会国家は、初期近代において成立した思想であり、後期近代においてその思想が現実化された。たとえば、カール・ナウヴェルクは、「非自発的な失業者に対して、自治体と国家が最低限の生活保障をしなければならない」という思想を19世紀中葉に表明している(前掲書133頁)。非自発的な失業者、つまり倒産による解雇、指名解雇、疾病と事故等による労働不能者に対して、国家と社会の責任を明確にしている。この思想が後期近代の福祉国家につながっている。

 しかし、この非自発的失業者という概念が後期近代において制度化されることによって、変容する。もちろん、国家的に救済されるのは、非自発的な失業者だけである。しかし、労働から解放された国民が存在し、彼らが生存権を保障されることによって、社会的に以下のような事態が承認されることになる。すなわち、「働かざる者、食うべからず」という初期近代の社会的通念は、「働かざる者が、食う」へと変態する。非自発的失業者という概念は、自発的失業者、無業者、待業者(Arbeitsbesuchende)へと拡大される。

 

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